紅凶星の夜に、厄災を添えて
翌朝、いつもより少し遅めに藁のベッドで目が覚めた僕は、バリケードで塞がれた窓の隙間から外を見て、その理由が分かった。
今日の空は、昨日帰り道で見かけたように、日の光が差し込まないくらい濃い曇りだった。
そのせいで気温もあまり上がらなかったから、起きるのが遅れたみたいだ。
まぁ、いつもよりのんびり出来たって思えば、ちょっと得したかなと、前向きに考えよう。
とは言え、そろそろ準備をしようと、起き上がる。
まず外に出て家の傍にある井戸から水を汲んで、裏手の流し場にある僕が寝られるくらいの大きなタライと、小さな桶にそれぞれ注ぐ。これを三往復。
一仕事終わった頃には、この寒い朝でも少し汗が出るくらいに体が暖まった。
これで汚れが落ちやすくなるから、沐浴にはピッタリ。
先ずは顔を洗おうと、覗き込んだ桶の水面には自分の顔、色素の少し濃いグレーの瞳と髪の少年が映り込んだ。
唯一の家族からは、年上が放って置かない可愛らしい容姿、とか言われたけど、僕としては可愛いより格好良くなりたい。
まぁ、最近は特に遅い時間まで起きてる事が多かったからなのか、目の下にはくっきりと濃い隈が出来ていた。
おまけに髪の方も寝癖であちこち跳ねて、藁が絡まってる。
「我ながら酷い顔」
格好いいにはほど遠いなんて思って苦笑しつつも、体が暖かい内に早く済まそうと、桶の底に浸した大きな古布を、適度に絞ってから肌に当てた。
「ひゃう!」
あまりの冷たさに体がビックリして飛び跳ねる。
それでも少しずつ慣らしながら、顔を拭い終わったら、体中も手早くしっかりと綺麗にしていく。
「中々筋肉付かないな」
磨き終わった腕を曲げて、グッと力を込めてみる。
うん、殆ど変わりないね。
これでも毎日アンデットと戦ったり、相棒のスコップを振ったりしてるんだけどなぁ。
磨きながら他の所も確認して見たけれど、やっぱり大して変わってなかった。残念だ、まだまだ修行が足りないや。
体と寝起きの頭もすっきりしたら、昨日洗濯して干して置いた服に袖を通す。
義替え終わったら、今度は家の中を愛用してる小さな箒で掃除していく。
特別狭くはないけど、一人で暮らすにはちょっと広い家の中の掃除が一通り済んだら、今度は朝のお祈りの時間だ。
自分の体や家よりも、念入りに綺麗にしたロザリオをテーブルに立てて、神様にお祈りを捧げる。
それはこの世界に命と恵み、そして光をもたらしたとされている、創世と繁栄を司る最高神、女神ルカ様へ。
どうか、今日も無事に生きられますように、と。
お祈りの後は、僕の数少ない楽しみの一つである食事の時間だ。
今日の朝食は、長い間保存出来る様に天日干しにした小さな芋が二つと、墓の向こうに広がる森で取れた数種類の薬草を煮込んだスープ。
あとは、ほんのちょっと甘い香りのする木の実と、いつもと比べて中々に豪華になったかな。
なんたって今日は特別な日だからね。これくらいの贅沢なら罰は当たらないと思う。
「いただきます」
まずはメインの芋を噛むと、ちょっと乾き過ぎてるけど、スープと一緒に口にすれば全然気にならない。
寧ろ薬草から出たしょっぱさで、芋のほのかな甘さが引き立ってて美味しい。
それに水浴びで少し冷えた体がじんわりと暖まる。
最後に木の実まで、じっくりと楽しみながら食べ終わったら、タライから掬った水で食器の汚れを流す。
昨日の戦いでいくらか汚れてしまった衣服は、タライの中に沈めて置く。
これで大体の家事が終わったら、フードの付いた上着を羽織る。
