第37話 三人の聖女
レナを宮殿に連れて帰ってきたあと、想像したとおり王宮は上を下への大騒ぎとなった。
「新しい聖女様が現れたですって!?」
「えっ!? 一人現れるのだけでも珍しいのに――!」
「どうして、今代に限って三人も……」
ざわざわと王宮中が揺れている。聖女の降臨――それは、リエンラインでは、次の王妃が現れたことを意味する本来ならば大慶事だ。
「でも、陛下はイーリス様に求婚書を渡されておりましたわよね……?」
「それに、イーリス様としか結婚したくないと言われているとか。今回はどうなりますの?」
だいたい、何故今代に限ってこれだけ重なって聖女が降臨してくるのか。聖女が複数必要なほどの大災厄の前触れか、それとも神が、リエンラインの王妃にイーリス様をお望みでないのか――。
「でも、イーリス様は神に選ばれた聖姫ですわよね? もう啓示式もすまされて、ミュラー神に認められた……」
「逆に言えば、それだけお気に入りだから、慣例を破っても独り占めにされたいとか?」
「まさか。ミュラー神は女神なのに?」
人の口には戸が立てられない。囁かれている声には頭が痛くなってくるが、どうせまた夫人たちの茶会では、面白いネタとして好きに囁かれていくのだろう。
まだ連れてきたレナを、陽菜が住む小さな離宮の別棟に入れただけだというのに、もうこの騒ぎだ。
陽菜の住む離宮は、王妃宮にも近く、警備も王妃宮担当と同じ近衛の隊にさせている。陽菜を二度と利用されたりしないようにとした配慮だったが、まさかもう一人、同じように警護や住居を使うことになる相手が出てくるとは思わなかった。
「ごめんなさいね、陽菜。あなたの住まいが騒々しくなってしまって」
王妃宮に帰って、改めてやってきた陽菜に謝れば、彼女は可憐な顔で首を振っている。
「いいえ。実際問題として、彼女をポルネット大臣から遠ざけることが大事ですもの」
私みたいにならないためにと呟く姿は、少し俯いて、昔のことを思い出しているのか。
「陽菜……」
その顔は少し悲しそうで。思わず、ぽんと肩に手を置いた。
「それでも、私はまた日本の話ができて嬉しかったわ」
「イーリス様」
思わず、ぐしっと陽菜が涙を拭っている。
「そうですね。私も、本当はイーリス様が同じ世界出身と聞いて、最初すごくほっとしたんです」
見知らぬ世界で、知らない人ばかりの生活――。
それは、政略結婚でリエンラインに来た自分にはわかる心細さだ。
(それでも、私には、またいつか、もう一度この世界の家族に会えるかもしれないという希望があったわ)
それすらもないまったく異なる世界に放り込まれて、言葉も習慣も違う中で生きることを強いられた陽菜の辛さは、どれほどのものだったのか。
(こんなに辛い思いを平気でさせるだなんて……)
ぎゅっと唇を噛みしめる。
(王権にそれほど執着があるのかと思っていたけれど……)
大臣の姉が『公爵令嬢の恋人』の設定で、モデルになっていたという話を聞けば別だ。
ポルネット大臣の姉が、王に婚約を破棄されていた――。
「ねえ」
くるりと後ろに控えていたグリゴアを振り返る。彼は、さきほど事の次第を聞いて、元老院としてイーリスに確認に来ていたのだ。
「さっきトリシャ女史が、ポルネット大臣の姉上が、リエンラインの国王に婚約を破棄されたと言っていたのだけれど」
振り返った先にあるいつもどこか食えない元老院の顔は、少しだけ困ったような表情を浮かべている。
「確かに、昔そのようなこともあったと聞いております」
「昔――というと、リーンハルトの父君の話ではないの?」
「いえ……。確か、陛下のお爺さまの代になる話かと。ポルネット大臣とその姉君は、年の離れた姉弟で、聞くところによると、婚約を結ばれてすぐの頃だったとか」
「それは、やはり聖女の降臨で?」
ごくりと唾を飲み込みながら尋ねれば、怜悧と評判な元老院の男は言いにくそうに珍しく口ごもっている。
「いえ……。それならば名分がたったのですが」
少し逡巡して、心を決めたように口を開いた。
「当時ですが、まだ同盟国ではなかったプロシアンと秘密裏に軍事協定を結ぶことが、内々で交渉されておりました。そのため、プロシアンから是非王家に繋がる姫を、盟約の証しとして娶ってもらいたいという申し出があり、リーンハルト様のお爺さまがそれを受け入れられたのです」
「それは……」
「とはいえ、諸外国に伏せた交渉であったため、婚約を含んだ密約を公にすることもできず。かといって、理由も告げず婚約破棄をすれば、ポルネット令嬢に非があったと見られるのは明らか。それで、当時の国王陛下は、プロシアンからリーンハルト様のお婆さまが外遊のついでによられたのを気に入り、新興のポルネット家の令嬢では、王家に迎え入れるのに少しだけ家格に不満があるという体を装われたと聞いております」
家格に不満があったから、婚約を破棄された――。
「それは、ポルネット家としては、とても不満に思ったでしょうね……」
家柄を理由に王家に拒まれ、婚約を破棄された――。
「はい。当時の国王陛下としては、ポルネット伯爵令嬢自身に不満があるわけではないとして、令嬢の名誉を守られたかったのでしょう。事実、これで令嬢の不貞やその素行を非難する声は起こらず、心変わりされた陛下の冷淡さを責める声ばかりが囁かれたそうです」
ただ――と、すっとグリゴアは紫色の瞳を下げる。
「それ以来、ポルネット家は伯爵家ではあるものの、少し劣る家格だと貴族達から見なされ、令嬢もポルネット家も社交界で軽んじられる扱いを受けるようになりました。リーンハルト様のお爺さまが気づかれて、なんとかその噂を払拭されようと色々とポルネット家を取り立てられたのですが、令嬢の心の傷は大きかったのか。そのまま家と俗世を捨てられ、今はひっそりとお暮らしだということです」
リエンラインの王家から、婚約を破棄され、それをすべて家柄のせいにされた――。
「それは、ポルネット大臣が怒るのもわかるわ……」
どんな想いで、幼い少年は、年の離れた姉の嘆きを見ていたのだろう。そして、自分が政界に出てからの日々、どれだけ陰で家格への囁き声を聞き続けていたのか。
王が婚約破棄をしたために起こったこの話について――。
大臣になれるほどの聡明さならば、きっとその人生のどこかで、この噂がリエンラインの王家がプロシアンとの協定を優先したために流されたものだと気がついたのだろう。
(だとしたら、これは王家への復讐――!)
