第46話 対峙
持ち慣れた白い扇をイーリスは握りしめ、コリンナをつれながら、朝日に輝く離宮の通路を歩いていく。
昨夜からかなり時間がたち、離宮の通路は、窓から差し込む光で、果樹を描いたタイルが美しく輝いている。一日の始まりを告げる時間にふさわしい爽やかさだというのに、廊下を歩く二人の気分は、それとは対照的に最悪だった。
「まさか、陽菜様の料理に、毒キノコの汁を入れていたとは……!」
憤懣やるかたないと示すかのように、コリンナが後ろで盆をもって歩きながら、唇を尖らせている。
その声を聞きながら、前を歩くイーリスも静かに頷いた。
「そうね。もし、陽菜が私と同じように料理が下手で、焦げを気にするあまり大事なときには、加熱時間を短くするようなタイプだったら。今回のレナの茶番は、成功していたかもしれないわ」
(いくら聖姫になって、王妃の位がほしいからとはいっても……!)
ここまでする!? というのが本音だ。かつかつと歩く足も自然と速くなるが、向かっている方向は昨日倒れた陽菜の住む棟ではない。
「あら、イーリス様」
まるで王妃とは認めないと言外に告げるかのように、イーリスたちが、南の棟に入った途端、近くにいたレナがこちらに気づいて微笑みかけてきた。
思わず足が止まる。
「――ポルネット大臣……!」
見れば、廊下で亜麻色の髪を柔らかに波打たせたレナの側には、ポルネット大臣が狡猾な笑みを浮かべて立っているではないか。ゆっくりとこちらを見つめてくる瞳は、まるで仕留める獲物を見つけた狼のようだ。警戒を解かせるためなのか。緩やかに笑った。
「おお。これは王妃様。相変わらず、お元気そうでなによりでございます」
――殺したくても死ななかったと聞こえるのは、気のせいだろうか。
(どうして、ポルネット大臣が……)
朝早くからここにいるのだろう。ちらりと側に立つレナの天女のように無邪気な笑みを眺める。一瞬視線を交わす二人の様子に、内心ふうんと頷いた。
(そういうこと――)
つまりは、昨日の首尾を尋ねにきたのだろう。そして、陽菜には勝ったという事実と、イーリスに毒がもれたのかどうかという二つの事柄を確かめたかったのに違いない。
(もっとも、死にはしない食中毒ならば、レナが聖姫試験の資格を手に入れただけで、とりあえず十分なのでしょうけれど)
あくまで、とりあえずはだ――。
王家に恨みがあって、ポルネット家を認めさせたいのならば、次はなにをしてくるか――。
第一、自分はポルネット大臣にしてみれば、姉のときに味わった屈辱を、再度自分に感じさせた憎い相手だろう。
「ところで王妃様はどうしてこちらに?」
手を差し出しながら尋ねてくる姿は、穏やかな笑みを浮かべている。腹の中がどうであれ、尻尾を掴ませる気はないらしい。姉君の話は気の毒だとは思うが、そんな自分の恨みのために、陽菜の人生を無茶苦茶にした男――。
かっと音をたてて、靴の向きを変えると、さらりと扇を広げた。
白い貝細工の扇に朝日があたり、きらきらと眩しい光を放つ。
「ええ、陽菜が心配で参りましたの。同じ聖女で、大切な私の仲間ですもの。お蔭で昨夜は碌に眠れませんでしたわ」
ちらりとレナを眺めて、言外に、本当は貴方もこちらにいるべき仲間なのだと示してやる。だから、こちらへ来れば許してやるという警告だったのに――。
扇が弾く光を華やかにかざしながら話すイーリスの様子に、レナは嫌そうに眉を顰めているではないか。
「はは、王妃様はご心配性ですな? 確かに仲のよろしい陽菜様のご容態を案じられるのはわかりますが――」
「ええ。だって陽菜の症状は毒キノコのせいかもしれないのですもの? 陽菜のには、キノコなんて使われてはいなかったのに。不思議ではありませんこと?」
切り込めば、ぴくっとポルネット大臣の眉が動いた。しかし、隣に立つレナは、ふわりと花のような笑みをこぼす。
「まあ、そんなことが?」
「ええ。おかしな話ですわ。食中毒にしては、症状が出るのが早いと思って、念のために厨房を調べてみましたの。そうしましたら、こんなものが」
言葉と同時に、後ろのコリンナに持たせていた盆に載せた袋を前に出す。見た瞬間、さっとレナの顔色が変わった。
「イーリス様、やっぱり……」
「そうね。間違いなさそうね」
二人だけに聞こえる声で囁いてきたのはコリンナだ。一緒に、じっとレナとポルネット大臣の様子を目で追うが、二人の顔は、明らかに差し出した木の盆にのせられた茶色い麻袋を知っているものだ。
「この中に」
さらっと紐をほどき、イーリスが中身を盆の上にこぼして見せる。
「カキシメジという毒キノコが入っていましたの。毒性は、腹痛嘔吐下痢、頭痛など。昨日見たときは細かく刻んであって気がつかなかったですけど。確か、これはレナさんの使われていたキノコですよね。どうして、ゴミ箱に捨てられたの?」
「それは……」
一瞬だけ、レナの瞳が動いた。翡翠色の瞳が、ちらっとポルネット大臣を見つめて、ゆっくりと唇が自信ありげに持ち上げられていく。
すぐに、花のような笑みで、イーリスを見つめた。
「変なキノコが混ざっているのに気がついたので、念のために捨てたのですわ。まさか、そんな怖いキノコだったなんて……! 皆になにかあれば大変と思って捨てたのですが、正解でしたわね」
白々しい!
