第1話 戦いの終わりに
アガート大陸の中央部には、地の底へと続く大穴があった。
かつて神代の時代、この世界を共に作り上げた光と闇の精霊神が人間に対しての意見の違いから争いとなり、敗北した闇の神が彼を奉じる黒き民達と共に叩き落とされ、封印されたと言われる穴である。
戦によって傷ついた光の神もこの世界を離れたと伝えられており、今となっては少数の精霊使い達がその力を借りて魔術を行使すると称している以外にはその存在を証明するものとて無く。
穴にまつわる伝承自体、もはや神話の域を出ないものと化してしまっていた。
だが、黒き民達が地下に存在することについては、誰一人疑う者は居なかった。
何故なら、彼等は数十年の間隔を置いて定期的に地表へと侵攻を仕掛けてきていたからである。
2~3世代に一度は必ず彼等との戦いを経験する。白き民の末裔にとって黒き民達は、決して忘れることの出来ない、忘れる事の許されない存在だった。
そして、長い長い戦いの中で、黒き民という呼び方は次第にされなくなってゆく。
地表の人間が自分達の事をあえて白き民と呼ぶ必要がなかったため、先に白き民という言葉が廃れていた、というのも理由の一つではあるが。
白き民と比較して数倍の身体能力と長い寿命を持つ彼等は代わりに生殖能力に乏しく、地表侵攻時にはその頭数を補うために周辺のモンスターやアンデッドを使役し、雑兵として使っていた。
魔物を率いる"魔族"。そう呼ばれ始めるのは自然のなりゆきだったのだ。
そして、侵攻軍の長、魔族達を率いる王は、当然のように"魔王"と呼ばれていた。
「あれが魔王城か……禍々しい姿をしてやがる」
重騎士ミランは眼下に聳える漆黒の建造物を眺め、忌々しげに呻いていた。
魔王城――正確には、大穴を監視するために連合王国が築いたガラン砦だが、この名を覚えている者などほぼ居ない。当然のように侵攻後すぐに占拠され、魔族によって幾度も増築が繰り返されて建造当時の面影もないこの砦である。いまや、魔王城以外に呼び方があろうはずもなかった。
「王国を出立して1年……今日で、何もかも終わるんですのね」
女だてらに神官戦士団の副長を務める、十字騎士のメディアは、感慨深く呟く。
一年もかかったと考えるべきか、たった一年でここまで辿り着いたと考えるべきか、難しい所だった。
広範な魔族の支配領域を、各所で部隊を任された魔族司令官を次々と撃破し、開放して来たのだから決して遅いという事はないのだろうが。何処か、実感の薄い部分があった。
それは、恐らく……。
「頼むぜ勇者さんよ」
「私達が必ず、貴方を魔王の元へと送り届けますから」
ミランとメディアの二人に肩を叩かれ、重い全身鎧に包まれた体をふらふらとよろめかせる少女。
彼女に任せきってしまった部分が多すぎたためだろう。
「……無理は、するなよ」
魔術師クレフは、勇者と呼ばれた少女、スゥに複雑な微笑を向ける。
「……はい」
分厚い面頬に覆われ、瞳の色すら判然としない重兜の奥から、スゥのくぐもった声が応えていた。
城内への突入。次々と襲い来るモンスター達を薙ぎ倒しながら、4人は進んでゆく。
それらは、魔王城を守る戦力としては拍子抜けするような弱さだった。王国騎士の選りすぐりであるミランとメディアにとっては、数の不利があっても問題にもならない。