絶対に、自分たちの家を認めさせるという。姉を退け、ポルネット家に惨めさを与えた王家に、自分たちを認めさせる手段なのだ。
ぞくっと背筋に寒気が走ってくる。
(それならば、たとえどんなリスクがあったとしても、王妃の地位に執着して、異世界からまで聖女を喚ぼうとするのも頷ける……)
どんなことをしても見返したいのだ。自分たちを軽んじて、姉の人生と自分の生涯を踏みにじった王家を。
思わず俯いてしまうと、静かにグリゴアが頭を下げた。
「王妃様からお預かりしておりましたあのレナという娘が配っていた薬については、王宮の薬事室がもう少しで分析できそうだということです」
「……わかったわ」
力なく頷くが、状況は最悪だ。
(これからどうすればいいのか――)
しかし、その時バタバタと駆け込んでくる足音が聞こえた。
顔をあげるのよりも早くに、バタンと扉が開かれる。
「イ、イーリス様……! 新しい聖女が現れたと聞きまして」
「ギイト」
振り返って見れば、衛兵や侍女が、扉を開けるのを待つのももどかしかったのだろう。自らの手で駆け込んできたギイトが、真っ青な顔でこちらを見つめている。
先ほどリーンハルトが連絡を走らせていたから、それで知ったのか。いつも穏やかな彼の顔が、今はひどく焦っている。
「そうなのよ。それでギイトに、この件で神殿との連絡を頼みたいの。新しく現れた聖女――レナというのだけれど。自分にも聖姫試験を受ける資格があると言いだしていて」
「反対です! 聖姫はイーリス様以外にはありえません!」
しかし、話した途端に、拳を握って叫んでいる。
「既に啓示式を終えられ、ミュラー神にも認められております! 今から神の意志に背いて、聖姫試験をやり直すなんてありえません!」
それにこれは、大神官様たちを始め、神殿上層部も一致した意見ですと言われれば、少しだけ心がほっとしてくる。
「そうね。確かにギルニッティで女神様にも認めてもらえたし」
少なくとも、今回のことでは神殿は自分を完全に支持する側に回ってくれるつもりらしい。きっと、陽菜の件で、今回もポルネット大臣が無理矢理聖女を召喚した可能性があることに気がついているのだろう。それとも、アンゼルかギイトの口から、詳しい次第を伝え聞いたのか。
(今から思えば、あの時無理を押してでも行こうと言ってくれたリーンハルトの言葉に従ってよかった……)
こんなに不安定な状況でも、神様の声を聞いたという事実が、自分の不確かな立場を支えてくれている。
(それになにより――)
そっと左手の薬指を撫でた。白いそこには、あの日リーンハルトが贈ってくれた水色の婚約指輪が輝きながら嵌まっている。
(あの短い旅の中で、一緒に過ごしたリーンハルトとの時間が自分を支えてくれる)
――好きだと。
ずっと一緒にいたいと、自分と同じようにリーンハルトも思ってくれていた。それを確かなものとして感じたきらめくような時間。
「大丈夫よ。ポルネット大臣がどんな妨害をしてきたとしても、私にはギイトやみんな。それにリーンハルトや神殿といった信じられる味方がいるんですもの」
「イーリス様……」
陽菜とギイト、そして部屋の奥にいたコリンナまでもが感動したような表情をしている。いつもは冷徹なグリゴアまでもが微笑んでいるのは、イーリスの明るい笑みに感化されたせいなのか。
「それに、彼女もここに引き取って時間がたてば、安心して心を開いてくれるかもしれないし」
「それなんですが、イーリス様」
明るく笑う姿に背を押されたように、今まで側で心配そうに見ていた陽菜が、一歩前へと踏み出した。
「レナがあんなことを言いだしているのは、やはりポルネット大臣に騙されているからかもしれません」
「陽菜?」
だからと、ずいっと身を乗り出す。
「私が説得してみようと思います。同じ召喚された者同士、打ち解けて話せば、きっと彼女とも仲良くなれると思うのです」
「それは――確かに、そうできるのなら一番だけれど」
しかし、あの祭りの時の態度を見ていると、彼女がイーリスに面白くない想いを抱いているのは明らかだ。
「でも、そんなことができるのかしら?」
心配になって尋ねれば、陽菜は胸を大きく叩く。
「任せてください! 私が話して、きっと彼女と仲良くなってみせます!」