まだ小さな僕にはちょっと…………うん、ちょーっと袖とか丈が余ってるけど、裾を内側に折り込んで腰を紐で結べば、丁度良くなる。
厚みで膨らんで、長いスカートっぽく見えなくもないけど、心が認めてなければ問題なし。
袖な方も、作業する時に捲れば全然困らなくなるし。
うん、でもやっぱり身長は欲しいな。早く大きくなりたい、割と切実に。
水筒を入れたリュックを背負い、手の届く側面にある輪っかにナイフをケースごと差し込む。
壁に立て掛けてあった相棒と麻袋と持ったら、もう準備万端と家を出た。
「おはよ、おじいちゃん。今日も無事に生きてるよ」
家の脇に一つだけある、小さなお墓。
僕が唯一作った、他のと比べて少し不格好な物。
ここには、三年前に亡くなったおじいちゃんが眠っている。
僕は昔、おじいちゃんが勤めていた教会前で、捨てられていた所を拾われたらしい。
まだ赤ん坊だった僕には、当然両親がどんな人だったかなんて覚えてない。
それに正直今更会いたいとかも思わないし、どんな人だったかなんて知らなくても別に構わない。
だって見ず知らずの僕なんかの為に、勤めていた教会を辞めて、フリーの神官になってまで僕を育ててくれたおじいちゃんだけが、本当の家族だったから。
まぁ、おじいちゃんの話では出世したは良いけど、そのせいで増えた教会での面倒臭いしがらみや、欠片も興味がないのに巻き込まれる権力闘争が嫌になって、見かねた神様が僕を遣わしたんだ、って言ってた。
寧ろ救われたのは儂の方だ、ありがとうって言ってよく頭を撫でてくれたおじいちゃん。
あの大きな手が、優しい笑顔が、おじいちゃんと過ごした日々が、僕は大好きだった。
今日は、そんなおじいちゃんが亡くなった日。
それと同時に、おじいちゃんが僕を拾った日だ。
「あっ、あとねおじいちゃん。僕今日十二歳になったよ。あれからちょっとは立派な男に近づけたかな?」
三年前の亡くなる直前、せめてお前が十五歳になるまで一緒にいられなくてごめん、って悔やみながら謝ってたおじいちゃん。
今まであんな顔をしてる所なんて見た事が無くて、とても心が痛んだ。どうにかしたいと強く思った。
だから僕は、あの時おじいちゃんと最後の約束した。
天国に行ったおじいちゃんが流石だ、お前は儂の自慢だって言ってくれるような、おじいちゃんみたいな立派な男になるって。だから安心していつまでも見守っていて、って。
それを聞いて、最期はとても満足気な笑みを浮かべておじいちゃんが、天国に旅立って早三年。
まだまだ約束した立派な男には遠いけど、いつかこの墓地を出て自分磨きの旅に出るんだ。
…………取り敢えず、もうちょっと勇気と度胸と筋肉が付いて、身長が伸びるまでは。
朝のお話も終わったら、おじいちゃんに見送られて、僕は日課に出掛ける。
僕が住んでいる家の東側には、墓地が広がってる。
軽く見渡す限りお墓が建ち並んでいて、見るからに古ぼけた年代物から、ヘンテコな形をしたお墓なんかもあったりする。
おじいちゃんに昔聞いた話では、ヘンテコなお墓は偉い芸術家のお弟子さん達が、師匠への最後の贈り物として作った物らしい。
あぁいうのが芸術的って言うらしいんだけど、僕もおじいちゃんもよく分からない。
格好いいとか可愛いや、綺麗なら分かるから、それで良いっておじいちゃんも言ってたし、きっと分からなくても困らない事だよね。
そんなヘンテコお墓を通り過ぎて、昨日灰を埋めた場所を目指す。
着いたら、持って来た相棒で掘り起こした灰を、丁寧に麻袋に詰めたら準備完了だ。
見回りを再開して墓地を歩いて、奥へ奥へと進んでいると、ついに目当てのお墓を見つけた。
