第61話 リーンハルトの誕生日③
二人が広間の中央に出ると、宮廷楽団の指揮者が心得たように指揮棒を大きく振った。タラランという音とともに流れ出したのは、この国に来て初めて二人で踊った曲だ。
(まさか、これを流すなんて――)
事前にリーンハルトがリクエストをしていたのか。それとも、指揮者が気を利かせたのかはわからない。軽やかな音楽は、よくお祝いごとに使われる定番だが、見上げれば、リーンハルトはイーリスの両手をとったまま、嬉しそうに微笑んでいるではないか。
「その花冠、よく似合っている」
「え、ええ……!?」
頷いた声の最後が思わず疑問符になってしまったのは、リーンハルトがこんなふうに素直に言うのは珍しいからだ。
(ど、どうしたの!? いつもはなんだかひどく遠回しな言い方なのに!?)
素直に口にのせるほど、今は機嫌がいいのだろうか。普段とは違う様子に焦って見上げたが、リーンハルトのアイスブルーの瞳は、今は優しくイーリスを見つめている。
「君が、そんなふうに花をつけていると、最初に出会った時のことを思い出す」
「ああ――」
そういえば、この国に初めて来た時に、リーンハルトが連れて行ってくれた花園では、全身を花に包まれて遊んでいたような気がする。あのとき、確か花冠の作り方を話して、でもうまくできなかったからくずれかけた花の束を、頭に飾って遊んだのだ。
遠い昔の、懐かしい記憶――。
「最初に君とこの曲を踊ってから。そして、あの花畑に行った日から、もう六年がたった」
「ええ――」
今になってみれば、長かったような。一瞬だったような気もする時間だ。
互いにすれ違ってばかりだったはずなのに、どうしてだろう。今、手をとっていると、その中で時折触れたリーンハルトとの優しい時間が、不思議なほど思い出されてくる。
「君には――辛いことばかりが多い時間だったことだろう」
「そんな……」
言われて、たんとステップを踏んだ。体に手を添えられたままくるりと一緒に回転をする間も、脳裏に浮かんでくるのは、なぜか辛い時間の中でも、優しかった記憶ばかりだ。
初めて会って、差し出してくれた小さな手のひら。
喧嘩してからも慣れない視察で疲れると、なぜかよく馬車をとめて休憩時間を作ってくれた。「冷えた水を持ってくるように」馬車の外に向かって告げられたそのひと言が、どれだけ嬉しかったか。
「ありがとう……」
差し出された軍用の大きなカップを受け取り、「うん……」とだけ呟きながら、馬車で飲みやすいように横から手を添えていてくれた。
なにげない微かな優しさがどれほど心にしみたか。
その思いが、ゆっくりと首を横に振らせる。
「――ううん。どうしてかしら。そのはずなのに、今日は不思議と嬉しかった時ばかりを思い出すの」
「イーリス……」
「確かに、辛かったわ。でも、変ね。確かにそうではない時もあったのよ」
そうだ。すれ違っていた長い夫婦生活でも、確かに心の温まる瞬間があった。
それが決断を躊躇わせ、気がつけば、今という時間に結びついたのかもしれない。
考えついた結論にふわりと笑えば、リーンハルトのアイスブルーの瞳がイーリスを見つめたまま大きく開いていく。
「で、では……! 俺への、その誕生日プレゼントで約束したのは……!」
きっと、プロポーズへの返事がほしいということなのだろう。
答えは出ている――が。
(待って! それを今ここで言うの!?)
今の今まで甘酸っぱかった気持ちが、急に周りを取り囲んでいる人の目に気がついて、ぴたりと表情が固まってきてしまう。
(答える内容は決まっているわよ!? でも、それをこの中で!?)
螺鈿の間の中央で踊る二人の周囲には、元老院や軍務省のお歴々が花束を抱えてひしめきあっているではないか。
(無理、無理! 絶対に恥ずかしくて私が誤魔化してしまうのは、間違いないから!)
それぐらいならば、この中でドジョウすくいを踊れといわれるほうがまだマシだ。王妃としての威厳は地に落ちるだろうが、自分の羞恥心的には、多分難易度が低い!
だから、少しだけ引きつりながらちらりと横を見て微笑みかけた。
「今、ここでは……。だって、周りが。ねえ?」
言えば、リーンハルトもイーリスがなにを気にしているのかがわかったらしい。
「ああ……そうだな」
こほんと軽く咳払いをして、頷いている。
「俺も、この人目の中で答えをもらうほどまだ自信はないし……。では、あとで二人きりになったら」
「ええ、その時に」
赤くなっているだろう顔でこくこくと必死に頷いて、この場を回避する。それと同時に、音楽が最後の一節を奏で、二人の手が高く持ち上げられて終わった。
わあああと大きな拍手が、周囲から押し寄せてくる。
「なんだか、イーリス様に初めて会った時のことを思い出しましたな」
「ああ、あの時もこの部屋で、この曲でしたからな」
うんうんと年配の声をかわしている侯爵たちの後ろから、鋭い眼差しで睨みつけてきているのは、レナとポルネット伯爵だ。
まだイーリスの視線は今まで踊っていたリーンハルトの眼差しを見つめたままだったが、曲が終わったからだろう。人混みから、レナが小走りでリーンハルトの許へとやってきた。
「陛下!」
「あの子! また……!」
リーンハルトと戻って行こうとした先で、陽菜が拳を握り締めて叫んでいるが、レナはかまわずに走り寄ってくると、そのまま強引にリーンハルトの前へと割り込んでいく。
「一番目のダンスが、今の王妃候補一位のイーリス様なら、当然二回目のダンスは私と踊ってくださいますよね?」
甘えるようにリーンハルトの腕をとり、そのままイーリスとの間に滑り込んでくる。
「それは……、今は……」
リーンハルトは、きっとこのまま何か理由をつけて部屋から下がり、イーリスのプレゼントを聞き出そうと考えていたのだろう。困った顔でこちらを見つめているが、この様子ではレナも引く気はないようだ。
「いいわよ。私もあとで二人きりの時に渡せたほうが嬉しいし」
(その様子をもし誰かに見られたりでもしたら、絶対に顔が爆発する自信がある!)
