コミカライズお礼小話 二人の過去編 十五歳の夏(後編)
一週間後。
プロシアンより新しく赴任してきた大使の歓迎パーティのために着替えながら、イーリスは戸惑った声をあげていた。
「ねえ? さすがに、これはデザインが大人っぽくすぎないかしら?」
尋ねれば、きゅっとコルセットを後ろで締められる。
「いえいえ、イーリス様のご年齢なら、もうこれぐらい着てもおかしくはありませんよ?」
袖を通すのに、ばさっとかけられたドレスは、どんなパーティーでも目を引くだろう美しい臙脂色だ。
普段イーリスが着ることの少ない色だが、華やかでも落ちついた赤さは、この国の最高級の女性にふさわしい気品を感じさせる。動きやすいデザインを好むイーリスのことを考えて、装飾は銀色の刺繍のみで行われているが、代わりにスカートを包むようにして、もう一枚腰から後ろへとゆったりと流れていく二重になった裾が、鏡の中でもひどく優美な雰囲気だ。
「でも……」
ちらっと、イーリスは自分の胸元を見つめた。
銀色のレースをほどこされた胸元では、王室の至宝という薔薇を象った豪華なダイヤモンドの首飾りが目映く輝いている。歴代の王妃に受け継がれてきた品らしいが、当然それを引き立てるために、胸元はいつものデザインよりも開いて、白い肌をさらに強調している。
「少し大胆な気もするわ。似合っているかしら?」
「大丈夫ですよー。イーリス様は、同じ年齢の女性たちに比べても、スタイルがよいほうですもの。もっと体型の美しさを強調してもよいぐらいです。貴族の令嬢たちだって、これより大胆なドレスを着ていたりするでしょう?」
言われてみれば、確かにそうだった。
特に夏で、涼しげなドレスを好む今は、貴婦人たちもこれぐらいのデザインはよく着ている。特に貴族の令嬢たちは、スタイルのよさも自分の武器だと考えているのか。胸元の美しさも、夏場は殊更強調しているのだが――。
(ドレスのせいか、なんだか自分がひどく大人っぽくなったような気がするわ)
じっと鏡を見つめていると、目の前の床には、ことんと赤いハイヒールが置かれた。
「それと、イーリス様。今日のお召し物なら、こちらの靴のほうが似合いますから」
「ハイヒール……」
見た瞬間、うっと、思わず固まってしまう。
「これ、歩きにくいのよね……」
前世でも、友人の結婚式などでは履いたが、いつもバランスをとるのには苦労していた。
だが、ここまで華麗に着飾ったのなら、確かにコリンナの言うとおり、この靴のほうがよく似合うだろう。
(――これもすべて王妃の威厳のため!)
転ばない、足がぐらつくのなら壁に沿って歩く! なんなら、コリンナに後ろから支えてもらっても、大丈夫! 心の中で誓って、ハイヒールに足を通したが、ふと振り返って見た鏡には息を呑んだ。
「ほら! やっぱり、すごくよくお似合いですよ!」
はしゃぐコリンナの言うとおり、姿見にはハイヒールのために、普段よりもすっと背中を伸ばした自分の姿が映っている。高い踵でバランスをとるためになのだろう。無意識に、僅かに靴を左右にずらして立った姿は、普段よりも胸をはるような姿勢となり、鏡の中で堂々した気品を感じさせている。
(これならば、いける――!)
紐で幾重にも編み込んだ髪をすべて持ち上げて、宝石の髪飾りで留めた姿で映っている自分は、まるで前世の世界史の教科書で見た各国の王妃たちの肖像画さながらだ。
「これならば、今日はリーンハルトだって、王妃なんちゃらとは言わないはずよね……!」
(今日こそは、知らないふりもできないはず――!)
鏡に映った自分に、よし! と戦いに赴くように拳を握りしめる。
「そうですとも、イーリス様! このスタイルは、瑞命宮管理官に聞いて、先代の王妃様と先々代王妃様の夏場の公式ドレスも参考にしたんです! これならば、陛下だって、文句は言えないはずですよ」
にこにことコリンナは櫛をもって笑っているが、自分にしたら心臓がドキドキだ。
(もし、このドレスでもリーンハルトが嫌がったら、あとは前みたいな子供服しか選択肢がない……!)
さすがに、王妃が各国の代表や貴族の前に、子供服で挨拶をするのは避けたいが、リーンハルトに毎回顔を背けられるのも嫌だ。
(どうか、これで王妃として合格点をもらえますように――!)
祈るような気持ちで、王妃宮からコリンナを連れて大翼宮へと向かっていく。
途中では、すれ違って挨拶をする貴族たちが、みんな一瞬、イーリスに見とれるような視線を送ってくるから、おかしくはないはずだ。
(さすがコリンナの見立て!)
内心では思ったが、いよいよ大広間の前の階段で待っているリーンハルトの姿が見えてくると、心臓がバクバクと激しく鳴ってくる。
(どうか、嫌な顔をされませんように――!)