にっこりと愛らしく笑う仕草も、そのバラのつぼみのような唇からこぼれる言葉も、すべてが嘘で塗り固められている。
「貴方が持ち込んで、このキノコの毒を陽菜の料理に入れたのではなくて?」
「心外ですわ? 第一、陽菜様の料理にキノコは使われてはいなかったでしょう? どうして私が――」
「このカキシメジは、キノコ本体よりも毒が溶け出した汁を、どれだけ飲んだかで症状が変わるの。貴方は陽菜の隣で調理をしていたわよね? そして、卵中毒にしては、おかしなほど早く陽菜だけが嘔吐をした――」
「だから、私がそのキノコの汁を陽菜様の料理に入れたと言われるの? それは、なにか証拠でもあるのかしら?」
くすっと笑う声に、詰まってしまう。
――あるはずがない。
あの時、キノコの汁が入れられたのは、おそらく陽菜が最初に味見をして違和感を抱いたタレにだったのだろう。それを捨てて、陽菜は新しく作り直した。品物はないし、早朝からメイドたちにも尋ねて回ったが、レナが入れた現場を見たものは誰もいなかった。
――実に狡猾に。
まるで雪豹が、白い雪原で獲物にとびかかるために身を隠すように、忍びやかに行動して、毒を入れたのだ。
(最後の卵の殻と同じように!)
ぐっと血が滲みそうなほど、唇を噛みしめてしまう。
(そうだわ。証拠がない……)
レナが陽菜の料理に入れたという証人も。だが。
「でも、このキノコを王宮に持ち込んだのは貴方よね?」
いえば、ぴくりとレナの亜麻色の眉毛が持ち上がった。
かつんと、一歩前へと進み出る。
「王宮に毒物の持ち込みは禁止なはずよ? 特別に許可を取ったのならともかく――。しかも、それで、国も認めた聖女陽菜の口に入る事態を作りだしてしまった」
次いで、こつこつと近づき、怒りを秘めながら、レナを見据える。
「これは重大な違反だわ。これに対しては、なんと申し開きをするつもり?」
すっと扇を差し出す。細めた扇の光が、レナの前で警告のように瞬く。
「だから――間違いで、注文したのとは違うキノコが入っていたから捨てたと……!」
少しだけ顔が引きつっているのは、王宮に毒物を無断で持ち込むことが、重罪に問われると知っているからだろう。
「だいたい、捨てたのだから――」
白い扇を光らせながら歩いてくるイーリスの迫力に押されたのか。レナの足が僅かに、一歩下がる。
しかし、その肩を支えたのは、隣に立つポルネット大臣だった。
「まあまあ、王妃様」
皺を刻んだ顔で、にっこりと笑いかけてくる。嫌な笑みだ。まるで、笑いながら、袖の中に持った刃物で、人を刺そうとしているかのように――。
なんと言い逃れをするつもりなのか。じっと注視すれば、しかし、相手はイーリスに向かって深く頷いて見せた。
「確かに、王妃様がおっしゃることはもっともです。王宮に毒物の持ち込みは厳禁――。ならば、食材を依頼した業者を調べ、しかるべき厳罰をうけるように致しましょう」
「えっ」
思わず、その瞳を見つめてしまう。しかし、大臣はにやりと笑っている。
「なにを驚かれます。依頼した業者が、入れ間違えたのです。それならば、厳重に処罰をするのは当然のこと――」
(この男――!)
ハーゲンと同じく、納品業者の男にすべてをなすりつけて切るつもりなのか!