クレフはスゥの周囲にぴったりと張り付き、奇襲を警戒する。流石の勇者であってもこれだけの重装に身を包んでいては知覚も鈍るだろう。彼の役目は主に勇者を守る事だ。
しかし、特にクレフが魔術を使用する必要すらなく、彼等は玉座の間へと到達していた。
「騒がしいな」
既に立ち上がってこちらを待つ魔王。全身に赤黒い甲冑を纏い、奇妙な仮面で顔を隠した戦装束に身を包んでいる。魔族特有の銀髪と黒い二本の角が仮面の横から強くその存在を主張していた。
「貴方が、魔王ね……」
メディアの問いに魔王はくつくつと笑ってみせる。腰の長剣を抜き、ぴたりとこちらへ向けた。
「いかにも。この期に及んで替え玉などは使わん。そして、そちらが……勇者か?」
「勇者、兜を取ってやんな」
ミランに促され、スゥは首まで覆っている兜を留める、金属のねじを緩めてゆく。
苦労して兜を引き抜けば、流れ落ちるのは白銀の長髪。続いて、黒い肌と黒い角が露わとなる。
それを見て、魔王は声を上げて笑っていた。
「だろう、な。だろうと思っていたよ。幾ら数で押されようと、黒き民の優位は絶対だ。これだけ短期間のうちに私が選んだ将軍達がことごとく討たれるなど考えられん。全て……お前の仕業か」
チェンジリング――。
何故かは分からない、星と月の配置による精霊力の偏りであるなどとも言われているが、確実に白き民同士の子であるのにも関わらず、黒き民として生まれてくる子供がごくごく稀に存在したのだ。
呪いであるとか前世における悪業の報いであるなどといった言葉も大っぴらに語られる世間において、当然彼女たちが送れるまともな人生などは存在しない。しかし魔王が存在する世なら、別だ。
道中決して肌を晒さぬ事を条件に――とはいえ、旅を共にするクレフ達は当然ながら知っていたが――英雄になる道を与えられる事となる。
「そうまでして我々を封じておきたいか、地表の人間どもっ!」
吠えつつ、魔王は石畳を蹴った。霞み消えたかと思えるような速度に、スゥだけはまともに反応出来ていた。革ベルトを引き抜いて全身鎧から余分な装甲を落とし、その一つを蹴り上げて魔王への牽制とする。
稼げた時間は1秒もなかったろう。しかしその間にスゥは前転し、抜刀しながら立ち上がって魔王と剣を合わせていた。
金属と金属がぶつかり合う凄まじい衝撃音が連続する。クレフの魔術がスゥが持つ長剣の強度を高め、メディアの神聖魔法がスゥの周囲に不可視の防御幕を展開する。
彼等が出来るのはそれだけだ。補助魔法による援護。スゥと魔王との戦いはあまりにも速すぎ、助太刀に入ろうにも仕様がなかった。
「いつもながらすげえな……魔族同士の戦いってのは」
一人することがないミランが皮肉に呟く。クレフの口許が僅かな怒りに歪むが、呪文詠唱に必死で他の言葉など口にする余裕はなかった。
スゥと魔王は一見、互いに相手を正面に構え、不動のままに切り結んでいるように思える。
だが剣戟の音色と共に、何か硬い物同士が擦れる音がずっと鳴り響いていた。それはブーツの底に打たれた鋲が、石畳を削っている音だ。高速の摺足で常に間合いをずらしながら、スゥと魔王は相手に必殺の一刀を叩き込むべく長剣を操る。
首筋への斬撃を防ぐ。脇の下への突きをいなす。膝裏への払いを止め、股関節への打撃を弾く。
全てが装甲の隙間を狙った致命の一撃。殺意を隠そうともしない猛刃の応酬に、見ているこちらまでが疲労を覚える。
と、そのとき。
