第57話 帰り道
馬車の窓からは、暗い闇の中でちらちらと燃え上がる炎の舌が見えている。
「誰か! 馬車が大変なことになっているぞ!」
外で叫ぶ声に、イーリスの理性を引き戻された。
「いったい、何事!?」
打った背中の痛みで、しばらく声が出なかったが、ようやく気がついたのっぴきならない事態に、いつもの思考が戻ってくる。
背中と手の痛みに耐えながら窓に近づけば、馬車の下からは火の手が上がっているではないか!
「これは、いったい……!」
はっと隣を見れば、一緒に走っていたはずの護衛たちの姿が見えない。
まだ火の手が窓まで達していないのを見極めてから身を乗り出せば、併走していたはずの護衛たちが馬もろとも後ろで道に倒れたり、暴れたりしているのが見える。
「どうしてっ!?」
道でもがくが、どうやら滑って馬ともどもうまく起き上がれないようだ。
彼らの下に広がっている液体が滑るからだろう。夜の闇で、一見すると水溜まりのようにしか見えないが、側で倒れたかがり火が馬の下で燃え広がりながら騎士たちの服も包んでいく様子を見れば、とてもそうだとは思えない。
「油だわ……!」
(やられた!)
おそらく、自分が出かけたと知って、誰かが帰り道に油を撒いていたのだろう。
「誰か! 馬車に乗っている人を助けないと!」
道にいた人が異変に気づいて、声を張り上げて周囲の邸宅に助けを呼んでくれている。
一瞬だけ、どこかで聞いたことがあるような気がした。近くの貴族の家に勤めていてイーリスも顔を合わせた誰かかもしれない。
だが、今はそれについて深く考えている暇はなかった。
きっとイーリスが王宮を出たことを聞いて何者かが道に油を撒き、王家の馬車が通りがかったのにあわせて、側のかがり火を倒したのだ。
突然の炎に、馬も驚いて御者を振り落としたのか。
前を見れば、凄まじい勢いで走り続ける馬車の御者台には誰もいないではないか!
「イーリス様!」
後ろにいる護衛たちが火のついた上着のまま叫んでいるが、追いつこうにも、炎は彼らの馬の足にも燃え移っているようだ。半狂乱になって、毛についた火を振り払おうと足を振り上げている馬の様子を見れば、とても騎士たちに制御できる状態とは思えない。
「このままでは……!」
前を見つめた。馬車を引く馬の足にも火がついて、とても正気の状態ではない。
さらに後ろに引いている馬車が燃えさかりながら、自分についてきているのだから、走る馬も完全に狂乱状態だ。
「まずいわ! 今のままでは!」
くっと唇を噛んだ。
このまま走り続ければ、道が分かれる先にある壁に激突してしまう。いや、馬が回避しようとしても、暴走している二頭が連携して動くことは不可能だ。下手をしたら無茶な動きで、壁にこすりつけられながら横転してしまうかもしれない。
「どうしたら……!」
(一体、誰が道に油をなんて……!)
脳裏に、グリゴアの忠告とポルネット大臣の顔が浮かんでくるが、今はそのことを深く考えている時間はない。
(とにかくなんとかしないと……!)
「イーリス様……きゃあっ!」
「コリンナ!?」
しかし、その時馬車の床板から炎が這い上がってきた。車輪から油が跳ね飛んで床板に燃え移ったのだろう。白く塗られている床に黒いシミができたかと思うと、ぽっと中に火がついて、コリンナのドレスを端から呑み込もうとしているではないか!
慌てて振り返ると、靴でコリンナの裾を焦がす炎を踏み消してやる。
「大丈夫!?」
「ええ、ありがとうございます」
どうやら、火傷になる前に消すことができらしい。
だが、このままでは時間の問題だ。見れば、車輪から床板に移った炎は、馬車の内装に使われている白いビロードを舐めるように焼きながら、激しく燃え広がっていくではないか。
出てくる煙で目が痛い。喉を焼く熱気と黒い煙にごほごほと咳き込んでなんとか息を吸おうとしても、このままでは焼け死ぬのは時間の問題だ。
(いや、その前にそもそも近づいてくる壁を避けることができるのか)
灰色の煙越しに窓から見つめれば、壁はもう馬車を引く二頭の目前に迫っている。
「このままでは、壁にぶつかるわ!」
一か八かしかない。
壁にぶつかって、焼ける馬車の中に閉じ込められては、二人とも焼死は確実だ。
「そんな死に方はまっぴらよ!」
既に馬車を包む炎で、かなり取っ手は熱くなっている。しかし、今ならばと咄嗟に袖のレースを引っ張って、手のひらをくるんだ。
伝わってくる熱を感じながら、かちゃっと扉を開く。
がががと燃えながら回っている車輪は、さながら地獄へ死者を運ぶ火車のようだ。
(火車に運ばれるようなことは何もしていないはずよ!)
「イーリス様」
後ろで驚いたように見つめるコリンナの声に、はっと振り返ると、扉を開けたまま安心させるように微笑んだ。
「飛び降りるわ。このままでは壁に叩きつけられるか、横転した馬車の中で焼け死ぬかの二者択一になってしまうから」
笑ったはずなのに、自分ながら冷たい汗がこぼれ落ちてきてしまう。
「一緒に降りましょう。大丈夫、ここにいるよりかはずっと怪我は少ないはずだから」
笑っても、ごくっと自分でも喉が嫌な音を立てていくのがわかる。わざと気丈なふりをしているのに気づかれたのか。
「そうですね」
驚いていたコリンナの顔が、急にいつものしっかりとしたものに変わる。
「大丈夫です。イーリス様は私がお守りしてみせますから」
「あら? 言うつもりだった台詞を先に言われたわね」
でも、コリンナも死なせるつもりはないからと笑うと、風が凍てつくように吹き込んでくる扉の側へと立つ。風に煽られたのだろう。馬車の下で燃えていたはずの炎は、今では横にも這い上がり、伸ばした赤い腕ですべてを喰らおうとしているではないか。
凄まじい勢いで、目の前の石畳が夜の中を動いていく。
ここに叩きつけられれば、全身を打つのは間違いないだろう。落ちた弾みでもしも後輪に巻き込まれたら、内臓や足だって砕けてしまう。
それでも、もう壁は目の前だ。
一瞬だけ、馬の速度がゆるんだ。
「行くわよ!」
このまま焼け死ぬぐらいなら――!
最後まで抵抗してやると、側にいるコリンナの体を抱きしめる。
コリンナも自分を守ろうとしているのか。腰に腕を回すと、包むようにぎゅっと抱きしめてくれた。
「せーの!」
かけ声を掛けると、炎に包まれた馬車を二人して飛び降りていく。
瞬間的に、熱風が体を打ち、鋭い衝撃が体を襲う。
痛い!
後ろでは、がらがらと走り抜けていく音が響く。それが、やがて凄まじい馬のいななきと激突する音に変わったとき、イーリスは頬にあたる石の冷たさを感じながら、暗闇の中へと意識を手放していった。