もし、人目があったら、絶対に素直に口になんて出せないのに違いない。それよりは、少しだけ今を我慢して、あとで二人の時間をもてたほうがいいだろう。
だから、軽く肩をすくめながら笑うと、自分の性格から言いたいことがわかったのか。
「そうか、少しだけ待っていてくれ」
イーリスに一度そう頷くと、仕方がないといったようにレナの手を取っていく。
リーンハルトの手が、ほかの女性の手を取って歩いて行くことに胸が痛まないといえば嘘になるが、ダンス自体は、功臣の娘と踊ったりすることもある。
(レナが、新しい聖女な以上、これも国王としての務めよね?)
少しだけ寂しい気持ちを押し隠して、そっと手を振った。
「もう! イーリス様ったら、寛大なんですから!」
ぷうっと陽菜が頬を膨らませているが、あそこまでリーンハルトに執着している以上、なにもなしでは引き下がらないだろう。
「仕方がないわ。レナも聖女なのだから。それに」
くすっとグリゴアの姿を見て、笑う。
「なんだか、あの姿を見ていると、少しだけレナに申し訳なくて」
「ああ……」
指をさした先で、陽菜もなんのことを言っているのかがわかったのだろう。
顔をあげて、黒い瞳をそちらのほうにやれば、リーンハルトが座っていた玉座の側に今も控えているグリゴアは、胸に飾った青い花のコサージュに、心底嬉しそうな目を落としているではないか。
「なんか、あの姿を見ているとね。今日ぐらいはいいかなって」
「まあ、ちょっと、あれには罪悪感がわかないでもありませんが……」
というよりは、グリゴアの反応が予想外すぎて戸惑っていると、陽菜の顔には明らかに描かれている。
「でも、イーリス様は優しすぎますよ! もっと、レナにがつんと陛下は自分のものだと言ってあげたらよいのに!」
「それをこの場で叫べるぐらいなら、今すぐに床板を掘る練習を始められるわ」
多分、喉の奥から出すより、マリアナ海溝深くまで穴を掘るチャレンジのほうが、精神的によほど楽だろう。
「陛下は、どんな踊りでもお得意なんですか?」
広間の中央で流れ始めた音楽に乗りながら、レナが無邪気にリーンハルトに向かって話しかけている声が聞こえてくる。
振り返って見えたのは、いつもつまらない時によく浮かべているリーンハルトの仏頂面だ。
「ああ。国賓の相手もあるからな。レナこそ、来たばかりにしては、踊りが達者だが」
「陛下と一緒に踊れるのを夢見て、毎日必死で勉強したのです!」
レナのうっとりとした顔には悪いが、あのリーンハルトの顔は明らかに仕事として取り組んでいる時のものだ。
国王陛下も大変ねと、クスッと微笑めば、こちらの顔に気がついたのか。
リーンハルトが、ふと眼差しを向けて、今までとは違うひどく優しげな面持ちで笑った。
その笑みだけで、ぼんと顔が爆発しそうになってしまう。
「イーリス様、お顔が赤いですが、大丈夫ですか?」
コリンナが心配そうに覗きこんでくるが、まさかリーンハルトの笑みで、心臓がドキドキしているとは口には出せない。気がついたレナがぎろっと睨みつけてくるのに合わせて、急いで誤魔化した。
「大丈夫よ。ちょっと踊って、顔が火照っているだけだから」
(ああ、もう。レナと踊っている時に、なんて顔でこちらを見るのよ!)
これでは、次にプレゼントとして頼まれた返事をするのだって、赤くなって上手く言えるかわからない。
(ああー! 品物で用意しておいてよかった……!)
いざとなれば、言葉がうまく出てこなくても、これを渡せば求婚の返事にはなるはずだ。
「コリンナ……、今日、持ってきてもらったものは?」
「はい、こちらですね」
捧げ持つように布をかけて出された小箱を、ぎゅっと握り締める。
「そうよ。あとでこれを渡せば――」
(今の私の気持ちを、リーンハルトに伝えることができるはず……!)
きっと、これでやり直していけるはずだ。二人の間さえ強固に結びついていれば、レナの問題も乗り越えていけるだろう。
胸に抱き込んで、宝物のように強く握り締めてしまう。
その時だった。急に、貴族たちから驚いたどよめきがあがったのは。
「えっ!?」
「いや、これは……」
困惑したような声に、何事かと首をあげる。その瞬間だった。中央で踊っていたリーンハルトの唇に、強引にキスをしているレナの姿が目に飛び込んできたのは。