第2話 封印街へようこそ
薄暗がりの中で、クレフは目を覚ましていた。
自分の体がまるで自分のものではないように、全く力が入らない。
ただ体を横たえているだけで息苦しく、全身が鉛で出来ているかのようだ。
かろうじて動かせるのは指先と、そして目玉だけ。太腿の上辺りに何か重いものが載っているのを感じるが、起き上がることはおろか頭を持ち上げる事すら出来ないので確認も出来なかった。
「……う……」
喉から漏れる掠れ果てた声。近くに、自分以外の人間が居るのかどうかも分からないが、もし居たとして呼ぶことすら出来そうにないと、心の中だけで苦笑する。
まあ、それで諦めて寝直すようでは何のための魔術師クレフか、というものだが。
反響定位を発動する。
跳ね返ってきた音波で測定した限りでは、ここは一人用の寝室といったところか。
とりあえず、このベッドだけが何もない空間に浮いている訳ではない、ということに安堵する。
この魔術ではあまり細かい物は認識出来ないが、大きさと形からして部屋に置かれている調度はこのベッド以外には机が一つ、本棚が一つ、クローゼットが一つといった所だった。
更に、窓が一つある。窓辺には椅子が一つ。あとベッド脇にも背もたれの無い椅子が一つ。そしてその両者に、『何か』が載っている――以上が読み取れた情報であった。
『何か』――。
続けて生命探知を使うべく集中するも、その発動を待つまでもなく『何か』のうち一つが動きをみせた。
「起きたか」
窓辺の椅子に座っていた人間は、開き戸付きの窓を片方だけ開け、室内に光を入れていた。
苦労して僅かに顔を傾ければ、その人間の姿を何とか視界に入れることができた。
長身の女。漆黒の肌と白銀の髪、そして硬質な黒に照り光る二本の角。――魔族だった。
「あれから14日が経っている。まあ、無理もないがな。……ここへ放り出された時、お前の体はほぼ砕けていた。物体としても、また霊的にも。何とか繋ぎ合わせる事は出来たものの、生きているのが奇跡といったところだ。たったの二週間で意識が回復出来た事も含めて、お前の信じる神に感謝するがいい」
«……魔王、か?»
発言の内容からそれ以外にはあるまいと判断し、それでも問わずにはいられなかった。
舌はまともに動いてくれないため、念話を用い話しかける。
「そういえば、素顔を晒してはいなかったな?」
くく、と笑う魔王。確かに女にしては低いその声と特徴的な角の形状に覚えがあった。
«……女、だったのか……»
思わず口走ってしまう。念話の使用中は、考えるだけで発話が出来るという術の性質上、気をつけていなければ余計な事まで相手に伝えてしまうおそれがあるのだ。初歩も初歩だが、それほどクレフの意志力と制御力が落ちているということだった。
当然ながら聞き流してなどもらえず、魔王は秀麗な顔を不快げに歪めていた。
「性別まで隠した覚えはない」
«すまなかった、だが……重装の全身鎧など着ていたら、わからないだろう»
再び余計な言葉が続いてしまう。これに、魔王は呆れたように肩をすくめていた。
「そもそも、だ。"魔族"が重鎧など着ていたら、当然に女と決まっているだろうが。……だからこそ、お前らも『それ』を選んだのではないか?」
そうだ。魔族――黒き民は、白き民と違って個体ごとの差というものがひどく小さい。
まず種族特性から外れる事はなく、その適性は性別によってはっきりと分けられている。
男性が魔術師、女性が戦士。概ね女性の方が男性よりも一回り大きく、身体能力と反応速度において大幅に優れるのだ。
ゆえに重戦士である時点で女性と考えるべき。だが、それらの知識があってなお魔王を男性と思い込んだのは、魔術師であるクレフにあってすら常識からは逃れられなかったということか。
まあ、いい。置こう。
クレフが気になったのは魔王の言葉後半だった。見下ろしながら吐き捨てられた言葉は、彼の太腿に載る重みに向けられているのだろうことは明らかだ。
クレフは無理をして肘を突っ張り、上体を起こしにかかる。何とか、僅かに首を持ち上げる事が出来、彼の足に掛けられた布団の上に突っ伏して眠るスゥの姿を認める事が出来た。
「それにも、感謝をしておくのだな。この二週間ほぼ付きっきりで貴様の世話をしていた。まあ、私などが近付こうとするとまるで手負いの獣のように殺意を撒き散らすので閉口したが」
