第43話 異変
「陽菜!?」
離宮の白い床に突然倒れてしまった陽菜の許へと急いで駆け寄る。
「どうしたの!?」
貧血でも起こしたのだろうか。慌てて覗きこんだが、白い床に俯いた陽菜の顔は真っ青だ。
「すみません。なにか……気分が悪くなって……」
「気持ちが悪いの!?」
長い間、竈の側で動き回っていたせいか。熱さで、体調を壊したのかもしれない。
「待ってて! すぐに横になれる部屋に連れて行ってあげるから」
慌てて担ごうとしたが、いくら細いとはいえ陽菜の体はもう高校生だ。代わりに、肩に腕を回させようとしたが、支えきれずに足がふらついてしまう。
(しまった……! いつものハイヒールだから、うまくバランスがとれないわ)
それでも、なんとか顔色の悪い陽菜の体を支えて、一緒に近くの部屋まで歩き出そうとしたときだった。
ぐっと陽菜が目を寄せると、次の瞬間、どんとイーリスの体を突き飛ばす。
「陽菜!?」
そのまま陽菜は、急いで細やかな装飾がされている窓に近づくと、伸ばした片手でバンとそれを開いたではないか。乗り出すように身を屈め、何度も胃の中の物を吐き出す音が聞こえてくる。
部屋の中にいるイーリスたちのところまで、窓から胃液の饐えたような匂いが広がってきた。こらえきれないように陽菜は、窓から上半身を乗り出したまま、苦しそうに何度も嘔吐を繰り返している。
「陽菜……」
最初は驚いたが、すぐにイーリスを汚したくなかった陽菜の気持ちに気がつき、後ろからそっと優しく背中をさすってやった。
「大丈夫?」
「イーリス様……すみません。食事の席で、こんな行儀の悪いことをしてしまって」
「いいのよ。体調の悪いときは、誰にだってあるのだし」
それよりも急いで医者をと、すぐにアンゼルを大翼宮へ呼びに行かせる。
「陽菜様、さあ。私の背中に掴まってください」
代わりに、ギイトが陽菜の側で背中を屈めた。
「でも、私……今ので口の周りとかが汚れてしまって……」
部屋まで背負っていこうというギイトの言葉に、もしも服に汚れがついたらとためらっている。
「平気ですよ。神殿では、見習いの頃、よくこうやって具合の悪い子をおぶったりしていましたから」
「すみません……」
小さく謝りながら、それでも歩くのが辛いのか。陽菜は、素直にギイトの背中にもたれかかり、部屋へと連れて行ってもらう。
陽菜の部屋は、この離宮の北側にある棟だ。元々玄関が東側にあるので、北側の棟といっても、日射しの問題はなにもない。それどころか、西側に広がる窓には、王宮の奥庭で流れる川が広がり、反対側にある窓からは、東の庭園の整えられた美しい生け垣が見えるという王宮の数ある建物の中でも、絶景のポジションだ。
その奥の川のせせらぎが聞こえる部屋に慌てて陽菜を運ぶと、天蓋のついたベッドに急いで体を横たえさせた。
「ギイト! メイドの誰かを呼んできて!」
「わかりました!」
天蓋についている花柄のカーテンを閉めながら叫べば、急いでギイトが飛び出していく。
今、こうやって眺めても、陽菜の顔色はまだ悪いままだ。
「とにかく、ドレスをゆるめなくては……」
このドレスでは、きっとコルセットも身につけているはずだ。気分が悪い時に、そんなものまでつけていては、更に悪化してしまう。
背中のドレスの結び目を解こうと紐に手をかけた時、また陽菜が、ぐっと口に手を押し当てた。
「陽菜! 吐きそうなの!?」
辛そうに涙を溜めながら頷く姿に、急いで側にあった水差しを口にあててやる。
「この中に吐いてもいいから!」
何度もえずきながら、繰り返す嘔吐に必死で背中をさすってやった。肩が出るところまでドレスを緩めて、服の隙間からコルセットの紐を解いたから、少しは腹部を締める感覚は減ったはずだが、まだ陽菜の吐き気がおさまる様子はない。
「御殿医を連れてきました!」
大翼宮まで走って、いつも王宮に勤務している医師の一人を連れてきてくれたのだろう。
「よかった! 早く陽菜を見てください!」
「あ、いや。いつもイーリス様を診ておられる医師の方は今騎士団に行かれて、不在でしたので。代わりに、ほかの方をつれてきたのですが」
「かまわないわ! 誰でも!」
アンゼルが話す声に振り向きながら、まだ若い医師に、急いで陽菜の診察を頼む。
王宮に勤めているのならば、医術の知識は間違いがないはずだ。普段王族を診ている医師ではなくても、医術の心得があるのならば問題はない。
だが、まだ若い青年は、聖女と聞いて恐れ多いのか。陽菜の側におそるおそる近づくと、そっと横顔を覗きこんでいく。
「どんなふうに、お苦しいのですか?」
「さっきから、吐き気が止まらなくて――」
「吐き気、ですか」
手首を持ち、静かに脈と熱を測った。そして正面から眼球を見つめて、両手で白い首筋に触れていく。
その時、イーリスの横で陽菜をじっと見つめているアンゼルの姿に気がついた。
「ア、アンゼル……。あなたは、私と一緒に外で待っていましょうか」
「なんでですか!? 俺は陽菜様のことが心配で!」
「ええ、わかっているわ」
(でも、あなたが、陽菜のむき出しになった白い肩を見ていると、どうしても違う心配が私の中で湧き上がってくるのよ!)
