第56話 思い出
軽快なベルの音が、扉と共にちりりんと響く。
「ありがとうございました!」
お忍びで来店したかったのだが、当初の半数とはいえ、六人も護衛をつけられたら無理だろう。
買い物が終わるのと同時に、店をあげて接待してくれていた従業員たちが扉の周囲にずらりと並び、一斉に頭を下げて見送ってくれる。
「ありがとうございました。今回ご注文いただきました品は、完成したらすぐにご連絡いたしますので」
「ええ。よろしくね。連絡をいただいたら、女官に受け取りに行かせるから」
にこっと挨拶をすると、何度も王宮で会った店長の顔が、さらに嬉しそうになっている。
「承りました。では、またいつでも必要な品があれば、お申し付けください」
次回、女官の方が来られたときには、お品と一緒に最新の流行のカタログなどもご用意いたしておきますのでと付け加えるところは、さすが商売上手だ。
(カタログを渡せば、王妃宮の女官たちも見るものね)
長年王室御用達を務めているだけあって、王室や王宮の慣例には詳しい。さらに最近は若い女性たちをターゲットにしているようで、壮麗さに加えて、洒落たデザインの品も多かった。
「ステキなデザインが多かったですね」
「ええ。でも、コリンナがアドバイスをしてくれて助かったわ。男物には詳しくないから、どれがよいのか悩んでしまって」
馬車に向かいながら話すと、後ろにいたコリンナが驚いた顔をしている。
「いえ、私は父がしていた商売の関係で、若い男性に好まれやすそうなのを少し知っていただけですから」
「お蔭で、気に入ってもらえそうなのが選べたわ。これならきっとリーンハルトにも似合うと思うの」
(これで、プレゼントは大丈夫……!)
今頼んだ品を渡せば、きっとリーンハルトに自分の思いは通じるだろう。あとは、それを渡して、言葉で気持ちを伝えればいいだけなのだが――。
(それができるかどうかだけが、不安なのだけれど……)
馬車に乗り込んで、ほっと腰かけると、二人が座った横で扉が外からかちゃっと閉められる。
「さてと。これで用事は終わったわね」
久しぶりに王都に出たのだ。どうせなら、少しは寄り道をして帰りたい。
「折角都にまで出たのだから、どこかでお茶でもして帰る? 連日徹夜で捜索してくれている法務省のみんなにも、差し入れとかしてあげたいし」
なにしろ数百年分の書類の棚卸しだ。省の手の空いた者を動員して、該当する時代の書類を片っ端から探してくれているが、意図的に隠されているのか。なかなかたった一枚が見つからない。
「それもよいですね。都は久しぶりですし! ただ……」
「ただ?」
なにかあるのだろうか。今日は、このあと仕事や誰かの面会の予定はなかったはずだがと首を傾げると、少しだけコリンナが笑っている。
「いえ、今から寄られると、お帰りが夕食の時間ぎりぎりになってしまいます。そうなると、また王妃宮の管理官様が陛下のご来訪に間に合わないと心配されるのではないかと思いまして」
「あ!」
「今日は王妃宮で食べられるご予定でしょう?」
忘れていた! いや、来るのは覚えていたのだが、あまりに最近一緒に食べることが多くて、王妃宮管理官がリーンハルトに、過敏に反応するのを忘れていたのだ。
「そ、そうね。もし、リーンハルトが来たときに、私が王妃宮にいなかったら……」
「あの管理官なら、陛下に進言して、すぐに捜索隊を派遣すると思います」
やる……! あの王妃宮管理官!
「そ、そうね。私が出かけようとしただけで、家出じゃないかと警戒しているぐらいですものね……」
「捜索隊ならばよろしいのですが、下手をしたらまた家出かもと陛下に注進して、大規模追跡隊を組まれでもしたら……」
さすがにそれはまずい! ただでさえ、あの一件以来リーンハルトは心配性になっているのだ。それが王妃宮管理官と一緒になって、さらに拘束を強められては――。
「ごめんなさい。今日は、このまま帰ることにしてもいいかしら?」
「ええ。それがよろしいかと」
引きつりながら、さっきの提案を撤回すれば、くすくすとコリンナは向かい側で笑っている。
(もう! 本当にリーンハルトも管理官も心配性なんだから!)
ぷんと少しだけ唇を尖らせて窓の外を眺めれば、夕暮れが近い王都は、活気に溢れた姿を見せている。窓の外の街には、色とりどりの壁が並び、赤い屋根を頂いている様は、前世の自分が見たら、まるでお伽話の世界のようだ。
大陸の水運を担う河がゆったりと街中を流れ、その周囲には春には淡いピンクの花をつける杏が岸にそって植えられている。
特に横の支流は、春になると、花びらが散って水面が一面薄い紅に染まることから、住人にも観光客にも人気のスポットになっていた。杏から作られる風邪薬が名物になっているようで、春になると観光客は花を見ながら、一緒に橋の側で売られている薬をお土産として買い求めていくらしい。
(私も前に来たけれど……)
薄紅色に染まる川面は、本当に見事だった。
(今度の春は、またリーンハルトと来てもいいかしら?)
