第13話 条件
バチッと暖炉の火がはぜた。赤い炎に彩られた冷たいアイスブルーの瞳が、イーリスに注がれる。
「……俺が浮気をしているというのなら、君はなんだ? 王宮で人目もはばからず、毎日夫以外の男とベタベタベタベタ。お蔭で人に『公爵令嬢の神官』みたいだといわれるほど、仲良く話して」
「夫以外? もしかしてギイトのこと?」
まさかやきもちを焼いているのだろうかと疑ってしまうような言葉だが、目の前に立つリーンハルトの瞳はますます鋭さを増していく。
「しかも、今聞いた報告では、街ではその男と駆け落ち中とまで噂されているそうじゃないか。どういうことだと訊きたいのは、俺の方だ」
(駆け落ち――まさか、リーンハルトにもう噂が届いていただなんて)
プライドの高い彼が、そんな噂を聞いて平静でいられるわけがない。ちっと心の中で舌打ちをしたのと同時に、今の事態に気がついた。はっと目を見開く。
「駆け落ちって……。ギイトはどうしたの? まさか」
ここに捕まってから一度も会ってはいない。少なくとも都で裁きを受けさせられるまでは無事だと思っていたのに。ここにリーンハルトがいるとなれば、話は別だ。
(もし、街の噂を聞いてリーンハルトが激怒していたのなら――)
見つめるが、リーンハルトはふんと鼻を鳴らす。
「彼は生きている。もっとも、そう遠くない未来には、首を刎ねられる予定だが」
「なっ……! どういうことよ、それ!」
描いた予想の中でも最悪の言葉だ。思わず駆け寄ると、リーンハルトの胸に拳を振り上げた。
「ギイトは私が心配でついてきてくれただけよ! それなのに、そんな噂だけで!」
しかし、胸に下ろそうとしたイーリスの腕を捕らえると、リーンハルトは薄氷色の瞳で上から覗き込んでくる。暖炉の炎にゆらめく瞳に浮かんでいるのは、間違いなく酷薄だ。はぜる暖炉の炎が、リーンハルトの顔に大きな陰影を描く。
「噂。ああ、俺だって噂だと信じたいさ。だが、一国の王妃をかどわかした挙げ句、王でもないのに一夜を共に過ごしたんだ。夫として、これほどの恥をかかされて、処刑するのにほかに何の理由がいる?」
「ひどい! だったら、そんなことをしでかした私を投獄すればいいじゃない! 私だって、もうあそこに帰るのはご免なんだから――――」
叫んだ瞬間、ぐいっと腕を引き寄せられた。
「あっ!」
「そんなに俺と離婚したいのは、あの男が原因か? 投獄すれば、王妃の位も剥奪になるから」
いわれている意味がわからなくて、思い切り睨みつける。
「何をいっているのよ? あなたこそ、私といるより陽菜と過ごす方が楽しいくせに――」
ぐっと、リーンハルトが言葉に詰まった。代わりに射殺すような眼差しで、吐息が触れるほどの距離から見つめられる。
だから、どんと突き放した。
「私が嫌いなのならかまわないわ! 今すぐ綺麗に別れてあげる!」
そうだ。こんなところに最早未練はない。
「そんなにもご自分の名誉が大事なのなら、ギイトの代わりに私を牢屋に入れればいいじゃない!? そうすれば王妃の座は空位になるし、リーンハルトだって好きな相手を選べるのだから!」
(あーでも、これでまた死ぬのかしら? さすがに、もう一度転生……なんて、そううまくいくのかな?)
さすがに、もう一度あの死ぬ痛みを味わうのはご免こうむりたい。
うーんと内心唸ったが、すぐに頷くかと思ったリーンハルトは、イーリスを見つめたままぎりっと眉を寄せた。そして、まるで地を這うように低い声がこぼれてくる。
「俺と別れてどうするつもりだ。君には親も故郷もない。行くあてのない君が――」
「お情けで王妃に置いてくれていたってわけ? でも、お生憎様。あなたが牢に一生閉じ込めたりしなければ、どこかで働いて生計をたてるわよ。一応、こちらの世界に来る前は、男に交じってばりばりと働いていたんだし」
瞬間、ぱあんと側にあった机が叩かれた。
「ふざけるな! 元王妃が平民の男に交じって働くだと!? どれだけ俺を馬鹿にすれば気がすむつもりだ!」
「面子より実利よ。とにかく――――私は、これ以上あなたの側にいるのが嫌なの! だから別れたいし、あなただってその方が幸せになれるでしょう?」
「冗談じゃない! 王の名誉にかけて、妻から申し込まれた離婚など受けいれられるか! ましてや、ほかの男と幸せになりたいからだなんて――! 絶対に俺は認めないからな!」
「じゃあ、ここで私の首だけ刎ねればいいわ。そうすれば、私の魂はひょっとしたら元の世界に帰れるかもしれないし、あなただって自分の名誉を汚されるおそれもない。とにかく! 私はもうあなたの側にいるのだけはごめんなの!」
一息でいい切れば、二人の間には呼吸さえもはばかられるような重い沈黙がおりた。
こちこちと針の動く音だけが響く中で、リーンハルトの噛みしめている唇のぎりっという音さえもが聞こえてくるかのようだ。
かちっと十二をさした長い針にかわり、部屋には鐘を打つ重たい音が響く。
「わかった――」
十二回鳴らされた鐘のあと、先に言葉を発したのはリーンハルトの方だった。
「君の決意は。だが!」
と、指を正面に突きつけられる。
「俺にも王のプライドというものがある! いくらなんでも、妻から別れたいといわれて、はいはいと頷けるか!」
「なによ、小さいことを気にする男ね?」
「する! だから、もし君がどうしても俺に離婚を受け入れさせたいのなら、神殿が認める聖姫の位をとれ!」
「聖姫?」
聞いたことのない言葉に首をひねってしまう。けれど、リーンハルトは、こちらがやっと違う反応を示したことで少し冷静になったのか。今までイーリスに突きつけていた指を下ろすと、一つ息をつく。
「聖姫は、神殿が王に等しい存在と認めた聖女に贈る位だ。基本は、奇跡を起こした聖女に授けられるが、今までの聖女がなした偉業に並ぶのにふさわしいと試験で認められれば、神殿から特別に贈られたりもする」
「ええっ、試験!?」
試験という単語には、思わず反応してしまう。
大学入試、就職試験。どれも苦労したせいで、試験にはあまり良い印象がない。甦った記憶に、イーリスの顔が引きつったことに気づかれたのだろう。
ぴしっとリーンハルトの指がイーリスに突きつけられる。
「ほかの案は受けつけん! 第一、聖姫に認定されれば、王妃の化粧料とも並ぶ俸禄が、毎年神殿から支給される。行くあてのない君にだって、悪くはない話だろう!?」
「確かに――」
(なるほど。リーンハルトにしてみれば、私に対する今後の不安の解消と、王としての名誉が保てる一石二鳥の方法というわけね)
ならば、受けないわけにはいかないだろう。
「いいわ。受けてやろうじゃないの! その聖姫認定試験とやら!」
びしっと指をリーンハルトに突き返す。
「だけど、私が聖姫になれば、あなたは私と離婚する! そしてギイトも無罪放免! これだけは絶対だからね!」
主張を認めさせるように、じっと自分を見つめるリーンハルトを睨み返す。
(そして今度こそ、私は離婚して、あなたから自由になってやるわ!)
今度こそ願いを叶えてみせると、イーリスは、目の前に立つリーンハルトを挑発的に見つめ続けた。