第1話 異世界からの聖女
いくらなんでもこれはない。
王宮の広間に入った瞬間目に映った光景に、思わずイーリスは足を止めた。
到着が遅れたとはいえ、理由は近々来る隣国の特使を国境で迎えた者からの緊急の連絡が入ったためだ。
王妃としての仕事を今までしていたというのに――――。
「まあ、陛下ったらなんてお上手なの!」
「この間教わったばかりにしては、陽菜は覚えが早いな」
「それは、リードしてくれる陛下がお上手だからです」
目映いシャンデリアが昼間のように大広間を照らす中央で踊っているのは、最近異世界からこのリエンライン王国に来たばかりだという聖女の陽菜。肩より少し長い茶髪を柔らかに揺らし、王の腕の中で踊っている様子は、誰が王妃なのかわからなくなる。彼女の好みなのだろう。イーリスが前世の映画で見たことがあるような、ピンクのレースをふんだんに重ねて作られたドレスは、胸から裾にかけて施された白い花の刺繍と相まって、まるで童話から抜け出て来たお姫様のようだ。
緩やかに広がる薔薇色のドレスの中で舞う陽菜は、誰が見ても可憐だ。だからだろうか。彼女の細い背に手を添えて踊る王の銀色の髪が揺らめく様と合わさると、まさに一対の絵を見ているような気分になる。王の薄く澄んだ青の瞳が、陽菜を優しく見つめるのに、思いもかけずイーリスの胸がどきりとなった。
「ねえ? いくら、異世界からの聖女様といっても出過ぎではありません? ファーストダンスはパートナーと決まっておりますのに……」
「それなのに、王妃様を差し置いてもう二周目。いくら夫婦仲が冷めておられるとはいえ……」
「でも、同じ聖女様ですもの。でしたら、陛下だってお好みの相手の方がよろしいのではなくて?」
イーリスが来ていることにも気づかず、くすくすと貴族の令嬢方が繰り広げる噂話に、思わず溜息が出てしまう。
「こほん」
だから、隣に立つギイトがわざと大きな咳払いをした。それに、振り返った令嬢達も、薄い金髪を編み上げて立つイーリスの存在に気がついたのだろう。ばつが悪そうな顔をすると、慌てて人混みに駆け込んでいく。
「お気になさいますな、イーリス様。あなた様はこの国が認めた間違いのない聖女で、王妃陛下なのですから」
「ギイト……」
彼なりに心配してくれているのだろう。薄い茶色の瞳が気遣わしげに見つめてくるのに、思わず苦笑してしまう。
けれど、ギイトが更に口を開こうとするのより早くに、音楽が終わった。広間にいた人々からわっという歓声が拍手と共に起こると、中央にいた二人がゆっくりとこちらへ向かって歩き出してくる。
すると、一人の若い神官が急いで王と陽菜の前に進み出てきた。
「陛下、この度は我が国に二人目の聖女様を賜りましたことをお祝い申し上げます」
新しく現れた聖女のために、神殿が派遣したという陽菜の側に仕える神官だ。淡い褐色の髪を下げると、彼はすぐに並んで立つ王と聖女を恭しく見つめる。
「古より、我がリエンライン王国では聖女が現れた際には、その時代の王の伴侶に迎えて、国の繁栄を築いてきました。つきましては、ぜひこの度来られた陽菜様も陛下のお側にお迎えしていただきたく……」
「あいつ!」
イーリスの隣にいたギイトがばっと苦い顔で振り返る。
「自分が神殿で出世したいからって! 陛下にはもうイーリス様がおられるというのに!」
「まあまあ」
思わず脱力して宥めたが、こちらの声が聞こえたのだろうか。王の視線がちらりとイーリスを眺めると、すぐに戻される。そして、片膝をつく神官を見つめた。
「だが、王妃は一人だけだ」
「離婚されればよいではありませんか! 十三代イハル王の御代でも、二十五代ザクゼス王の御代でも、既に王にはご伴侶となられる王妃がおられましたが、聖女様が現れたので、離縁されて王妃に迎えられました! その結果、我がリエンライン王国が更なる繁栄を築いたことは、国史にも明らかです!」
(うーん。今の王妃の前で、堂々と離婚を進言するとは)
度胸があると言えばよいのか、ついにここまで舐められたかと切れたらよいのかすらわからない。
さて、王がなんと返答するか――――。
広間中が息を潜めて見つめているが、王の視線は一瞬だけイーリスにちらりと動く。
「陛下……」
けれど、横から心細そうにかけられた陽菜の声に、すぐに王の視線は腕を取りながら見上げている可憐な顔へと流れた。
そして、安心させるように微笑む。
「ああ。心配するな。悪いようにはしない。だが、今はそのようなことを話し合う場でもないだろう」
「逃げた……」
思わずほそりと呟いてしまう。
けれど、隣で一部始終を聞いていたギイトの表情は怒ったように真っ赤だ。
「あんな言葉を真に受けられますな! リーンハルト陛下の王妃は、今も未来もイーリス様お一人です!」