「………」
念話を切る。今の自分の心情を他人に見られるなどということは、流石に耐えられなかった。
昏昏と眠り続けるスゥの目にはひどい隈があった。彼女の知覚力であれば本来、眠っていてもこんな近くで人が動けば気付かぬ筈など無いのだが、よほど無理を続けたのだろう。
それを嬉しく、また彼女を愛しく感じないなどというのは無理だった。だがそれ以上に、クレフの感情はスゥに対する哀れみと困惑に占められていた。
何故、そこまでという思いが強い。所詮クレフも、彼女を利用した人族に過ぎないのに。
「は……っ!?」
数秒ほどそうして寝顔を眺めて、ようやくスゥは目覚めた。
跳ねるように突っ伏していた体を起こし、真紅の瞳がクレフの顔に据えられる。
「……おはよう」
「ぁ……っ……!」
クレフの掠れた声に、彫像のように美しいスゥの顔が泣き出しそうに歪んでいた。しかし彼女は顔を伏せ、両手を軋むほど握りしめて必死に感情を抑えると、震える声で返したのだった。
「はい……おはよう、ございます……」
ベッドから立ち上がる。クレフの動きはこれまでのような、渾身の力を込めてほんの僅かに動かせる、といったようなものではなかった。多少ぎこちなさはあるものの、ほぼ普段どおりと言える速度だ。
からくりは、やはり魔術。
「懸糸傀儡か、無理をする」
流石と言うか、魔王はひと目で見抜いたようだった。自分や他人の体に魔力を纏わせ、その魔力を操作することによって強制的に体を動かす魔術だ。
戦闘中に四肢を負傷した場合など、効果の発揮に時間のかかる治癒術ではなくこれで一時的に機能を維持する、といった使われ方を主にするが、自分の全身すべてをこれで操るなどということは、流石に経験がなかった。
まあ、ゆっくり歩く程度であれば問題なく出来るだろう。
「本当に、大丈夫なのですか?」
ローブを着るのを手伝いながら、控えめに声をあげるスゥ。
「ああ」とクレフが短く応えれば、もはやそれ以上の事を言ってくる様子もない。
«リハビリは出来るだけ早く始めた方がいいんだ。……俺の全身の損傷具合だと、このまま寝ていたら完全に寝たきりになっちまう可能性の方が高い»
かすかに後ろめたさを感じて、クレフは念話を起動し、続けていた。
言っている内容に嘘は一つもない。
全身の神経と魔力流がめちゃくちゃになっていて、今現在こうして魔術が使えている事すらただの偶然と言われてもおかしくはなかったのだ。
«それで……結局、どうなったんだ?»
今更ながらに魔王に訊く。今現在の状況を見る限りでも、クレフ達が送られた異界とは想定外の奇跡を10回以上は積み重ねたほど"良い"場所であったのは疑いのないところだが。
「見てもらうのが早かろう」
言って、魔王は窓辺を退いてみせた。窓の開き戸を両方いっぱいに開いて。
«これは……»
クレフの眼下に広がるのは、街だ。
王都などよりは流石に小さく、粗末な家屋が多く見える。しかしそこは、活気に溢れていた。
往来を行き交うのは黒き民、だけではない。獣の顔をした獣人、直立したトカゲのような竜人、翼と尾を生やした本物の魔族までもが平然とすれ違い、会話を交わしていた。
それに、彼等亜人はクレフの世界に居た魔物たちとは違って見える。一定以上の知性と礼節を備えた、紛れもなく"ヒト"のようだった。
いったい、何が起こればこのような光景が生まれるのか。
「驚いたか。お前が眠っていた二週間の間、私はこの街の事を色々と調べて回ったのだがな。まず……どうやらこの街の名は、『封印街』というらしい」
封印街――。
「お前も気付いたろうが、そこに見える亜人達は我々の考える魔物ではない。我々同様、多種多様な世界で、お前達勇者の手によって封印された魔王とその側近達。それが、この街のあらゆる住人、その正体といったわけだ」
なんてことだ。
«にわかには……信じがたいな»
クレフがそう呟くと、魔王は不意に話題をそらす。
「そうだ。お前、精霊神2柱の名をちゃんと言えるか?」
«何をいきなり……いや、光の方が光輝のシェルディアということだけしか……»
クレフが歯切れ悪く答えれば、魔王は馬鹿にしたような笑いを漏らした。
「だろうな。でなければ、あの聖剣を平気な顔で振り回せる筈がない」
いったい今の話に何の関係があるというのか。クレフは訝しみ……やがて、はたと気付いた。
«まさか……プレディケなのか?»