「ここだったのか」
数多くあるお墓の一つに、他とは大きく違った点がある。それは墓石の根元にぽっかりと空いた穴だ。
昨日僕が戦ったゾンビは、ここの人だったみたいだ。名前は……文字の所が薄れて読めない。
この辺りのお墓はとても古いから、こればかりは仕方が無い。
その穴に麻袋から灰を流してから、盛り上がったり土を丁寧に均して穴を塞ぐ。
「名も知らぬ方。聖職者ではない僕で申し訳ないけれど、どうか今度こそ安らかに眠って下さい」
改めて、墓石の前でお祈りを捧げた。
ゾンビ等のアンデットが倒されて灰になったら、もう二度とアンデットになって再び蘇る事はない、っておじいちゃんは言ってた。
この人がどんな恨みを抱えてたかも、名前さえ知らない。
けれど、心から冥福を祈って弔う事が、アンデットに堕ちてしまった者達にとっての、最大にして最後の救いなんだとも教わった。
「僕は、この人にとっての救いになれたのかな?」
漏れ出た言葉に返事が返って来るはずもなく、ただ優しく風が吹いていた。
◇◆◇
お墓を後に、今度は墓地に面した森に向かう。
そろそろ薬草が少なくなって来たから、補充分を探さなきゃ。
この森は墓地の隣にあるからなのか、日中はともかく夜は墓地以上に不気味になる場所だ。
昔、一度だけ夜中に来た事があったけど、そのあまりの怖さに漏らして、一緒にいたおじいちゃんに笑われた事があったな。
今思い出しても、とっても恥ずかしかったです。
あれ以来、薬草を採りに来る以外では、絶対に近寄らない様にしていたけど、僕も今日で十二歳だ。
いつまでも恐がってちゃ、おじいちゃんと約束した立派な男にはなれないよね……。
うん、これはきっとそれに近づく第一歩なんだ、頑張れ僕!
覚悟を決めて、ずんずん奥へと進む。
ちょっと今の僕ってかっこいいかも、なんて思いながら。
「そういえば、薬草は森の浅い所によく生えてるから、奥まで来た事は無かったな」
今まで見なれない森の奥に広がる景色に、気分が高揚して来た僕は、それを楽しむくらいの余裕が出ていた。
当初の目的だった薬草も、いつも採っていたものよりもずっと大きくて、数が多く生えているのを見つける事が出来た。
これはかなり幸先が良いんじゃと思った僕は、もしかしたら他にも美味しい木の実があったりしないかと、もっと探検してみる事に。
「うわぁ! この木の実すっごく甘い香りがする!」
低い木に沢山成っていた赤くて小さな木の実は、見るからに美味しそうで、ついつい沢山摘み採ってしまった。
「えい……えい! あ、やった落ちた」
今度は高い木の枝先に実った、大きな青い果物を見つける。
でも今の僕じゃ相棒を使っても絶対に届かないから、試しに足元の小石を投げつけたら、運良く当たって落とす事に成功した。
綺麗な青空と同じ色の果物は、楕円形に近い感じかな。
あと、ずっしりと重くて、薬草に近い香りがした。
美味しいかは分からないけど、せっかく頑張って採れたからと、リュックに入れて置く。
「こ、これは……なんだかすごいね」
次に見つけたのは、なんか光ってた。
ロザリオに近い色だけど、ピカピカと眩しいくらい光ってた。
流石に食べられなさそうだと思ってパスしようとしたけど、木に成ってるし、おまけに相棒を使ったら届きそうだし……。
散々悩んだ結果、一番取り易そうなのを一個だけ採った。
持ってみた感触は、表面がすべすべして気持ち良い。
けど、かなり固くて、試しに小石にぶつけてみたら小石の方が負けた。何この木の実。
今度はナイフで切ってみたら刃が欠けた。木の、実?