あくまで、品物の入れ間違いだということにして。
(ここまで強気なのだ。きっと、キノコを交ぜて納品させたことを秘密にする方法があるのだろう)
また、なにかの手段で脅しているのか――。それとも、家族の命を人質にとっているのか。
食いこんだ爪が痛いほど手を握りしめてしまう。だが、これ以上無実の人をはめさせるわけにはいかない。
「いえ、結構よ? 名前だけ教えてもらったら、こちらで調査をするわ。悪意があったのかなかったのか――」
「ははは。立派な治世を築かれている陛下の御代で、悪意などあろうはずもございません。おそらく、ただの手違いだとは思いますが、王妃様が処罰をお望みならば仕方がありませんな。それとも王妃様は、なにか別のご心配ごとでも?」
「いいえ。そうね、ただの手違いだと思うわ」
ぎりっと唇を噛みしめるが、納品に来ただけの者まで殺させるわけにはいかない。
「ただの手違いに、過剰な罰を下すつもりはないわ。誰にだって、間違いはあるのだから……」
(なんて悔しい――!)
業者からポルネット大臣の指示だったと聞き出すことができればいいが、この自信ありげな様子ではまず無理だろう。
(この二人のせいで、陽菜が苦しんだというのに――)
許せない。陽菜を苦しめたことが――。
罰してやりたいのに。無用な罰を他の者に背負わせるわけにはいかない。
唇を噛みしめると、まるでわかっているかのように、大臣が笑った。
「さすが! イーリス様はお優しい!」
なんて寛大な処置をと感嘆している姿に、手が震えてくる。
――悔しい。陽菜の仇を今とってやりたいのに、証拠がない。
こみあげてくる憤りに、噛んだ唇に血が滲みそうになったときだった。
「なにをしている?」
「あっ! 陛下!」
レナの弾けるような声で、後ろを驚いて振り返ったのは。
見れば、いつのまにか、銀色の髪を輝かせたリーンハルトがイーリスの後ろに立ち、驚いた顔で、肩に手を置きながら、自分を見つめているではないか。
「リーンハルト……」
思わずアイスブルーの瞳を見上げた。薄い水色の瞳は、心配していた色を浮かべながら、ごく至近距離から自分を覗きこんでくる。
「心配したぞ? 朝食の時間になっても帰ってこないから」
「あ!」
言われてみて、はっとした。そうだ。頭に血がのぼりすぎていて、うっかりとしていたが、考えてみれば、確かに二人で朝食を食べる時間はとっくに過ぎている。朝に急な用件が入ったから、少しだけ時間に遅れるとリーンハルトが伝えてきたので、先にこちらに来ていたのだった。
「陽菜の見舞いに来たのか? それならば、俺も行くが」
きっと帰ってこないイーリスのことをよほど心配していたのだろう。金色の瞳が自分を映している様子を確かめて、ほっと大きな息をついている。
「陛下!」
だが、その瞬間、後ろから肘でイーリスをよけるようにして、レナが側に近寄ってきた。
弾ける笑顔は、会いたくてたまらなかった相手に、ようやく出会えた少女のようだ。無邪気な笑みを浮かべ、真珠のような肌をもつ両手をリーンハルトへと差し出していく。
「私! 昨日、あのあと陛下へのお菓子も作ってみたのです! 陛下は、クッキーがお好きだと聞いていたので……」
「なっ……!」
まさか、陽菜とテスを中毒にしたあと、また平然と料理をしていたというのか。
さすがに唖然としたが、レナは夢見るような顔で小さな袋を取り出して、リーンハルトを見つめていく。見上げた手の中に持たれているのは、ピンクのリボンがついたかわいい包みだ。まるで今のレナの頬のように――。
陽菜ほどの料理の腕ではないが、それでもその様子から懸命に焼いたということが伝わってくる。
「私――陛下に召し上がっていただきたくて……。陛下のことを考えながら作りましたの。お好きなクッキーの味だとよろしいのですが」
うっとりと。息を呑んでしまいそうなほど幸せそうな笑顔で、ようやく近づけることができた大好きな相手を見上げている。
「勘違いするな」
しかし、その瞬間返ってきた冷たい声に、イーリスの背中がびくりと震えた。
「リーンハルト……?」
よく聞き慣れた声だ。なにか不満があって、苛ついたときに何度も耳にした氷のような声――。
恐る恐る振り仰げば、リーンハルトの手は、ぐいっとイーリスの肩を掴んで引き寄せていくではないか。
「俺が、休憩時間に、クッキーばかり何日も食べ続けていたことがあったから、そんな噂が流れたのだろうが。あいにくと、俺が好きだったのは、イーリスが俺のためだけに作ってくれたからだ。勘違いをするな」
第一、普通の菓子ならば、宮中のシェフので十分だというと、もうレナには見向きもせず、イーリスの肩を掴んで歩いていく。
その様子に思わず目をぱちぱちとさせた。だが、強く肩を抱かれて歩き出した中で、ふと振り返れば、後ろでは潰れそうなほど強くクッキーの袋を握りしめたレナが、泣きそうな顔で自分を睨みつけているではないか。悔しげな翡翠色の瞳が、殺気をこめてイーリスを見つめる前で、リーンハルトの手の温もりがより強くイーリスの肩を自分へと引き寄せていった。