書籍化お礼小話 縁談(後編) ※リーンハルト視点
聖女降臨の話が出てから、しばらく経った頃。
北方諸国からはそろそろ雪の便りが伝わる頃だろうか。リエンラインでも、朝夕は暖炉に火が入れられるようになった季節に、父上が、珍しく大きな足音を響かせながら、俺の勉強している部屋へと駆け込んできた。
「リーンハルト!」
どうしたのだろう。つい先ほど、北からの使者と会うと言っていたのに。
珍しく大きな音をたてて、部屋に飛び込んで来た父上を見つめれば、笑いながらつかつかと歩いてくる姿の小脇には、一つの大きな額縁が抱えられているではないか。
「見ろ! これが、今届けられてきたお前の婚約者に決まった姫の姿だ!」
ぱっと持ち上げて、俺の目の前に掲げられた。見せられた額縁は、金で装飾がされた繊細なものたが、目の前に持ち上げられた瞬間、俺の瞳はそれよりも絵に描かれた金色に吸い込まれるかと思った。
絵の中では、一人の姫君が、静かに座ってこちらを見つめている。膝に本を広げて、少しだけはにかんだ表情を浮かべているのは、肖像画を描かれることに、まだあまり慣れていないせいなのだろうか。
少しだけ緊張しているようにも見える。
でも、なんてかわいい姫君なのだろう。
目も髪も金色で、太陽の光にきらきらだ。
ベランダの椅子に座っている姿だが、後ろの庭に描かれているどの花たちよりも鮮やかに見える。髪と瞳が、緑の草花を背にして、太陽の光に眩しいほど輝いているではないか。
息をするのも忘れて、絵に目を奪われていたらしい。
「気に入ったか?」
にやにやと父が、絵の後ろで俺の様子を見ながら面白そうに呟いている。
「ほう、すごく愛らしい姫君ですね」
さっきまで難しいテルノウン語の本を広げながら教えていたグリゴアも、父が差し出した肖像画を見て、机の向こうから感嘆したように呟いている。
「ああ、そうだろう。道理で、ルフニルツの王も厳重に姫が聖女だということを隠そうとしていたわけだ」
かわいくて、よほど手元から離したくなかったらしいと、父上はかかっと勝ったように笑っている。
「この肖像画が贈られ、婚約者に決まったということは……。遂に向こうも了承を?」
「ああ。結婚と引き換えに、他国の侵略から守ってやると申し出たからな。ガルデンの脅威にさらされている国としては、リエンラインまで敵に回す覚悟で、断ることはできなかったらしい」
にっと父上は満足そうに笑っているが、俺の耳にはその言葉の半分もきちんと届いてはいなかった。
――なんて、綺麗な姫君なんだろう。
こんな女の子は初めて見た。
「どうやら――リーンハルト様もお気に召したようですね」
あれからずっと絵を眺めたままの俺を見て、後ろまでやってきたグリゴアがにっこりと笑っている。
「かわいい姫君ですし」
さらっと黒髪を揺らして、俺の顔を覗きこんできた。
「会ってみたいと思われましたか?」
「う……うん……」
――会ってみたい。
言われて、思わず頷いてしまった。
今感じたこの気持ちはよくわからない。でも、きっとそれに近いのだと思う。だって、言われても少しも反発を覚えなかった。
「そうか! ならば重畳だ!」
「それならばなによりです。会われてみたいと思われたのなら、これからうまくいく可能性だってありますから」
「そうなのか……?」
父とグリゴアは、俺の様子を見てにこにことしているが、まだよくわからない。
ただ、この絵を見てわかったことは。
この子が、いつか俺の妃になる。今までに会った女の子たちの中で、こんな感覚を味わったのは初めてだ。
この金の瞳で、彼女はどんなふうに俺を見つめてくれるのだろう。この愛らしい顔で、どんなふうに俺に話しかけてくれるのか。
「お前の婚約者になったイーリス姫は、使者の話によると、歴史の話が大好きな勉強好きな姫君だそうだ。いろんな王の治世や戦史についても興味があるそうだから、きっとお前とも話があうだろう」
「それはようございました。お会いできる日が楽しみですね」
父やグリゴアは、俺の様子を見て、なんだか満足そうだ。だが、恋や愛について詳しくない俺には、まだ自分のこの感情がよくわからない。
だから、いつもとは少し違う鼓動を打っている胸をぎゅっと握り締めた。
わからない、どうしていつもより胸の音が大きく聞こえるのか。
どうして、今でもまだこの絵の姫君を見ていたいと目を動かすことができないのか。
ただ――これだけは、はっきりしたことがある。
そう、俺は、今この瞬間から、この姫が来てくれることが楽しみになった。
いつか彼女がこの国に来てくれる。そして、いつか俺の妃になってくれる日がくる。
恋とか愛とかについてはまだよくわからないけれど、たった一つ、今の自分にわかることがあるとすれば――そうだ。俺は、いつか彼女に会いたい。
どうしてだろう。彼女の姿を見ると、なぜか甘い気分に包まれる。
だから、俺はなぜか火照った顔で絵をうけとると、誰もいなくなってから、ことんと勉強部屋の壁にその絵をかけた。
いつか出会える婚約者の姿を、毎日眺めて、楽しみに待ちながら。