これ下手しなくても叩いたら砕けるかも、相棒の方が。
ま、まぁ、食べられなくても鈍器に使えそうだしと、取り敢えずこの木の実の事はリュックに放り込んで忘れる事に。
気を取り直した僕は、それからも新たな発見を求めて、時間を忘れて探検し続けた。
・・・・・・
・・・
・
「えへへ、いっぱい採れた。今日は本当に良い日になったな」
腰のポーチには、頑張った成果でパンパンになっている。
もしかしたら僕って、探索者としての才能もあるのかもしれない。
将来は、未踏の地で宝を探すっていうのも、悪くないね。
お伽話に出て来る様な、伝説の秘宝とか見つけたりしちゃうかも、なんて。
帰ったらおじいちゃんに報告する事が出来たと、ルンルン気分。
─────見つけた。
「え?」
突然、どこからか声が聞こえた気がした。
キョロキョロと周りを見渡してみても、誰もいない。気のせい?
それより、気付けば大分遅くまで探索をしていたみたいで、辺りはすっかり暗くなっている。
森は日中とは打って変わって、昔来た時の様に不気味な雰囲気に包まれて、怖くなって来た。
一気にさっきまでの嬉し楽しい気分が吹き飛んでしまった僕は、とても重要な事に気付く。
「帰り道が、わからない……」
そびえ立つ大小様々な木々と、薄暗さのせいで、自分がどこにいるかも分からない。
どうやら完全に迷子、いやこの場合は遭難か。
「ど、どうしたら……」
─────あの、君。
「っ!?」
びくぅっ、と跳ね上がる。
ま、また声が、女の人の声が聞こえた。これは空耳なんかじゃない。
確かに近くで聞こえるのに、やっぱり僕の傍には誰もいない。
だとすると、まさか幽霊なんじゃ……!?
─────あっ、怖がらないで。別に何もしないから。
相変わらず声しか聞こえない。これはもうまず間違いない。
そうだとしたら最悪だ、僕は今までゾンビやスケルトンとしか戦った事がない。
知識としては、おじいちゃんから習ったからある程度知ってるけど、実戦経験は皆無だ。
まして物理攻撃の効かない存在が相手だなんて、スコップしか持ってない僕には相性最悪だし。
とにかく急いでこの森を出ないとマズい。
ひたすら同じ方に走れば、上手いこと抜けられるかも。
分の悪い賭けだけど、まだおじいちゃんとの約束を果たせてないのに、こんな所で死ぬ訳にはいかない!
─────ま、待って。行かないで。
「うっ」
いざ走り出そうとした所で、悲痛な声に引き留められて、思わず踏み出そうとした足が止まった。
少なくとも、相手は正体不明の明らかに怪しい人(?)だ。
これは間違いないし、この状況で逃げる事は常識的に考えても、普通の事だと思う。
でもこのまま逃げるのは、なんというか……すごく悪い事をしてるみたいな気分になる。
─────お願い、私を助けて。
さらに助けてと言われてしまった。これは益々逃げる訳にはいかないよ。
どうしよう・・・。
「な、何か困っているんですか?」
─────っ、うん。とても困ってる。
思い切って尋ねてみれば、切実な想いのこもった返事が来た。
うん決めた、僕の目指す立派な男は、困っている人を放って置く様なのじゃないよね。
「僕はどうしたら良いんですか?」
─────えっと、君から見て丁度左に向かって進んで。その先に私はいるから。
言われた通りに左の方に進み始めると、弾んだ声音が聞こえた。
─────来てくれた、嬉しい。
こんなに嬉しそうにされると、ついさっきまで逃げようとしていた自分の心が痛い。
─────こっちこっち。
誘われるがままに森を進むけど、やっぱり歩き辛い所だな。
それに薄暗いから、足元がよく見えないし。
そんな僕に、心強い手助けが入る。
─────あ、そこ。足元に木の根があるから、気を付けて。
─────その細い草は切れるから、踏みつけながら進んだ方が安全。
あれ、なんだかこの声の人すごい親切。
もしかして、とても良い人なのかも、なんて思い始めてたら、足が引っ掛かって思いっきり転けた。なんて不覚、恥ずかしい。
─────あぁっ。だ、大丈夫!? 怪我してない?
