第31話 懐かしい顔
まだ冬の最中で寒いが、神殿が行っているこの毎年恒例の春を呼ぶ祭りには、たくさんの人々が押しかけてきている。
リエンラインの都には雪が降ることは少ない。それでも木枯らしに包まれた街では花が少なくなり、寒い時期には遊べる場所もないからだろう。数少ない冬の楽しみを味わうために、大神殿の前にある広場には、すれ違うのも大変なほどの人波で埋め尽くされている。
特に、今回はイーリスの聖姫就任が発表されるという事前情報が流れていたせいか。
現れたという第三の聖女の噂で、どことなく波紋が広がっていた人々の空気も、祭りの熱気で一掃されたかのように、皆晴れやかな表情だ。
「イーリス様万歳!」
「私達の王妃様に祝福を!」
リーンハルトと二人で歩いていると、側にいる人々が温かく声をかけてくれる。
「ありがとう」
「陛下、王妃様を大事にね!」
そんな声が飛んでくるのは、家出をされて必死に再婚を承諾させたエピソードが広がっているためか。
「ああ、わかった」
なぜかこれに頷くリーンハルトの顔は、年相応の若者が、年長者の助言を真摯に聞いているかのようだ。
「なんか近くで見てると、かわいい二人だね」
「こうやって仲良くされていたら、お似合いだよ」
(すれ違いさえなければなあ――という、人々の声が聞こえてくるようだわ)
どうやら、自分たちの話は不仲から、不器用な二人へと変わって民に広がりつつあるらしい。
(そのとおりだからなにも言えないけれど……)
そのせいか、歩いている自分たちを見つめる人々の眼差しは、みなどこか生温かい感じだ。
幼い頃から、国民たちの前によく出ていた二人だからだろう。見つめるみんなの目は、知り合いの喧嘩ばかりをしていた子供たちが、ようやく素直になった姿を眺めるかのように穏やかさに包まれている。
「うっ……いたたまれない……」
生温かさが「今度はうまくいきなよー」という無言の励ましのようだ。
「イーリス?」
思わず赤くなって俯いてしまったが、どうやら隣のリーンハルトは、なにも感じてはいないらしい。
(まあ、小さい頃からこの視線に見られて育ってきたんですものねー)
「どうかしたのか?」
「あ、ううん」
自分も王族の生まれだが、やはり前世の記憶がある分感覚が違う。慌てて首を振ると、少しだけ首を傾げていたリーンハルトが、前を指し示した。
「そうか? ならば、いいが。ほら、陽菜とアンゼルがやっているチャリティーについたぞ」
「あら」
いつの間にと、周りの眼差しで赤くなっていた頬をぺちぺちと叩く。
聖姫に内定している自分が儀式に出るので、祭り恒例の聖女と民との交流を、陽菜が代わりに受けてくれたのだ。
感謝しないとねと顔を上げて、思わず固まった。
いつもならば、聖歌隊や聖女との会話なのに。
(どうして、幟に大きな鰯の絵が描いてあるのだろう――)
今日陽菜がやっていたのは、鰯の炭火焼きだっただろうか。確か、アンゼルと一緒に貧しい人々へ薬を届けるためのチャリティー店を出すとだけ聞いていたのだが。
思わず違う店だったかと慌てて見回したが、店の前に立って客と話しているのは、間違いなく陽菜だ。しかも、聖女特有のサリーに似た白い服を身に纏っている。
「これをつければ、本当にかみさんと仲直りできるんですね?」
「ええ、これを腕につけて、こう一言囁くんです。『いつもありがとう。これは、神殿で買った御利益があらたかなお礼だ』って」
そう言いながら、陽菜が男の目の前に掲げているのはミサンガだ。しかも赤いカーネーションと青い魚が刺繍されているのはなぜなのか。
「でも、うちの母ちゃん。俺がだらしないからって、すぐに怒って……」
「だから! これを渡してそっと囁くだけでいいんです。『いつもありがとう』それで通じますから!」
(ちょっと待って――! それ、もしかして母の日のカーネーション!?)
だったら、なぜ魚も一緒に刺繍されているのか。
「本当ですかい?」
「はい! 鰯の頭も信心からといいます!」
「信じるものは救われる! まさにこれですよ!」
(そして、アンゼルー! それ明らかに宗教詐欺の手口だから!)
それを国教にも認定されているミュラー教が堂々とやっていいのか。第一、陽菜の言葉も微妙に使い方が違うような気がしてならない。
「へええ。異世界では、鰯の頭を信じるんですか?」
「はいっ! ちょうど冬に、みんなでお守りにするんですよ!」
(それ、鬼払いよね? 節分の魔除けに使うものを、怒っている相手に渡すというのは一体どうなの――)
なんだか、相手が出ていく結果を招きそうな気がしてならない。
「で、切れたら願いが叶うんですか?」
「はい。その時に、奥様の怒りも静まって平和な家庭が戻ると思います!」
(感謝で渡す品が切れてどうするの――!?)