「その通りだ。光輝のシェルディアと月のプレディケ、この街の人間ならば誰もが知っているぞ」
つまるところ、こうだ。あの2柱の神が作り上げた世界はクレフ達のものだけではなかった。
幾つあるのか正確なところはわからないが、そのうち全てかあるいは一部に、問題解決手段として勇者と聖剣が置かれた。そして、彼等は聖剣を振るいに振るって、この異界へと魔王を送り続けているという訳だ。
「まあ、十数年に一度、数人ほどが送られてくるくらいの頻度らしいがな」
それでも十分に多い。なにせ、その全てがそれぞれの世界で魔王と呼ばれた存在なのだから。
「と、そんな訳でだ。これだけ魔王だらけの世界では、いつまでもただの魔王で呼ばれている訳にはいかん。道行く者の半分が振り返りかねんからな。……私の事は、カーラと呼べ」
何故かわずかに目線を逸らしながら言うカーラ。
«カーラ、か……わかった。呼び捨てでも?»
「構わん」
この時、これまで一切会話に参加しなかったスゥの目が、凍てつくような冷たさを帯びた気がした。
「さて、ではそろそろ街に出てみるか」
カーラに促され、クレフとスゥは宿を出た。行ってらっしゃいませ、と柔らかな微笑を浮かべ腰を折る宿の女将を二度見すると、クレフは射程を絞った念話でおそるおそると呟く。
«……彼女が、この宿の店主なのか?»
聖堂に居るのが似つかわしく思える、若く清らかな女性。放たれる魔力の気配は完全に高位聖職者のもの。それでいて何処か禍々しく、クレフは首筋がひりつくのを感じていた。
「そう構えるな、お前の体をそこまで修復してくれたのは、他ならぬ彼女だぞ」
«そうなのか、それは、礼の一つも言わずに出てきてしまったのは不調法もいいところだな。後で――»
「まあ、魔王だが。私も不審しかなかったのでな、色々と辺りで聞き込んでみた結果、偽預言者として己の教団を率い、世界を相手に戦い続けること20年。およそ1800万人を死に追いやった狂信の徒だそうだ」
怖すぎだった。一気にこの宿に戻る気持ちが失せてくるのを感じる。
心持ち足早に宿を離れながらクレフは訊いた。
«そうだ。二週間も昏睡状態にあったと言ったが……その間の生命維持は?»
やはりそれも彼女がしてくれたのだろうか。だが、カーラはそれに首を振った。
「いや。食事はソレが、口移しで」
大急ぎで念話を切る。焦りすぎたためか懸糸傀儡の集中が解け、その場に崩れ落ちそうになるクレフ。
だがそれを、彼の膝が数ミリ沈んだ程度の時点でスゥが支えていた。
恐るべき反応速度と集中力である。彼女が一言も発しないのは、クレフの異変を察知するため全神経を傾けていたためか。
「……その、大丈夫ですか? クレフ様」
それでも会話の内容を聞いていなかった訳ではないのだろう。ぎこちなく口を開くスゥ。
«あ、ああ……大丈夫だ。少し、びっくりしただけだから»
クレフも引きつった笑みを浮かべながら、何とか姿勢を安定させる。同時に、無駄な思考を念話に流さぬよう送り出す文章を確定させる作業は、現在の魔法制御力をフル動員する必要があった。
「……食わせようとしていたのだが、まず間違いなく窒息するだろうと思ったのでな。私が活力共有を使って維持していたというわけだ」
そんな二人を呆れたように眺めながら、言葉の残りを続けるカーラ。いや間違いなくわざとだろうと、スゥと二人してしばし抗議の視線を向けておく。
気を取り直して。
«な、なるほど……活力共有か»
王都の騎士団でも一時期制式採用が検討された魔術だ。リンクした者同士で空腹や疲労の回復が共有されるため、休息役を用意する事で主戦力の強行軍が可能になる。
試験運用の結果、例え必要ない状態に出来たとしても、食事や休息は行わなければ精神衛生上好ましくない影響が出まくるという事がわかったため、採用は見送りになったが。
頭数の少なさからほぼ不眠不休を強いられる魔族の侵攻軍には確かに必須だろう。そう言われてみれば、使用しているという推測すら出なかったのが逆に不思議だった。
「ふ。なにしろ、二人分食わねば腹が満ちないのでな、この街の食事処には随分と詳しくなった。そんな私がお勧めするのが、ここだ」
カーラは一軒のカフェの前で足を止めた。周囲のあばら家から比べれば随分と洒落た作りの店舗で、幾つかのテラス席も用意されている。カーラは迷いなくその一つに座ると、やって来たウェイターを追い返すような速さで注文を済ませていた。