「だ、大丈夫です。ちょっと転んだだけだから」
あっ、やっぱり良い人だよこの人。
それから声の導きに従ってしばらく進み続けると、広場の様な場所に出た。
ここだけ木もなく開けていて少し明るいし、空を見る事が出来る。
といっても、相変わらず分厚い雲が広がっているから、星とかは見えないけど。
そしてこの場所で何よりも不思議な物、それは僕の背丈よりずっと高くて大きな黒い岩が、開けた丁度中心辺りに鎮座している。
僕を呼んだのは、この岩?
喋る岩ってあるんだ、なんて不思議に思いながら、一先ずレイスとかじゃなくて一安心、なのかな。
─────傍に、来て
言われた通りに、岩さんに近づいて行くと、途中で奇妙な感覚になった。
まるで、水の中を通ったみたいな・・・?
僕が首を傾げていると、喜色に満ちた声が響いた。
─────やった! やっぱり、君だったんだ。
何だか岩さんがゆらゆらと明暗してる。
声からも、あれが嬉しいって事なんだろうね。
本当に不思議な岩だなぁ。
取り敢えず、喜んでる岩さんのすぐ目の前まで来た。
いや、目がどこか分からないけど、多分ここでいいよね。
「えっと、それで僕はどうしたらいいんですか?」
─────あっ、ご、ごめん。あまりにも嬉しくて、つい。実は君に─っ、いけない、避けて!
「え?」
今まで聞いたことのない鋭い声の後、バキンとすぐ近くで何かがへし折れる音と、ビチャビチャッ、と水が落ちる音がした。
そして、急に背中が熱くなったと思ったら、一拍遅れて尋常じゃない痛みに襲われた。
訳も分からず崩れ落ちた僕は、痛みに震えながら顔だけ後ろに振り返る。
いつの間にそこにいたのか、気が付かなかったそれは、今まで見てきたどんなものよりも、遙かに恐ろしい獣だった。
岩さんより大きなそいつは、僕なんか丸々一呑みに出来そうな口に、鋭い牙がびっしり生え揃っている。
その怪しい光の灯った鋭い目で睨まれると、震えてた体が凍り付いたみたいに動かなくなった。
真っ赤な血に濡れた長く太い爪を見て、ようやくあれで背中を切りつけられたと分かった。
けど、それももう遅い。
こいつは、出会ってしまっただけで、自分が死ぬって無理やり納得させられる様な存在だ。
寧ろ今も生きてる事が奇跡なんだ。
なんで、こんな化け物が……。
「あっ」
その時、僕は見た。
分厚い雲の切れ間から姿を現した、紅く輝く星を。
「紅、凶星」
震える声でその星の名前を愕然と呟いた。
おじいちゃんが読み聞かせてくれたおとぎ話に出て来る、最悪の星だ。
もしこれを見たら、絶対に外に出ちゃダメだって言われてたのに。
雲に隠れて気付かなかったとはいえ、ホント運が無い。
せっかくの今日って日が、酷い誕生日になっちゃったな。
上半身の力も抜けて、岩さんにもたれかかる。
どくどくと流れ出る血が、べっとり付いて汚しちゃった。
背中を預ける形で座り込んだ僕の傍には、無残に切り裂かれたリュックと、その中身が転がっていた。
割れた水筒と潰れた果物から漏れた水が、滴り落ちた血と混ざる。
紅凶星のせいで、この水溜まりがもう何処までが自分の血なのかどうかも分からない。
霞んで来た視界の先、ヤツが涎を垂らしながら、舌舐めずりするのが、不思議と良く見えた。
まるで態と見せつける様に、ゆっくりと近づいて来る。
自分との距離がゼロになった時、僕は死ぬ。
