第11話 脱出計画
地方官が治めるこの石の館に連れてこられてから、何時間がたっただろう。
緑の絨毯が敷かれたこの部屋の壁に据えられた大きな柱時計では、金色の針がこちこちと音を刻んでいる。
冬だから、北国の夜が寒くないようにだろう。到着と同時に火を入れられた暖炉は目の前で赤々と燃えさかり、花柄のソファに座らされたイーリスの体をも明るく照らし出している。
ギイトやアンナと離されてこの部屋に閉じ込められてから、何時間が経過したのか――――。
「ねえ。連れに会いたいのだけれど」
心の焦りを悟られないように、イーリスは時計の針を追っていた目を動かすと、探りながら扉の前に立つ兵達を見つめた。
(ここに閉じ込められてから、もう四時間。離されたギイトやアンナは無事でいるのかしら?)
捕まれば、すぐに三人とも罪人同然に牢屋に閉じ込められるのだと思っていた。それなのに、イーリスへは簡素ななりのこのVIP待遇。
(正直、嫌な予感しかしないわ。私を殺してもよいと命じたくせに――――)
まさか、今更貴人をかどわかした罪とかで、ギイトに過酷な処罰を与えるつもりなのだろうか。
(私には、都に連れ帰ってから、改めて王妃として断罪するつもりで……)
考えれば考えるほど、嫌な未来の予想しかわいてこない。不安に思わずぎゅっとドレスの裾を握りしめたのに、扉の前に立つ見張りの兵は、目礼をしながらイーリスの言葉に慇懃に返す。
「上からの命令で、ここでお待ちくださるようにとのことです。お連れの男性は、別なところでお過ごしいただいておりますので」
話し方からすると、おそらくイーリスの本当の身分は伝えられていないのだろう。
だが、わざわざ三人も扉を守るように置いていくとは、随分と警戒されたものだ。
(だけど別なところって! 絶対に碌な場所なわけがないじゃない!)
自分達に、矢を射かけて捕まえさせようとしたぐらいだ。死んでもかまわないという意図が、明らかに見てとれる。
(今のところ、私への待遇は悪くはないけれど、それも都に連れ戻されるまでだろうし……)
なんとしても、今ここから抜け出さなければならない。
けれど、逃げ出すにしても、先ずはこの部屋を出ることが重要だ。
(だいたい、アンナはちゃんと手当てをしてくれたの!?)
矢を受けた後、浮き上がってきたあの腕や手の痣。もしも毒が塗ってあったのなら、治療の遅れはそのまま命取りになりかねない。
それなのに、会わせてもくれないばかりか、本当に治療を受けさせたのか、答えてもくれないなんて――――。
ぎゅっと唇を噛みしめる。こみ上げてくる怒りを抑えながら見張りの方をもう一度振り向くと、しばらく鋭い瞳で見つめた。そして、口を開く。
「ところで――――私と間違えて傷つけた女の子。その子の体に、傷が残ったらどうするつもりなのかしら? 手当てをすると言っていたけれど、本当にきちんと医者に診せてくれたの?」
「それは対応していると思います。まだ子供なので、裁きを受けても情状酌量の余地はあると思いますし」
「情状酌量?」
言われた言葉に、ぴくりと金色の眉をあげてしまう。そして、わざと冷酷なイメージで微笑んだ。
(なによ、それは! あの子は無関係だと何度も言ったでしょう!?)
だが、こういう輩は、いくら丁寧に説明をしても無駄だ。命令に違反するのを恐れているのなら、次に打つ手は。
ゆっくりと頬に手を添えて、わざと艶麗に微笑む。
そして、誰が見ても上流貴族だとわかるドレスの中で足を組みかえて、ざらりと空色の裾を豪華に椅子から流す。
「そう。きちんとしてくれているのなら、ありがたいわ。なにしろ、あの子は私の頼みで案内をしてくれていただけの完全な無関係者。それを間違いとはいえ殺したとなると、私を捕らえた部隊。いえ、それだけではなく、私の見張りをしてくれているあなた方やあなたの隊長も、過失致死の罪に問われてしまうものねえ」
過失致死――――さすがに、イーリスが呟いたこの言葉には見張りも動揺したらしい。
「い、いえ。私はほかの部署への命令には、詳しくありませんので……」
「私が、ひとこと都の法治関係者に、ここの部隊が無実の女の子を殺しかけたことを告げたらどうなるのかしら? 嫌なら、せめて彼女の無事をこの目で確かめさせてほしいのだけれど」
座ったままだが、見下すように目の端をあげる。すると、明らかに見張り達の間に動揺が走った。
なにしろ、部屋に入って長いコートを脱いだ今のイーリスの姿は、空色の絹を夜の光に目映く輝かせるほど壮麗な姿だ。袖と襟を彩る精緻な白レースは、ローゼン地方の最高級品。刺繍や飾りこそ少ないデザインとはいえ、暖炉の光を受けて虹色に光る絹は、ドリルッシュ地方で最高ランクに認定された職人だけが作れる秘伝中の秘の業を使った逸品だ。伯爵夫人、いや、普通の公爵夫人でも身につけることはかなわないだろう。
おそらく王族に名前を連ねる一人――――兵達が息を呑むのがわかるほど、ゆっくりと足を組みかえて豪奢なドレスを見せつけていく。中で足が動くのにあわせて、衣擦れを豪華にきらめかせていくイーリスの微笑みに、見張り達の面持ちに緊張が走った。
「俺、隊長に訊いてきます!」
さすがに、独断で中央から処罰をされることになっては大変と判断したらしい。
見交わした残りの二人が頷くのを確かめて、急いで若い兵士が扉の外へと出て行く。
(よし! これで部屋を出られたら、あとは、なんとかギイトのところに行って、彼を助け出さないと!)
このまま都に連れて行かれては、二人とも死罪になってしまう。
(その前に、アンナの無事を確かめて。もう一度駆け落ちなんて口にしないように言い含めてから、彼女は無実だと証明しておかないと)
少々脅しすぎたかもしれないが、これで間違いなくアンナには医者が手配されるだろう。そうすれば、後はギイトを助けて脱出するだけ――――。
取りあえずほっと息をついたのに。今出て行ったばかりの兵士が、もう帰ってきたのか。
石で造られているはずの廊下からは、まるで何人もの人が追いすがるように慌ただしい音がかつかつと響いてくる。
(まさか、すぐそこに隊長がいたとか――――?)
だったら、すごくラッキーだ。一分でも早くアンナに医者を手配してもらって、ここから逃げ出さないと。
(リーンハルトのいる都に連れて行かれる前に!)
そう心に決めて、まっすぐに扉を見つめた瞬間だった。
「イーリス!」
ばたんと開かれた扉に目を丸くしてしまう。
(どうして、あんたがここにいるのよ!?)
驚きで声すらでない。突然開かれた扉からは、銀の髪を乱れさせたリーンハルトが、追いかけてくる侍従すら振り切ったかのように肩で荒く息をしながら立っているではないか。アイスブルーの瞳が、部屋の中にいるイーリスをまっすぐに見つめた。