「いえ……気にはしていないから……」
(まあ、そう言いたくなるのもわかるし。普段の、私とリーンハルトとの関係を見ていれば……)
けれど、なにを勘違いしたのか。振り返れば隣にいるギイトは、イーリスを見つめながら瞳に涙をためている。そして、そっと腕で瞳を拭った。
「なんと健気な……! 遠い異国から幼い内に嫁いで来られて……!」
そして、泣きながら忠誠を捧げるようにイーリスの左手を握る。
「不肖ながらこのギイト。陛下ほど頼りにはなりませんが、それでもこの身をかけて、イーリス様をお守りする所存にございます……!」
「あら、頼りにならないだなんてとんでもない。いつだって、私は一番あなたを信頼しているのに」
「イーリス様……!」
「だから、いつものように笑顔でまた楽しいお話を聞かせて? ね?」
励ますように笑顔を向ける。
「ふうん」
けれど、イーリスがギイトに笑いかけた瞬間だった。
いつのまに後ろに来ていたのか。かつんと靴音がしたかと思うと、振り返った先には、国王リーンハルトが腕を組んで二人を見つめているではないか。
しかし、何かを我慢しているような笑みに浮かぶ瞳は、ひどく冷たい。
そして、気がついたイーリスを見つめると、くっと唇の端を持ち上げた。
「たいしたものだ。王を一人で会場に待たせておいて、自分は側近と楽しげにおしゃべりとは」
「リーンハルト」
(まずい――なぜか機嫌が悪い!)
どうして――。さっきまで、確かに陽菜と楽しそうに踊っていたはずなのに。
だけど、衆目の中で言われた内容では、確かに伝言も走らせなかった自分に分が悪いだろう。
だから、引きつりながらそっと謝罪のために膝を折り曲げた。
「申し訳ありません。急な使者が国境から来ましたので、大臣に相談していて、舞踏会の開始の時間に遅れました」
「相談? ふん。相変わらず立派な王妃様だ。王である俺に何の相談もなく取り仕切るとは。誰がお前にやれと命じた?」
「すみません。陛下にはあとで申し上げようと思いましたもので――――」
(うわわあ、まさか機嫌が最悪?)
さっきまでは良かったと思うのに、こちらを見つめるリーンハルトの瞳はますます冷たい。
「殊勝な心がけだが、本音ではどうせ今話していた通り、そこの男より頼りにならない王だと思っているのだろう?」
(まずい! さっきのを聞かれていた!?)
しかも、どうも聞きかじった内容を誤解しているようだ。いや、確かに意味によってはそうともとれる言葉を言った覚えはあるが、決してそんなつもりではなかったのに。
「リーンハルト……」
だから、焦ってつい見上げたが、切れ長のリーンハルトの瞳は今ではイーリスを射貫くかのように見つめている。
不機嫌を隠しもせずに。けれど口元だけは薄い笑みを浮かべているのに、逆に息を呑んでしまった。
「なんだ? ひどく引きつった顔をしているが、まさかさっき俺が君との離婚の話を否定しなかったのが不満なのか?」
「いえ、そんなことはないけれど――」
(むしろ、どちらかと言えば逆だし……)
けれど、迂闊に言った言葉がとうとう逆鱗に触れたらしい。口から出した途端、今まで酷薄な笑みを浮かべていたリーンハルトの瞳は、明らかに怒りに変わってイーリスを睨みつけた。
「いいか! 国王である俺といえど、国の決まりには逆らえん! 聖女である君を娶ったのと同様、新しい聖女が現れた時には、王妃の交代も国史では繰り返されている! 決して今の自分の地位が、盤石なものだとは思うな!」
「あ……!」
勘違いを解こうと思ったのに、どうやらまた悪化してしまったらしい。伸ばした手の先で、リーンハルトは高い背を向けると、そのまま人混みの中へと歩き出していく。
その姿に、遠くから陽菜が駆け寄っていくのが見えた。
「ああ……どうして、こう……」
(いつもこうなってしまうのかしら……)
わかっている。自分の行動が、リーンハルトの気に入らないということは。
だけど、どうしていつも頑張っても、こううまくいかないのか。
「お気になさらないでください、イーリス様。あとで私から、遅れたのはどうしても外せない急な用件だったことと、私との会話の誤解も解いておきますので……」
「ギイト」
だから側から心配そうにかけてくれる言葉に、つい心がほっとしてしまう。
「いいのよ、私と陛下ではいつものことだから」
(とは言っても……)
さすがに、嫁いでからずっと繰り返すこの毎日に疲れてもきている。
(もう、離婚してもいいかなあ……)
最近何度も心で呟く言葉を思い出しながら、イーリスは金の髪に隠れた中で、そっと人に気づかれないように溜息をついた。
本日、続けて二話目投稿します。
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