「ご…めん……な、さい……」
最期におじいちゃんと岩さんに、謝る。
約束も果たせなくて、助けられなくて、ごめんなさい。
そしてついに目の前まで迫った牙に、僕は目を閉じた。
─────そんな事ない。私は君に救われたよ。
岩さんの言葉と共に、ピシッ、ピシッと何かに罅が入る音がした。
─────無粋な邪魔こそ入ったけど。
ふと目を開ければ、まだ僕は生きていた。
それどころか、眼前まで迫っていた死が、何故か離れた所にいる。
おまけに、あれだけ恐ろしかった目の光は弱々しく揺れて、心なしかその巨体も、小刻みに震えてる。
そう、それはまるでさっきまでの僕みたいに。
一体、何が起こったのか理解出来ない僕の背後で、眩い閃光と共に一際大きな音を立てて、岩さんが砕け散った。
支えを失った事で、倒れ込みそうになった僕を労る様に、誰かの温もりが優しく包み込んだ。
「君のお陰で、こうして出る事が出来たよ」
それは不吉な紅凶星の光すら寄せ付けない、艶やかな黒い髪と瞳を持った、僕が生まれて初めて見る美しい女性だった。
「この上ない感謝を、君に捧げます」
その声から、この女性が岩さんの本当の姿なんだって分かる。
岩じゃなくて人だったのとか、なんで岩から出れたのかとか、どうして僕は抱きしめられてるのとか。
とにかく色々聞きたい事が次々浮かんで来るけど、出たのはたった一言。
「綺麗」
僕の言葉に一瞬目を丸くした彼女は、飛びっ切りの笑顔になった。
「ありがとう」
花の咲くようなその表情に、目を奪われた。
万遍の想いを乗せたその声が、心に溶け込んで幸せな気持ちに包まれる。
あれ、顔が背中より熱い。僕って顔も切り裂かれてたかな、なんて場違いな事を考えてる内に、事態はクライマックスを迎える。
「さて、じゃあ邪魔なゴミはさっさと片付けよう。本当なら億倍にして返してやりたいけど、一秒の時間さえも割きたくはない」
彼女に睨まれて、可哀想なくらいに震え上がった元怪物は、必死になっと逃げようと地面を引っ掻いている。
けれど、それもすぐに終わった。
「消えろ」
彼女がとても冷たい声で言い放つと、化け物は文字通り跡形も無くなった。
何をしたか全く見えなかったけど、彼女が倒したって事だけは分かった。
嗚呼、僕は間違っていたみたいだ。
あんな獣なんか、足元にも及ばない。
彼女が、彼女こそが、本当の「死」そのものだ。
優しくて、恐ろしいくらい綺麗。
まさか死が美しいと思う日が来るなんて、考えた事もなかったよ。
いつの間にか膝枕されてるし、本当にこんな日が来るなんて、思いもよらなかったよ。
そして気付けば背中の痛みは、驚くくらいに小さくなっていた。
それどころか、その小さな痛みもじんわりと和らいで行っているのを感じる。
これなら、死ぬ事はなさそうだ。
「もう大丈夫、これからは私が君を守るから。だから、今は休んで」
そう言って、彼女に優しく頭を撫でられた。
それが何だかおじいちゃんの撫で方に似ていて、とても懐かしくて、安心する。
それに、今日は本当に色々あって疲れたし、眠たくてもう限界。
「うん……じゃあ、お言葉に甘えて。お休み、なさい」
目を閉じると、いつもよりずっと良く眠れそうだと分かった。
「お休みなさい。本当に、ありがとう。私の、王子様」
意識が落ちる直前、唇に何かが触れた気がした。