第58話 帰り道②
冷たい。
自分は、あのまま三途の川をもう一度渡ったのだろうか。
ぼんやりとした意識の中でそんなことを考えていると、どこからか自分の名前を呼ぶ声が聞こえた。
「――イ……ーリス……! イーリス!」
誰だろう。まだ頭がぐらぐらとする。目を開けられないのに、頬にあてられた手からは染みるように温もりが伝わってくる。
(ああ、そうか。私、体が冷え切っているんだわ――)
ずっと夜風の中に横たわっていたから。
誰かが体を持ち上げて、抱きかかえてくれているのがわかる。さっきまで体が接していた冬の冷たい石畳ではない。
鍛えられて固いが――はっきりと温もりをもった体だ。
「私……」
ぼんやりと目を開くと、暗い視界の中いっぱいにリーンハルトの心配そうな顔が広がっていた。背後には黒い夜空に星が瞬いているが、リーンハルトの揺らぐ瞳のほうが青い輝きだ。
「リーン、ハルト……?」
掠れた声で呟けば、その瞬間くしゃっと顔が歪んだ。
「よかった! 君が狙われたと聞いて、どうしようかと――!」
叫びながら強く抱きしめてくれる手が、冬の寒気の中で温かい。頬にこぼれてくる涙で、どれだけ心配してくれていたのか、言葉以上に伝わってくる。
「ごめんなさい……。ちょっと買い物に出かけただけだったの……」
「それより、体は大丈夫か!? 痛いところとかは!?」
「痛い……といえば、痛いけれど……」
飛び降りた時に全身を打ったのだろう。肩も背中も、全身がずきずきとしている。
「すぐにイーリスの容態を!」
リーンハルトが急いで呼べば、すぐ側にいた馴染みの王室の医者がぱっとイーリスの腕をとった。
持ち上げられた瞬間、腕にずきっと激痛が走る。
「――つう……っ」
「ああ、捻挫をしておられますな。落ちた時に、石畳につかれた衝撃でしょう。イーリス様、吐き気や苦しいところなどは」
「……吐き気は大丈夫……。ただ、全身が痛くて……」
肩とか、足とかと言えば、医師は服の上から触って、曲がるかどうかを確かめている。
「おそらく、馬車から落ちたときの打撲でしょう。こちらは大丈夫ですか?」
服の上から、おなかをあちこち押されたが、鋭い痛みを感じることはない。
「ええ……お腹を壊した時ほど痛くはないわ……」
「軽口が言えるのならば大丈夫ですね。念のため。王宮に戻ってから詳しく診させてください」
ここでは、騒ぎでかけつけてきた騎士達や周囲の貴族の目があると判断したらしい。さすがに、王の伴侶の肌を街中で晒すことは不可能だ。
脛が見えた――それだけでも、この国では醜聞になりかねない。
「立つことはできますかな? 無理ならば、担架を」
念のために呼ぼうと騎士たちのほうへ医師が振り返ったときだった。
「問題ない」
「え?」
咄嗟に後ろから言われたリーンハルトの言葉に振り向くと、体をそのまま空中に抱え上げられていく。
「リ、リーンハルト……!」
(皆の目があるのに!)
騎士達だけではない。周囲の邸宅から集まってきた貴族や、その家に仕えている召し使いまでもが野次馬となって遠巻きに見ているのだ。慌てたが、自分を抱くリーンハルトの手が細かく震えているのに気がついた。
「このまま連れて帰る」
「わかりました。では、馬車を」
慌てて騎士が走って行く方角を見れば、幾人もの倒れている騎士たちと一緒に、足が黒く焼け焦げた馬たちが横たわっているではないか。その手前には、完全に黒くなって燃え尽きた馬車の残骸もある。
(もしも、あの中に残っていたら……!)
今頃は、自分の体もあの馬車と同じように、元の色さえわからない黒焦げになっていたのだろう。
想像するだけでも恐ろしい事態に、体が震えだしてくる。
「イーリス……」
青くなった顔に気がつかれたのか。ぎゅっとリーンハルトが、腕で強く抱きしめてくる。
「もう、大丈夫だ。コリンナも、今治療を受けている」
大丈夫――。強く頷きながら囁かれた言葉に、体がほっとしてくる。
「うん……」
そうだ。もう大丈夫だ。
「騎士達も、足の火傷はひどいが、しばらく休めば治る。だから君は、安心して怪我を治すことに専念してくれ」
覗きこんでくるアイスブルーの瞳は、本当に心配そうだ。
「君が――事件にあったと聞いて、本当に心臓が潰れる思いだった。犯人は今全力で探させている」
「犯人……!」
リーンハルトの言葉にはっとした。あの時。暗がりに潜んで、道に油を撒いたのは誰なのか――。
篝火が倒れるだけなら、風や事故でもあるだろう。だが、イーリスが通る時にタイミングよく、道に油がこぼれていて、更にそこへ篝火が倒れるなんてありえない。
「誰か――見ていた人がいるわ。私の馬車の異変に気がついて、助けを呼んでくれていたの」
「わかった」
こくりとリーンハルトが頷く。
「第一近衛騎士団長! 目撃者がいるはずだ! 付近を探して、一刻も早く犯人を捕まえろ!」
「はっ!」
宮中での行事の時によく見る姿が、石畳に片膝をついて礼をしている。
(そういえば、今日警護についてきてくれていたのは第一騎士団の者達だったわ……)