心配して見守っている――その視線に間違いはないはずなのに。なぜだろう。とにかく彼をこの部屋から出せと本能が告げている!
(陽菜が大変な今はともかく――)
正気に戻ったら、しっかりと記憶に焼きつけた陽菜のまろやかな肩の曲線を、これ幸いと至福の笑みでスケッチ帳に描きとどめそうだ。
「そんな! 陽菜様の具合が悪いのに、おつきの俺が側を離れるだなんて!」
「ええ、よくわかっているから!」
(あなたの今の真実も、未来に起こすだろう行動も――!)
ぐいぐいと背中を押して、廊下で待っている皆のところへと連れて行く。
「聖姫様! 陽菜様の様子は――」
マリウス神教官のいつも穏やかな顔も、今は真っ青だ。
「医師に診てもらっているわ。すぐに治ればいいのだけれど――」
朝早くから頑張りすぎたのかもしれない。それとも、この間から、旅行に行ったり、自分が無理矢理喚びよせられたことを知ったりして、本当は精神的に参ってしまっていたのか――。
「そうですか。では、陽菜様が落ちつかれるのを待ちましょう」
そう言って、みんなで食堂の隣の部屋に移っていったが、こちこちと金時計の針が過ぎても、陽菜が戻ってくる気配はない。
「おかしいわね……」
呟きながら、イーリスは、部屋をこつこつと静かに歩いた。見た目ではそうだが、本音では、うろたえた熊が檻の中で、うろうろとしている心境だ。
(陽菜は大丈夫なのかしら!?)
何度も部屋の前まで様子を見に行って、中にいるメイドの子たちに様子を訊いたが、どうやら吐き気が止まらないらしい。
(やはり、無理をしていたのではないかしら……)
もっと気をつけてやればよかった。ただでさえ慣れない世界なのだ。そこに、無理矢理連れてこられたという話を聞いて、本心ではとてもショックだっただろうに。
焦りながら時計を見上げても、まだ陽菜が回復したとの知らせは届いてはこない。もう、時間は夕方近いというのに――。
「ねえ、ここでいつまでもこうしていても、時間の無駄ですわ」
そういえば、何故いるのだろう。むっとしながらレナを見つめたが、今まで文句も言わずに、ここにいたので違和感を覚えなかったのだ。
いや、心の中では、レナも陽菜を心配しているのだろうと勝手に思いこんでいたのもある。
「疲れたのなら、部屋に戻っていてもいいのよ?」
どうせ同じ建物だ。南側の棟に移動するだけなのだから、簡単だろうに――。
言った時だった。がたんとテスが急に立ち上がると、辺りを見回して、離宮の厨房へと走って行くではないか。
「な、なに……?」
一体急にどうしたというのか。
慌てて追いかけていく。だが、その前で、テスは流しの一つに蹲り、我慢できないように黄色い胃液を吐き出したではないか。
「なっ――」
陽菜とまったく同じ状態だ。なにが起こっているのか。目の前で見た様子に、イーリスは顔から血の気が引くような思いがわきおこってきた。