一際大きな、もはや爆発音に近い音を響かせ、スゥが壁に叩きつけられた。追撃に走る魔王をクレフの術が絡め取り、ほんの僅かにその速度を遅らせる。メディアの治癒魔法がスゥの肩口に刻まれた裂傷を塞ぐが、石畳には少量とは言い難い血が撒かれていた。
「押されている……?」
メディアがぞっとしたように囁く。これまでは、こんな事はなかったのだ。クレフとメディア二人の補助を受けて戦うスゥは相手の魔族をすぐに圧倒し、制圧していた。
しかし今回は。二人がかりの補助を受けて、なお魔王とは互角。出立前にある程度の戦闘訓練を受けたとはいえ、勇者となる以前の実戦経験などなく長期戦を知らないスゥの方が集中力を切らしかけている。
「おい、やべえんじゃねえのか、クレフ」
ミランが不安げにクレフを見る。早くしろ、と言っているのだろう。
だが、クレフは首を横に振っていた。駄目だ。飽くまでスゥが敵を制圧した後でなければ。
「しかし、それじゃ、終わっちまう……」
そうミランが泣きそうな声をあげた、次の瞬間。
鍔迫り合いの一瞬の隙を突いて魔王の放った拳が、まともにスゥの顎を捉えていた。
膝から崩れ落ちるスゥ。気絶しているのは明らかだった。クレフはそれを認めるや否や、ローブの中、腰の後ろに隠し持っていた剣を逆手に振るう。
空間を割る一閃。勇者の持つ精霊力と聖剣プレディケが合わさった時のみ使用可能な、異界封印の絶技。
しかし、そこにはもはや魔王は居なかった。
「遅い、な」
背後から聞こえた声に、背筋が凍りつく。滲む脂汗を拭う事も、振り返る事すらも出来ずクレフはそのまま硬直していた。
「何かを握っているとは始めから気付いていた。酷いじゃないか、白き民の勇者。先にも言った通り、私は替え玉など使わなかったのに」
勝者の余裕か、魔王はすぐにはクレフを殺さない。暫くの間、嬲りものにするつもりなのだろう。
「だが、仕方ないか? 白き民の年齢はあまり良くわからんが、生命力の色から見てそう若くも思えん。魔術師として育ってきて、我らの侵攻に際して今更勇者である事を知ったが、如何ともし難かった……という所か」
当たっていた。クレフは今年32になる。
勇者に与えられるスキルは一撃必殺。魔族との身体能力の差を無にするもの。しかし、この歳になるまで魔術の探求にのみ費やしてきた己の身で、いざ聖剣を振るえと言われても抵抗が強すぎた。
連合王国の方でも、もはや今代の勇者は存在しないものとして正攻法で、チェンジリングから魔王への刺客を見出そうとしていたため、その計画に沿う形となったのだ。
チェンジリングの"勇者"を使って魔族を無力化、或いは足止めし、聖剣の力でとどめを刺す。決して公表出来ないスゥの存在も、全てが片付いた後クレフが引き取って共に国を出るという事で話がついていた。
クレフの不甲斐なさを補ってくれた存在だ。正当にとは言えぬまでも、報いねばならない。
だから。
「だから! 最初からあの魔族女に魔王の動きを封じさせりゃ良かったんだ! 二匹とも一緒に片付けちまえば、面倒事はまるごと片付いたってのに!」
ミランが、決してクレフが許容出来なかった提案を悲鳴じみた声で繰り返す。
魔王は、嘲るようにミランを笑っていた。気を良くしたかのような声で続ける。
「残念だが、それは無理だな。こいつが勇者だなどと、最初から私は信じていない。魔王との戦いに際して聖剣すら握っていない勇者など無理がありすぎる、そうは思わんか?