それは、やはり別な意味で切れるな気がする。そうすれば、家は静かになって、平穏な日々が戻ってくるだろう。静かになった部屋には、男性が一人で猫を抱いて――。それが想像できるから、がばっと身を起こして止めようとした時だった。
「あ、でも切れるまでは毎日一回【ありがとう】と言わなければダメですからね? それをやってこそ、夫婦が仲直りできるお守りですよ?」
指を立てながら、にこっと片目を閉じてアドバイスしている陽菜の様子は、どうやらきちんと考えてはいるらしい。
(なんで、鰯の頭かは謎だけど……)
でも、実行すれば、確かに効果はありそうだ。
「じゃあ、これを買えば結果はいいね! なんですね!?」
「はい、きっと結果はいいね! です!」
(しかも、謎の合い言葉になっているし!)
いつの間にそうなったと引きつるが、隣でリーンハルトは別の言葉をぼそっと呟いている。
「夫婦仲直りのお守りか……」
真剣に考えてくれるのはありがたいが、あれを腕につけるのは勘弁してほしい。
(いや、かわいいわよ!? 鰯が跳ねたり、生首だけで花をつついていたり)
ただ、どこかシュールに感じてしまうのは、自分に前世の知識という余分なものがあるせいなのだろうか。
「あれ? イーリス様」
その時、こちらに気がついた陽菜が手を振った。
ぶんぶんと振ってくる手は無邪気で、あの月の夜に見た涙の面影はどこにもない。
青い空の下で輝く元気な笑顔。
(やっぱり、陽菜にはこちらのほうがよく似合っているわ)
くすっと笑みがこぼれた。
「イーリス様だ……」
「王妃様だ……」
ざわめき出す周りの中で、こちらも陽菜に手を振り返そうとした時だった。
「うおおおおおっ! 聖姫イーリス様、おめでとうございますぅ!」
突然周囲から上がったのは、耳が割れるような歓声だ。そのあまりの大音量に、咄嗟に手で耳を押さえだが、陽菜はこれを予想したかのように、皆に向かってぱっと手を伸ばす。
「皆様の熱狂はわかります。そこで、私聖女陽菜が代表して、聖姫イーリス様へこのたびミュラー神より啓示を受けられたことへの、お祝いを贈りたいと思います」
(え? お祝い?)
なんだろうと目をぱちぱちとしてしまうが、陽菜は店の前に並ぶ人に向かって、手を持ち上げている。
「聖姫イーリス様の誕生を祝って! はい! 皆さん、いいね三三七拍子!」
「はっ!?」
今なにかとんでもない単語を聞いた気がする。
しかし、陽菜の前に並んだ人達は、陽菜の指揮する手に合わせて、ぱんと手を叩き始めたではないか!
いいね! いいね! いいねったらいいね!
いいね! いいね! いいねったらいいね!
いいね! いいね! 聖姫様ったらいいね!
「はくしゅ――――っ!」
陽菜の最後の音頭で、皆が一斉に「おーっ!」と雄叫びをあげた。
まるで会場の一角が揺れるような祝福だ。圧倒的な熱量で、凄まじい観客の興奮を感じるが、なんだろう。この脱力感。
「ああ……そうよね、陽菜だった……」
まさかいいねで、そんな技を作りだしていたなんて。
「ありがとう! みんなー!」
「いいえ。いいね聖女陽菜様からですもの! 聖姫様もいいねですー!」
なんだろう、この推しのコンサートにも似た感覚。
だいたい、いつこんなに陽菜の信者が増えていたのか。
「ああ……。そういえば、私が書類探しとかで忙しい間、変な人間が近づかないように、ずっとアンゼルと一緒に行動させていたから」
必然的に、慈善事業が多くなり、民たちに信者も広がっていたのだろう。
よく見れば、今回の店の横にも、例の公爵令嬢と聖女の人形が売られているではないか。
「ああ……なんか、さっきまで、なぜあんなにポルネット大臣が王妃の座にこだわるのかって悩んでいたのに」
すべてが、なにか遠くのできごとのような気分になってくる。
脱力しながら見つめていたが、不意に後ろで声がした。
「それは理由があるからです」
「えっ――」
(今の声は?)
慌てて振り返れば、長いオリーブ色の髪をさらりと靡かせた女性が、人混みへと歩いて行く。
(え、待って。まさか、なにか知っているの!?)
誰なのかは知らない。しかし、今の言葉からすると、きっとイーリスが悩んでいた答えを彼女は知っているのだろう。
「ま、待って! ちょっとだけ話を――」
「イーリス!?」
隣のリーンハルトが驚いているのもかまわず、その女性の背中を追おうとした時だった。
「イーリス様!」
手を伸ばしかけた時にかけられた声に、反対側を振り返る。見れば、二つに結わえた黒い髪を揺らしながら、懐かしい顔が走ってくるではないか。
真っ黒な瞳をきらきらと輝かせて、人混みを元気に駆け抜けてくる姿に、イーリスの顔にも笑みが灯ってくる。
「アンナ!」
家出した時に、シュレイバン地方で別れたきりの少女だ。その姿に、イーリスも両手を広げながら瞳を輝かせた。