第62話 リーンハルトの誕生日④
「なっ――!」
あまりのことに息さえできない。
目の前で繰り広げられる光景が信じられないのに、花と多くの貴族たちの姿に囲まれた広間の中央では、今まさにレナがリーンハルトの首に手を回して、強引に自分の顔へと引き寄せているではないか。ピンクの薔薇の蕾にも似た唇に、重なっている相手のが誰のものなのか――。
視界に入った瞬間、目の前が真っ暗になるような気分がした。
鋭く心臓が痛む。
瞬きすらできないイーリスの前で、レナは外れた唇と共に名残惜しそうに振り仰ぐと、リーンハルトの驚いているアイスブルーの瞳を見つめている。
「陛下……」
甘い吐息にも似た囁き声が洩れた瞬間、イーリスの足は、だっと広間に立つレナへと向かい走り出していた。
「この……っ!」
広間に響く足音の勢いのまま、貝細工の扇を振り上げる。
今、自分がなにをしているのかもわからない。ここが広間で、貴族の目があるとか。自分の立場とか。ただ、脳裏では、今見た光景がぐるぐると回り、涙さえもがこみ上げてくるではないか。
「よくもリーンハルトを――――!」
その唇を奪った! 今まで、自分しか触れたことがないものだったのに!
悔しくて、悲しくて、涙が目からこぼれてくるのを止めることができない。
勢いのまま打ち据えようとした瞬間、しかし、扇はレナの頬に届く前にぱしんと乾いた音で止められてしまった。
「イーリス!」
慌てて握っているリーンハルトの手が信じられない。
「離してよ! この子ったら、よりによってリーンハルトの唇を――!」
絶対に許せない! 自分だってまだ数度しか触れたことがないのに、それを無理やりに奪うなんて!
こぼれてくる涙で視界はぐしゃぐしゃだ。なにもかもが歪んで見えるのに、その中で、レナの顔だけは面白そうにくすくすと笑っている。
「あら? どうして怒られますの? イーリス様と陛下の間にあるのは、まだ口付けだけ。それならば、これで私も王妃候補として対等な関係になれますわ」
「ふざけないでよ! 王妃候補のための口付けなんて――!」
確かに、自分とリーンハルトの間にある関係は、書類以外では、まだ口付けだけだ。
それでも、一回一回が、すべてかけがえのない記憶と共にあったものなのに!
初めて触れた結婚式の日。次に離婚と再婚の約束を交わしたシュレイバン地方で。
それらのすべてが、まるで宝物のように二人の恋の歴史と一緒にあった! 交わした口付けの一つ一つが大切で、きらきらとした思い出だったのに!
それなのに、それを強引に奪った!
大切なリーンハルトの唇を、まさかこんな手段で手に入れようとするなんて――!
どうしてもレナのした行動を許すことができず、リーンハルトに持たれている腕を遮二無二動かした。なんとかその拘束から逃れようとする。
だが、どうしても離してはくれない。いや、右手がダメなら左の腕でもいい。一発打ち据えてやらなければ、絶対に気が収まらない。
泣きながら箱を持ったままの手を持ち上げようとすると、気がついたリーンハルトが二人の間に急いで割り込んで、腕を握りしめた。
「落ちついてくれ! 俺はキスをされていない!」
その言葉に、えっとアイスブルーの瞳を見上げる。すると、取り乱したイーリスの姿を見たのは初めてだからだろうか。ひどく焦ったような顔で、リーンハルトが心配げに自分をじっと見下ろしているではないか。
「驚いたから、よけるのが遅れて唇の横にされただけだ! だから、あれは厳密にいえば、キスではない!」
見つめてくる瞳は真剣で、とても嘘を言っているようには思えない。
「……本当に?」
だから、ひくっと鳴る喉をまだしゃくりながら、アイスブルーの瞳を見上げた。
「ああ、俺は君以外とは絶対にキスをしない! なにがあっても、これからも!」
(私以外とは――)
心にリーンハルトの言葉が染み渡っていく。
気がつけば、ぽろぽろと涙が顔中に溢れていた。
いつから泣いていたのだろう。自分では気がつかなかったが、どうやら泣きながらレナに襲いかかろうとしていたらしい。
「行こう」
涙をこぼしたまま、やっと動きを止めた自分に安心したのか。周りでかしましく囁いている貴族たちの姿をちらりと眺めると、リーンハルトが肩を抱いて、イーリスをその場から連れ出してくれる。
「イーリス様……!」
慌てたコリンナと陽菜が後ろから追いかけてくる。
その姿を振り返り、リーンハルトがちらりと陽菜を見つめた。