思えば、前に見たのは、リーンハルトがこっそりと連れてきてくれたからだった。
まだ共に幼い夫婦で、どうしてもぎくしゃくとしていた時――。
「行こう」
何かの帰り道だったと思う。まだ少しひんやりとした空気の中で、急に馬車を降りたリーンハルトが、護衛を数人だけ連れて、その支流にかかる人気の橋へと連れていってくれたのは。
橋の中ほどに立つと、青い空の下で、紅の川面が美しく輝いていて。
息を呑むような光景に、思わず目を奪われた。
(まるで、前世の桜みたい!)
懐かしくてたまらなかったのか――。
「危ない!」
思わず人混みから走り出し欄干から身を乗り出そうとした自分の腕を、慌ててリーンハルトが引っ張ってくれたのは。――今でもなぜか覚えている。
ひどく慌てたように、自分の腕をとったアイスブルーの瞳。
ただ、手を握られただけだったのに。どうしてだろう。夫婦仲がうまくいかなくて、出て行こうかと悩むたびに、なぜかその時の顔を思い出した。
自分の側から離れるのを止めたあのリーンハルトの顔。
ひどく慌てて、切羽詰まったような――。
ふと、思い出した十二歳の記憶に、顔がなんだか綻んでくる。
「イーリス様?」
馬車に揺られながら思い出していれば、向かいに座っているコリンナの声で、はっと我に返った。
「どうなされました? なにか楽しいことでも――」
(わわわっ、バカバカ!)
思い出した記憶に、つい顔が緩んでしまったではないか。
(あの時、リーンハルトが掴んでくれた手を思い出したからだなんて……!)
なんでもないことだが、あの時は嬉しかったのだ。行かないでと望まれているようで。
その後は、またいつものようにそっけなかったから、言ってしまえばそれだけの記憶だ。ただ、長い間なんとなく忘れられなかっただけで――。
(ああ、だめだめ!)
はっと気がつけば、コリンナが不思議な顔をして、向かいの席からこちらを見つめているではないか。
(ちょっと、あの時のことを思い出しただけで……!)
今は忘れて落ちつこうと窓の外を眺めれば、冬の日射しはもう河の向こうの屋根へと沈んでいこうとしている。都の街並みに下りる夕闇も急速に濃くなってきたようだ。
先ほどまでは、中央大聖堂の伽藍に太陽が突き刺されたように映っていたというのに。いつのまにか、その影は街並みの向こうに沈み、都には目映い明かりが川面に映りながら煌めきだしている。
橋を渡りながら眺めていても、都の人々が住む通りはとても賑やかだ。
かぽかぽと馬が歩む音を聞きながら見ていると、残照になっていく道に灯りだした明かりの中を歩いている人々の顔は明るいものだ。その様子に、イーリスの顔にも、笑みが広がってくる。
「また、来ましょうね。今度は街の人々が暮らす色んなところを一緒に見たいわ」
「ええ。いつでもイーリス様にお付き合いいたしますよ」
この人々の幸せを守りたい――。
そう思いながら橋を越えると、馬車は王宮に続く貴族の邸宅が並びだした道をゆったりと進んだ。
ここを越えれば、騎士団が駐留できるほどの広い緑地帯がある。その中央に伸びる道を進めば、やがて周囲を堀と城門に囲まれた王宮へと続いていく。その光景に、ふと目を留めた。
(本当に徹底して、防衛のための造りになっているわね……)
それだけ王宮が造られた当時は、まだ生々しい戦乱も多かったのだろう。
今はそんなことはない。
ひょいっと馬車の窓から外を見れば、右を見ても、左を見ても壁ばかりだが、王宮を守る布陣のように円形に広がる貴族たちの屋敷には、穏やかな光が灯り、いざという時に宮殿の盾となるように、そして裏切った場合には戦えるだけの距離もおいて配置されたという猛々しさはどこにも感じられない。道を歩く人たちは先ほどまでに比べたら少ないが、代わりに長い壁の続く広大な邸宅の窓には、絶えず豆粒ほどの姿が歩き回っている。
「だいぶ暗くなってきたわね……」
このままだと、王妃宮管理官は既にやきもきしているかもしれない。
日が落ちた道を急いでいると、周囲が貴族の邸宅だからだろう。道の両側には、所々に黒い鉄の台で作ったかがり火が焚かれ、夜道を赤く照らし出している。それでも、陰になったところはもう真っ暗だ。人が少ないせいか、青から黒に変わった闇は、どんどんと行く手を重く包み込み始めている。
「きっとまた王妃宮管理官が騒ぎ始めているわね。リーンハルトに知らされる前に、なんとか王宮につかないと――」
言いかけた時だった。
急に、前の方で馬の激しいいななきが聞こえたのは。
そして、叫び声と馬車にがくんという衝撃が走る。
「え!? なに!?」
どんと後ろの背もたれに背中が叩きつけられた。痛くて息を呑んだが、次の瞬間には、今度は豪華な座席に座ったまま、前のめりに体が投げ出されていくではないか。咄嗟のことで、体が白い布を張った席から床に落ちていくのを止めることができない。だんと衝撃が襲った。
「痛っ……なにが……」
「イーリス様!?」
ついた手の痛みに呻いたが、馬車は今度は凄まじいスピードで走り始めている。同時に、漂う異臭にはっと目を見開いた。
「これは……!」
まさかと思ったのに、馬車の窓からは火が見えているではないか!
凄まじい火炎が、走る馬車を窓の外から包みこもうとしているのに、イーリスは金色の目を大きく見開いた。