第33話 初めまして
宮廷中を席巻する話題作。それどころか国民に、今の王と王妃、加えて側近の関係のようだと囁かれる『公爵令嬢の恋人』。
それだけではない。何故か、過去に唯一世界を渡って帰ったと思われる聖女をモデルとする人物まで出ているあの問題作の作者が、この人――――。
思わずごくりと息を呑んで、アンゼルの店に立つ女性を眺めてしまう。
長いオリーブグレージュの髪は、後ろだけを結わえて横は肩で切り揃えられている。瞳は切れ長のヘーゼルだ。光の加減で淡い褐色の瞳が、緑にも黄色にも変わって見えるせいだろうか。ひどく印象的な雰囲気を与えている。
「この人が――」
「あ、あれ? 聖姫様、トリシャ女史をご存知なんですか?」
じっと見つめている眼差しに気づかれたのだろう。アンゼルが手に持っていた公爵令嬢人形から顔をあげると、不思議そうにこちらを見つめている。
「じゃ、じゃあやっぱり――!」
「聖姫様ですか。失礼しました。トリシャ・グレンと申します」
直線的に作られたドレスの膝を曲げる彼女の様子に、明らかにアンナの顔が笑みで崩れていく。
「わわっ! 私、『公爵令嬢の恋人』の大ファンなのです! 握手をしてください!」
「あら――」
ずっと崩さなかった彼女の顔が、興奮して駆け寄っていくアンナの様子にゆるんでいく。
「ありがとう、嬉しいわ。こんなに小さいのに私の本を読んでいてくれるのね?」
「はいっ! 最初は学校の友達のお姉さんから借りたんですけど、読んでいるうちにすっかりはまってしまって! すごく面白いです!」
「まあ――ありがとう」
ふわりと柔らかくトリシャ女史の顔が笑う。
「それに、私のファンブックを出すことも認めてくださってありがとうございました! お蔭で、今日も一緒に並べてもらえることになって」
「ファンブック……?」
しかし、その瞬間笑っていたトリシャの雰囲気が変わった。ぴくっと眉が上がり、ヘーゼルの瞳がアンナを見つめる。
「ああ、ではあなたがあの話を書いたアンナとかいう――」
「私の話を読んでくださったんですか!? すごく嬉しいです!」
きゃあああとアンナは顔を押さえて叫んでいるが、なぜかトリシャの雰囲気はすっと変わった。そして一歩後ろへと下がる。
「あの……?」
「では、私はこれで――」
そのまま笑みの消えた顔で立ち去ろうとしているが、ここで別れては折角の手がかりが途絶えてしまう。
「待って!」
(過去にあちらの世界へ帰ったかもしれない聖女をモデルにした人だもの。ひょっとしたら、調べたことでなにかを知っているのかもしれない!)
なにか一つでも手ががりを得られるのならと声をかけたが、相手は怪訝そうだ。
「なんでございましよう?」
「あなたがさっき呟いた言葉について教えてほしいの! ポルネット大臣が、王妃の座に執着するのにはわけがあるって――」
いったい、それが何なのか。知れば、この絡まった事態を解く手ががりになるかもしれない。知りたいから叫んだのに、相手は少しだけ迷惑そうだ。
一度息をついて、イーリスを見上げた。
「それを私がお話ししたとして、私になにかメリットがありますか?」
「え? メリット?」
完全に予想外の答えだ。しかし、相手は片手を持ち上げて困ったように首を傾げている。
「そうです。私は自分に損なことはしたくはありませんからね。迂闊にして、不敬罪で処罰をされたくはありませんし」
「不敬罪って……」
それが適用されるのは、王室や王族に対してなにか失礼があったときだ。
「やっぱりなにか知っているのね!?」
「知ってはいても、話したくはありません。真相を知って、折角人気がでた本の弾圧をされてもたまりませんしね」
「弾圧!?」
そこまで関わってくることなのだろうか。
(だったら、余計に訊かないと!)
なにがポルネット大臣の目的なのか――。
「お願い! 私は、どうしてもそれを知りたいの!」
「王妃様がそこまで焦られるのは、最近また新たな聖女の噂が出ているからですか?」
ぐっと詰まった。
(見破られている――)
いや、そう思うなにかを彼女が知っているからかもしれない。
困ったように首を傾げているトリシャの様子をみれば、何かを知りながら隠していることは確かなのに。表情は話したくはなさそうだ。
(どうする? 命令という形もとれるけれど、王妃でない今その命令自体に根拠がないわ)
それはできることならばやりたくはない。困ったように隣に立つリーンハルトに相談するように見上げたときだった。
「そうだ。だかなにか知っているのなら、協力を頼みたい」
イーリスの瞳がリーンハルトを見つめるのより一瞬早く口を開いてくれる。
「陛下の頼みですか……」
うーんと困惑しているトリシャ女史に、側に立っていたアンナも両手を組みながらおずおずと見上げる。
「あの……お願いです。陛下も王妃様も、本当に優しい方々で。私にとっても恩人なので、どうか教えていただくことはできませんか?」
黒い瞳の前で手を組む姿は、真摯なものだ。
けれど、その瞬間トリシャの表情がぴくっと変わった。
眉があがり、困惑していた目をすっと開く。
「へええ。アンナさんの恩人。それは例のファンブックの?」
「はい! 私の二次創作のモデルになってくれたんです! 私、『公爵令嬢の恋人』の令嬢と王が本当に好きで! 陛下と王妃様を見ていると、ああもうこんなふうに王が困っているシーンや公爵令嬢を拉致しようとしているシーンとかを読んでみたいというのがもういっぱい溢れてきて!」
(それ、作者の前で言うのはどうなの!?)