王族の警護は、第一騎士団と第二騎士団とが月替わりで勤める。彼にとっても、大事な部下を巻き込まれた憤る事件なのだろう。すぐに立ち上がると、周りの騎士たちの指揮をとり始めた。
「帰ろう。どこか苦しいところはないか?」
「ううん、大丈夫よ……」
抱きかかえられて馬車に乗れば、そっと席に労るように下ろされる。そして、体にもたれられるように、側に座ってくれた。
いつもならば気恥ずかしくてたまらないのに。今日だけは広い胸にそっとよりかかれるのが、安心してたまらない。
(きっと、寒さと怖さで冷え切っていたからだわ……)
ほのかに伝わってくる胸の温もりが、もう大丈夫だとなによりもほっとできる。
走り出せば、事件の現場から王宮までは、馬車でも十五分ぐらいの距離だった。王宮を取り巻く堀に城門で焚かれた篝火がまばゆく映る様が、窓の外に近づいてくる。堀を渡り、城門をくぐると、そこはもう左右に軍務省の建物が広がる空間だった。
外敵に備えて、左右から王宮の入り口を包むように守っている光景は、嫁いできた日に目にしたものと何一つ変わってはいない。
左右に建物が並ぶ間を通り抜け、王宮前広場から王妃宮の前へと進むと、話が既に行っていたのだろう。ギイトと陽菜が、心配そうに出迎えてくれていた。
「イーリス様!」
「イーリス様、大丈夫ですか!」
よかった。どうやら、あの口うるさい王妃宮管理官はここにはいないらしい。
「さっきイーリス様が襲われたと聞いて……! お怪我は!?」
陽菜は、自分がまだ病み上がりなのに、それよりもイーリスのことを心配してくれている。いつもの声を聞いて、少し体に元気が出てきたからか。
再度抱えようとするリーンハルトの手を笑って止めると、肩を抱いてもらいながら、馬車を降りた。
「大丈夫よ。馬車から飛び降りた衝撃で、全身を打ってしまっただけだから」
「馬車から飛び降りたって……! イーリス様の、お体は!?」
ギイトの焦っている様子に、捻挫したのとは反対の手を持ち上げてみせる。
「この通り元気よ。手首だけ捻挫をしたけど」
ヒラヒラと手を振れば、真っ青になっていた陽菜とギイトの顔がほっと緩んだ。
「よかった……! イーリス様に事件があったと聞いたときには、どんな状態かと」
胸を撫で下ろすように息をついている。
「今、王妃宮管理官がざわついている王宮に王妃様の無事を報告しに行ってくれています。お見舞いの嵐は来るでしょうが、これ以上の騒動にはならないかと――」
「そう、よかったわ」
かなり心配性だが、王妃宮の管理官に推されただけあって、有事の際の対応能力は優れているようだ。
(それなら、お見舞いの嵐もなんとかできそうね)
いっそ断ってもらってもいいかもしれない。王妃宮の管理官がしっかりとした対応をとれるのならば、捻挫ごときのお見舞いは厄介だ。
(お見舞いを断れば、どうせお見舞状が届くでしょうし――)
今、自分を支持している貴族の把握にも繋がる。
ふむと首を少しだけ傾げて考え込んだ時だった。
「あら? 思ったよりお元気そうですわね?」
後ろから響いた声に振り返れば、暗闇の奥の庭に続く道の半ばには、亜麻色の髪を輝かせたレナが立っているではないか。
「レナさん……」
「王妃様が事件に巻き込まれたとお聞きしまして。でも、意外にお元気そうですわね?」
ふふふと笑っている様子は、花のように美しい。ただ、鋭い棘をもつ美しさだ。イーリスをそれで突き刺し、血みどろになるのを見たいかのような。
(レナ――)
この状況で、もっとも怪しいのは間違いなく彼女とポルネット大臣だ。今、イーリスがいなくなれば、リーンハルトの妻の座は、間違いなく彼女のものとなるだろう。
清楚な容貌に浮かぶ笑みの暗さに、思わず、ごくっと唾を飲みこんでしまう。
しかし、顔はにこっと笑った。
「ええ。街の方がご覧になって、助けを呼んでくれたみたいですの。運がよかったですわ」
だから、もしもお前達が企んだのだったら、目撃者がいるぞと言葉に脅しをこめておく。
すると、ふわっとレナが亜麻色の髪を揺らしながら笑った。
「そう――町人が見ていて助けてくれたなんて。王妃様は本当に下々の者と相性が良いですわね?」
「ええ。光栄な話ですわ。王妃として」
負けるものかと言葉に力をこめれば、レナの唇が一瞬だけ噛みしめられた。
「それでは。失礼致します」
瞳の力で押し負けたと認めたくないのか。ふいと顔を逸らすと、そのまま離宮の方へと歩いて行く。
(まったく……いくらリーンハルトが好きだからって……)
どうして、思い込みだけでそこまで好きになれるのか。熱烈なアイドルのファンとかと同じ心理なのかもしれないが、それにしても性格が悪い。
ぶつぶつ内心で呟いてしまうが、その横で陽菜は、遠ざかっていくレナの後ろ姿を、黒い瞳でじっと見つめている。
そして、ふと口を開いた。
「あの人……本当に、私たちと同じなのでしょうか?」
「え?」
どういう意味なのだろう。
首を傾げたが、陽菜はただその小さくなっていく後ろ姿を見つめている。
「陽菜?」
リーンハルトも尋ねているが、陽菜はじっとその姿に目を凝らし続けている。
「いえ……。ただ、私陛下が抱かれた違和感の正体がわかったような気がします」