第41話 陽菜との対決②
こつこつと近づき、マリウス神教官は困ったような笑みを浮かべている。
「それは――神のご意向次第となりますが」
苦笑しながら答える様子を見ると、どうやらこの間ギイトの伝えてきた神殿の意向は、やはりそのままらしい。笑いながらも、マリウス神教官は慎重に言葉を選んでいる。
その様子に少しだけほっとする。その間に、マリウス神教官を離宮まで案内してきたギイトは後ろから近づいて、こそっとイーリスの耳にだけ聞こえるように囁いた。
「神殿は、今回の対決はあくまでも非公認。聖姫様に次ぐ位である聖女同士の対決というふうに捉えたい考えらしいです」
「ギイト」
いつも真面目な側近の顔を振り返る。どうやら彼の言っていることが、神殿の本心なのだろう。
「いくらレナ様が、新しく降臨された聖女だとしても、神殿としては、既に神がご意志を示されたイーリス様から聖姫を変えるつもりはありません。ですが、懸念もあります。レナ様は、聖姫試験を受けたいと強く望まれ、降臨して随分な時間がたたれてから、お姿を表に現された――」
いつもは穏やかなギイトの顔が、少しだけ苦しげに引きつっているのに気がつく。
「それは……まさかだけれど。聖姫試験の準備をしていたかもしれないということ?」
「おそらく。聖姫試験の内容は、代々伏せられていますが、今回は陽菜様との対決で、歴代聖女の奇跡の再現と知られています。今までに現れた聖姫様は六人。しかも、二人分は既にイーリス様と陽菜様ので行われています。ならば、ほかの奇跡の再現をレナ様が対策していても、おかしくはありません」
言われた内容に、頷く。
「そうね。確かにこの期間。街から街へ自分の噂を広げるだけではなく、聖姫試験にも備えていたのかもしれないわ」
いくら聖女の詳細な記録が失われたとはいえ、リエンラインでは神格化されている聖姫の奇跡ならば、人々にはさすがに知られているだろう。
――だとすれば、戦えば不利になるのは、なにも備えていない自分の方だ。
ぐっと眉を寄せる。今からでもなにか対策をしておいたほうが、いいのかもしれない。だが、たとえ知って戦ったとしても、自他共に手先が不器用と認める自分が、技術のいることで敵うことができるのかどうか。
強く、持っている扇を握りしめた。その左手に光っている水色の指輪を無意識に逆の手で撫でてしまうのは、今はこの指輪だけが目に見えるよすがだからだ。
(大丈夫。こんなことで、あの時のリーンハルトの言葉がなくなったりはしないわ)
『イーリス・エウラリア嬢。どうか俺と結婚してください』
はっきりと言われた言葉を思い出して、胸が熱くなってくる。
『初めて会った時から、ずっと好きだった。だから、どうかもう一度俺と結婚してほしい』
あの時はまだ不安が残っていて、返せなかった答え。でも、今ならば、自分が答えたかった返事がはっきりとわかる気がするのに――。
ぎゅっと指を握り、あの時のリーンハルトの笑顔を思い出す。
(大丈夫よ。こんなことで、リーンハルトと終わったりなんかしないわ。それに……)
自分には多くの仲間がいる。たとえどんなに自分が不器用でも、陽菜のいいね力は確かなものだ。
(だから、大丈夫――)
心ではそう思うのに、不安が口をもたげてくるのはなぜなのか。
「あ、陛下!」
だから、部屋の入り口を見て叫んだレナの言葉に驚いて顔をあげた。
「来てくださったんですね! 私、この試験に勝って、必ず陛下の側に立つのにふさわしい聖姫になってみせますから!」
「レナ」
「陛下も今日の料理を召し上がってくださるんですか?」
「いや、今日は仕事があるので、少し様子を見に来ただけなのだが……」
明るくはしゃぐレナに気分が暗くなってくる。しかし、その瞬間、陽菜がぐいっとリーンハルトの腕を引っ張った。
「陛下! もちろん、私の応援に来てくれたのですよね? 私、イーリス様への恩返しとして頑張っちゃいますから!」
腕の仕草で強引に自分のほうへ振り向かせるのは、陽菜の得意技だ。
驚いて見た瞬間、リーンハルトの視線が陽菜の後ろのほうで立っているイーリスを捉えた。
「イーリス!」
振り向かされたことでアイスブルーの瞳が気がつくと、心得たように陽菜が瞬時に手を離して、リーンハルトの足が近づいてくる。
「どうした!? 顔色がひどく悪いが?」
急いで駆け寄ると、心配しているように覗きこむ。手をもたれて、自分の指が冷え切っているのに気がついた。
「体が冷えているな。厨房でも、広いから窓の近くは寒いのだろう。なんなら、隣室にある暖炉の側に――」
握っただけで伝わってくる冷たさに心配している。朝食の席で会ったはずなのに、イーリスの顔を覗きこんでくる端正な面持ちを見ると、顔がぼんと赤くなってしまった。
(ま、まずい! 近すぎる!)