始めから、お前達のうち誰かだと思っていたさ。異界封印剣についても承知していた。触れた生命体全てを永遠に、問答無用で異界へと放逐する不可視の魔力刃。究極の初見殺しだが、存在を知ってさえいれば回避は至難というほどでもない。射程は25メートル、弾速は、時速にして30キロくらいか?」
それを知った上で何故、魔王が選んだ司令官達が討たれたのかが分からなかったのだという。
しかし今や全ての罠は噛み破られた。魔王は清々しく宣言する。
「私の、勝ちだ。……剣を捨ててもらおうか、勇者よ。お前にはもう少しだけ用事がある。他の者達には、特にこれ以上用も無いがな?」
聞いた瞬間にミランは身を翻していた。重鎧を着ているとは思えぬほどの逃げ足で玉座の間を出ようとするミランの背に、魔王は片腕を振るう。
魔王の着る赤黒い鎧、突き出していた突起物の一つが投剣となって、ミランの延髄を砕いていた。
「だが、つくづく私の神経を逆撫でしてくれたお前を、逃すつもりもない」
「ひ……」
鎖帷子を鳴らし、その場にへたり込むメディア。魔王がそちらを向く気配を背中に感じながら、クレフは口を開いた。
「待て、剣を捨てる」
投げ捨てるでもなく、ただ握っていた手を離すようにして聖剣を足元へと落とす。それを爪先で蹴り、殊更に音を響かせながら、クレフは魔王に掴みかかっていた。
「何のつもりだ」
言いながら、魔王は微動だにしなかった。もはやクレフの事を脅威だとも認識していないのか、反射的にクレフを殺すような事も無い。その態度をこそクレフは願っていた。
抱きつくように手足を絡め、魔術を紡ぐ。クレフの体が急速に硬化し、鋼をすら超える強度となる。更に魔力の鎖を生み出し、自分と魔王に幾重にも巻き付けた上で楔によって天井と床に固定する。
「おい、別に残りの二人については興味など……」
魔王が何かを言い掛けるが、ここまで深く動きを封じられたなら、もはや聞く意味もなかった。
むしろ遮るようにクレフは叫ぶ。
「今だ、やれっ!」
魔王の目が、クレフの背中越しにその先に居る物を認める。そして、愕然と見開かれた。
そこには、ふらりと立ったスゥが、聖剣プレディケを手に構えていたのだった。
「貴様……!?」
魔王は今になって自分の戒めを解こうとする。だが、関節を封じる形で体を絡めたクレフと、二人の体に巻かれた魔力の鎖は軋む音を立てるだけだ。
「何故だ、何故……あれが聖剣を持てている!?」
「これは知らなかっただろうよ。俺が予め承認した相手なら、持ち上げる事は出来る」
――更に、既に"力"を込めた後であれば、異界放逐の発動も。
ゆっくりと聖剣を振り上げるスゥの姿に、魔王はいよいよ半狂乱になって暴れ始めた。鎖の幾つかにヒビが入り、楔の一本が天井から外れて跳ね回る。
「ぐっ……早く、してくれ。そう長くは持たない……!」
「やめろ! 貴様、正気か? 何をしているか分かっているのか! 何があるのかも分からん、物理法則すら同じとは限らん異界へと放り出されるのだぞ!」
そうだろう。
きっと、ここであっさりと死んでいた方がまだましって結果が高確率で待っているんだろう。
そんな事は分かっていた、だが。
「……元々俺は、それを他人に強いてきた。お前にも強いるつもりでここへ来たんだ。俺がそいつを拒む訳にゃいかんだろうが!」
剣を振り上げたままのスゥに、大丈夫だと言うように笑いかけてみせる。
その頃には鎖は殆ど千切れかけていた。硬質化させたクレフの体自体も奇妙に捻れつつあった。
「ま、二人で封印されりゃ……、話相手くらいにはなれるかもしれんぜ」
囁くように告げた瞬間、クレフの背には絶望的なヒビが入る。
それを見てスゥは、ついに聖剣を振り下ろしていた。
「――!?」
いや、それだけではない。斜めに振り抜きながら剣を捨て、スゥは全力で石畳を駆ける。
クレフにだけは見えている魔力刃を追い抜き、クレフの体をかっさらうように両手をかけて、魔王から引き剥がそうとする。
(何を。無意味だ。俺が離れてしまったら、魔王とて着弾の前に飛び退くことは容易な筈)
そうなればもはや、打つ手は何も――。
だが、次の瞬間それに倍する衝撃がクレフを襲っていた。
魔王は逃げなかった。ただ、引き剥がされそうになるクレフの襟首を掴み、引き寄せたのだ。
硬質化していた衣服は破れない。しかしそれだけに、前後からそれぞれ恐るべき力で引っ張られた体はばらばらに砕けそうになっていた。意識が持って行かれかける。そしてその途切れかけの感覚の中で、クレフはひどく無防備な、ただ思わず口に出してしまったとでもいうような声を聞いていた。
「……それは、ないだろう」
何が、と問い返す間もなく白光が広がり、全てを塗り潰す。
そして、何もかもが消え去った玉座の間には、ただ呆然と虚空を見上げるメディアと、輝きを失った聖剣だけが残されたのだった。