子供服云々だけではない。リーンハルトが自分から嫌そうに顔を背けていく仕草は、もう見たくはないのだ。
祈るように歩いて、銀色の髪を見つめながら近づいた時だった。
イーリスが来たことに気がついたのだろう。リーンハルトの視線が、こちらへと持ち上げられたのは。
アイスブルーの瞳が、自分を捉えるのと同時に、背中に汗が噴き出してくる。
(さあ、また嫌そうに目を背ける!? それとも、今日は無言でスルーをしてくれる?)
なにもなければ、少し見たあとスルーをして、一緒に大広間に入場となるはずだ。
(お願いだから、今日はなにごともなくスルーをして!)
アイスブルーの瞳を祈るように見つめたが、今日のリーンハルトの反応はどちらの予想とも違った。
「イ、イーリス! 君は、なんて格好を……!」
(あああー、駄目だったかあ……)
これだけ驚いているのだ。このあとは、恒例の一言お説教&今日も目すら合わせてもらえないことに続くかと、がっくりとしたのに。なぜか前に立つリーンハルトの様子は、いつもと少し違っている。
「うん?」
よく見ると、なぜか視線をどこへやったらいいのかわからないというように、あちこちへさ迷わせているではないか。イーリスの顔を見たと思ったら、ドレスへ逸らして慌てて目を動かし、視線をどこに定めたらいいのかわからないというような素振りをしている。
「ねえ? やっぱりこの衣装もおかしい?」
だから、少し首を傾げながら、リーンハルトの側へと近寄った。カツンとハイヒールを響かせると、なぜだろう。一歩近寄っただけなのに、ひどくその距離にうろたえている。
「へ、変とかではなくてだな……! 君は、俺の王妃だろう!?」
「え? ええ、だから王妃としての格式に則ったドレスにしてみたのだけれど……」
なにがおかしいのだろう? やはり王妃らしくないのだろうかと、首をさらに捻ったが、リーンハルトは目を瞑ってひどく動揺している。
「そうじゃなくて! 俺の王妃である君が、ほかの男もいるような前で、胸の形がわかるような服を着るなんて……! 君は、俺の王妃なんだろう!?」
「へ?」
思わず、すごく間の抜けた声が出てしまった。
(えーと、つまり、とてもわかりにくいんだけど……。リーンハルトの妻である私が、ほかの男に胸を見られるのが嫌……ってこと?)
胸といっても――。ちらっと自分の首飾りの下にある胸元を見つめた。
確かに、大人の女性らしく胸元を強調したドレスにはなっている。だが、見えるといっても精々谷間が少しだ。おしゃれな大人のドレスならば、普通の範囲だというのに――。
まさか、そんなことで。思いながら顔を上げたが、よく見れば、リーンハルトの耳は後ろまで真っ赤になってしまっているではないか。
今までは、目の高さの距離が遠くて気がつかなかった。しかし、こうして近くから覗きこむと、リーンハルトの目は、自分を無視しているのではなく、視線をどこにやったらいいのかわからないというようにうろたえて、さ迷わせている。
まさか。
ぽかんと口が開いてしまった。
(私が、あなたの遠くなった背に戸惑っていたように、リーンハルトも私の女性らしくなった体に戸惑っていたの?)
お互いに、子供ではなくなり始めた変化に気がついて。
こつんとハイヒールを響かせて近づけば、昔と同じように位置が近くなったリーンハルトの顔は、一瞬自分の上半身を目に入れて、慌てて逸らしていくではないか。正面から覗き込むようにして眺めれば、横を向いた顔は、滅多に見ないほど真っ赤だ。
(こんなに近くで、あなたの考えがわかるなんて――)
歩きにくいハイヒールも悪いものではない。
(どうしよう。私、ハイヒールが好きになりそうだわ)
成長してしまったリーンハルトに、もっと近づけるような気がして。
「わかったわ。じゃあ、今日はレースのショールを羽織っておくことにするわね?」
にこっと告げて、後ろにいたコリンナに持ってくるように頼むと、焦っていたリーンハルトの顔が、はっきりとほっとしたようになってくる。
いつもとは違って、まるで幼かった頃のような気分に、今日は少しだけ大胆に手を取ってみた。
「ねえ? 胸はともかく。このドレスは似合っている? これまでの王妃様の衣装を参考にしてみたのだけれど――」
「俺は、君が選んだ衣装で似合わないとおもったことは一度もない。だけどそれとは別で――」
ごにょごにょと口ごもっているのは、少しは妻として、ほかの男の視線に焼きもちを妬いてくれているとうぬぼれてもいいのだろうか?
見れば、この一言を告げるだけでも、リーンハルトの頬は面白いぐらい赤くなってしまっているではないか。
「ありがとう。リーンハルトに似合っていると思ってほしくて、選んだ衣装だったのよ」
「そ、それは、もちろん――」
もちろん。そのあとに続く言葉が、今は赤くなりすぎた顔で出てこなくても、十分に意味はわかる。
(そうね。大人になり始めて戸惑っていたのは、私だけではなかったのね)
すれ違ってしまってから、うまくいかない夫婦生活。それでも、一緒に過ごすうちに、少しずつでも変化は出てくるのかもしれない。
いつかは昔みたいに仲良く暮らせますようにと祈りながら、コリンナが渡してくれたショールを身に纏い、イーリスは久し振りに穏やかな気持ちで、側で赤くなっているリーンハルトへと微笑みかけた。