つい今し方まで、この顔と別れなければならない未来があるのだろうかと考えて、心が冷え切っていたのに。その直後に、頭に爆弾を落とすようなこの至近距離。はっきり言って、心臓が沸騰して、顔が爆発してしまいそうだ。
「うん? 手が少し温かくなってきたな?」
「あ……! リーンハルトの手で温まったのね!」
あははと笑って誤魔化すが、内心では心臓の動悸に気づかれたのではないかと、気分はハラハラだ。
(まずい! 自覚はしていたけれど――)
やはり、自分はリーンハルトを好きなのだ。
一緒にいて、顔を覗きこまれただけで、心臓が跳ねてたまらないほど。
嬉しさを隠すように顔を逸らすが、陽菜はそんなイーリスの様子を微笑ましそうに見つめている。逆に、まだ手の冷えを心配しているリーンハルトは、よくわかってはいないようだ。
「そうか? 風邪ではないのならいいが――」
(もう! 旅先では、あんなことまでしてきたのに、どうしてそんなところは鈍いの!?)
でも、鈍くてよかったと思うのも本心だ。これで今鳴っているイーリスの心臓の音が、すべて表情からばれていたらいたたまれない。
慌てて扇で顔の下半分を隠したが、そんなイーリスの様子に、レナはむっと唇を尖らせている。
そして、隣に立つ陽菜のボールをどんと押した。
「これ、ここにあっては邪魔ですわ。もう少しだけ、そちらに置いてもらえません?」
「あら、ごめんなさい。もう少しこちらに寄せていたつもりだったのだけれど」
陽菜が、置いていたボールを取ろうと慌てて横を見ている。
しかし、その瞬間、更にどんと押されたボールに当たり、陽菜の用意していた卵が二つ台から下に転げ落ちてしまった。
「あっ!」
「あら」
レナも、その落ちていく卵を見つめている。
床に当たり、ぐしゃりと黄色い身が潰れた。
「失礼。軽く押しただけのつもりだったのですが」
少しだけ、レナの目が瞬いている。
「公正な戦いで、材料が足りないせいで負けたなんて言われても、あとで私が困りますわ。よかったら、これを使ってください」
少しだけ失敗したと思っているのだろうか。自分に運ばせてきた材料の中から、急いで卵を二つ取り出すと、陽菜の側の皿に置く。
さすがにこれは予想外だった。だが、つんと澄ましながらもレナは、卵を取りやすそうに陽菜の前へと寄せていく。その白い卵を見つめ、陽菜が瞼をぱちぱちと弾いている。
「あ、ありがとう」
「別に。借りを作りたくないだけですわ」
言いながら、レナはもう自分の材料へと向かっていく。
その姿に、陽菜が嬉しそうに卵を二つ手で持つと、くすっと笑った。
「意外と律儀なんですね」
そして、イーリスのほうを振り返る。
「イーリス様、安心してください。きっと私が勝って、彼女に聖姫を諦めてもらい、仲良く暮らせるようにしてみせますから」
(それは叶うのかしら)
レナの目は、今もリーンハルトをちらちらと見つめているのに。
そうは思ったが、できれば同じ世界から来た聖女同士だ。今は陽菜のいいね力に賭けようと、祈るようにその姿をみつめた。