「あとを頼む」
「任せてください! この場の空気はなんとかしてみせますから!」
ぐっと親指を立てているところを見ると、ここは陽菜に任せて大丈夫だろう。ご安心をというように、その背後でグリゴアが頷いているから、二人ならば安心だ。
そのまま、リーンハルトに肩を抱かれながら、外のテラスへと進んだ。
冬の風が、涙で濡れた頬に冷たい。
まだぐすっとすすり上げる鼻に気がついたのだろうか。リーンハルトがテラスに立ったまま、そっとイーリスの体を抱きしめてくれる。
温かい。
泣きすぎて、まだ頭がぼーっとしているせいか。まるで包むように自分を抱きしめてくれるリーンハルトの腕と胸が、信じられないぐらい心地よい。
そして、ぽんぽんと背中をあやすように叩いてくれた。
いつからぶりだろう。こんな人前で我を忘れたのは――。
抱きしめてくれる温かさと、頬をわずかに撫でていく二月の冷えた風が、心にゆっくりと落ち着きを取り戻させていく。
「私……」
震えながらやっと声をもらせば、リーンハルトが優しく背中を撫でてくれる。
「うん? 落ちついたか?」
「ごめんなさい……。こんな騒ぎを起こして……」
「気にするな、あれは突発的な事故だったんだから」
どうしてだろう。書類上は離婚したとはいえ、次の王妃候補がこんな騒ぎを起こしたのならば、大変なはずなのに。リーンハルトの声音は、少しも困っている様子がない。むしろ、少し照れているかのようだ。
優しくいたわるような声に、一度は止まっていたはずの涙が、またぽろぽろと頬へ流れ落ちてくる。
腕の包んでくれる温かさに、心の中のどこかの堰が壊れてしまったかのようだ。声を止めることができない。
「私……嫌だったの……」
そうだ、嫌だった。言葉にすれば、すとんと心の底に落ちてくる。
「あなたの唇にほかの誰かが触れているのが――。変ね、あなたと陽菜の話を聞いた時だって、ここまで我を忘れたりはしなかったのに……」
陽菜との話はもっとひどかった。それなのに、あの時は保てていた自分が、今度は怒りで目の前が真っ赤になっていった。これはきっとただ人伝に聞いたのと、目の前で見たからの違いだけではない。
――気がついてしまったからだ。
(私も、リーンハルトが好きだって……)
「私……」
おかしい。どうして、口が止まらないのだろう。ただ、泣き続けたまま、今の言葉に目を見張っているリーンハルトの前で、ぽつりぽつりと言葉をもらしていく。
「きちんと……リーンハルトとの、これからを……考えているわ」
「イーリス……」
「だから……」
どうしよう。泣きすぎたせいで、喉が掠れている。きちんと伝えなくてはいけないと思うのに、また喉は震えてうまく言葉を紡いではくれない。
ぽろぽろと今も流れ続けている涙を片手で拭いながら、左手で持っているビロードで作られた青い小箱をそっと差し出した。
「これは……?」
「これが、私の……あの時の言葉の……返事よ……」
どうして、こんな時に涙は止まってはくれないのだろう。
啜り泣きながら震える手で差し出すと、はっとリーンハルトが受け取り、急いで蓋を開いていく。
中に入っていたのは、自分の髪と瞳の色を固めたようなイエローダイヤモンドだ。それが白金の台座の上で、きらきらと輝いている。
「これは、指輪?」
こくんと頷く。
「あの時……あなたが婚約の約束にって、指輪をくれたから……。だから、私もあなたに同じものを身につけてもらいたくて……」
恋愛に関しては、口下手な自分が気持ちを伝えられるようにと精一杯考えた方法だ。
それで、リーンハルトもあの日求婚とともに、婚約を意味する指輪を贈ったことを思い出したのだろう。
「イーリス!」
この指輪が意味していることがなんなのか――。
ぱっと顔が輝くと、嬉しくてたまらないように抱きしめてくる。
「ありがとう! すごく嬉しい――!」
百日後には結婚を考えているという意味が伝わって、体を強く抱きしめられる。
「今度は、絶対に大切にする! きっと、君を幸せにするから!」
素直に言葉に出して言いたかったのに、またそれができなかった。それでも、抱きしめてくれるリーンハルトの腕は、木枯らしの中でも、すべての寒さから守ってくれるかのように温かくて――。
そっとその胸に甘えるように頬を寄せた時だった。
「きゃ――――っ!」
突然広間から、誰かが転ぶような音と、鋭いレナの声が響き渡ってきたのは。