確か、原作の王はとても冷たく公爵令嬢を振っていたはずだ。それなのに、アンナの脳内では、それはすべて王が令嬢を愛するが故に変わってしまっている。
「だから、出版の後押しをしてくださったお二人には本当に感謝をしているんです! いや、もちろん先生の作品が神の域の尊さだからですか!」
悶えるアンナの目の前で、トリシャの瞼がすうっと下がった。
「あのファンブックが出てからというもの――それまで『王ひどい!』『最低男に天罰がくだれ!』『女の敵!』と毎日ファンレターは罵りまくりだったのに……」
(あ、横でリーンハルトが地味に打撃を受けている)
それはそうだろう。なにしろ、自分に似ていると囁かれていた本の人物の所業が、そこまで非難囂々だったとすれば、店の支柱の一本に手をついて俯いてしまうのも仕方がない。
「それなのに、あの本が出てからというもの――『王がこんなに令嬢を思っていたなんて気がつきませんでした』『意地っ張りで素直になれないんですね』『もう不器用さんなのだから』と生温かい手紙が山のように届く始末! ええ! そりゃあ気がつかないはずですよ、私はそんなことは一言も書いてはいませんからね!?」
(あちゃー……。まさか作者にまで影響が出ていたとは……)
二次創作恐るべし。だから、さっきアンナの名前を聞いた瞬間、表情が変わったのかと納得してしまう。
「だが、王×令嬢の本は、作者である君自身も認めただろう?」
(そして、リーンハルト! どうして、一瞬で立ち直っているの!?)
よほど王の評価が変わったのに、ほっとしたのだろうか。
しかし、トリシャは顔にかかった髪の一房をさらっと流している。
「ええ。確かに認めました! でも、それはあくまで私のファンを喜ばせて、更に楽しんでもらうためにです! 原作にまで影響を及ぼすのは考えてはいません!」
「ファンが望んでいるのなら、王の扱いを変えてもいいじゃないか!? 今なら、まだやり直せるかもしれないし」
どうして、説得する項目がそちらなのか。しかし、トリシャは真っ直ぐにリーンハルトの視線を受けている。
「そんな離婚を申し出られた男が言うような典型的な台詞で説得されても――」
(あ、一瞬で沈んだ)
今回のはダメージがでかかったらしい。ぐっと支柱に顔を寄せてしまっている。
「失礼しました。別に陛下のことを申したわけではございません」
本当に小説のことか意図的か――。
本心を量りかねるが、トリシャ女史はこほんと咳払いをしている。
「わかりました。では、勝負をしましょう」
「え、勝負?」
「アンナさん。あなたは、私の作品の王が令嬢を好きな展開になったらいいなと思っているのですよね?」
突然話を振られて、アンナのほうが驚いている。
「は、はいっ! 女史の描かれている王は冷たいけれど、そこがとても魅力的です! 時々、令嬢に対してどきっとする行動をとったりもしていますし」
「わかりました。では今日、私の新刊とアンナさんのファンブック。どちらが先に百冊売ることができるか勝負をしてみましょう」
「ええっ!? 『公爵令嬢の恋人』の新刊と勝負!?」
無茶だ。なにしろ今国内でもっとも人気のある小説なのに、その新刊と売るスピードを勝負だなんて。
止めようと思ったが、すっとトリシャは笑う。
「もし、私の新刊より早くに百冊売れたら、王妃様のお尋ねの件も話すし、なんなら最後で公爵令嬢が王とくっつく展開にしてあげてもいいわよ?」
その瞬間、かっとアンナの瞳が開いた。
「やります、私! 王と令嬢――まさか、それが公式展開でしてもらえるだなんて!」
なんておいしいと黒い瞳をきらきらと輝かせている。
(しまった――! 彼女の萌え魂を奮い立たせられてしまった!)
やはり侮れないと、目の前の人物を見つめるが、トリシャ女史は、ただ薄く笑い続けている。
(作者と勝負なんて……どうなるのよ!?)
焦るイーリスを取り巻く人混みで、ふとどこかで見たような亜麻色の髪の女性が笑って隠れた。