第一章4 『風船は離さない様に』
「煙草、吸ってもいい?」
「どーぞー」
確認を入れ、服のポケットから煙草の箱を取り出す。煙草の種類は、周知の事実であるようにいっぱいある。そんな中から一つに絞るなんて惜しいことはやはり俺にはできなかった。もったいないじゃん。いっぱいあるんだから。好きだからって煮物だけ食べていくわけでない様に。
だから日替わりで、その日の気分で。
今日の気分には、だからこいつがぴったりだった。
黒い箱から、黒い紙に巻かれた煙草を取り出し、口元に咥え、火をつける。
こんな時にはパイロキネシストが羨ましくもなる。
指をパチンと弾いて、それで火をつけるとか、そんな憧れ。
ライターで火をつけるのも、まあ悪いもんじゃねぇんだが。
「せんぱいは煙草に口をつけ、隣の美少女を見る。ああ、いつも通り可愛いな、なんてことを考えながら紫煙を吐き、そして少し照れ顔で目をそらす。だがそれでも落ち着かないせんぱいは愛する後輩の女の子を……」
「勝手なナレーションしてんじゃねーよ」
いつもより一回り細い煙草を吸って回転を鈍くした脳も、その言葉で元通りに。
中指と薬指で支えた煙草の吸い口を親指で弾き、溜まってもいない灰を落とそうとする。もちろん灰が落ちることはなく。少しの燃えカスが飛び散るのみ。
意味が一つもないわけではない。
……ルーティンだ。自己暗示。
この行動は俺の思考能力を低下させるためのおまじない。
あの夢を見ると、やっぱり少し考えちまうから。俺の過去って奴を。
もう一度弾く。今度は、だがそれでも少しの灰が地に落ちた。
「せーんぱい。どうぞ」
飲み物を買いに行ってくるといった彼女は、近くの自販機に駆け寄り、そして自分の紅茶と俺のココアを買ってきてくれる。
ココアしか飲まないわけではないんだけれど。
でも九十九パーセントココアだ。
俺の好みを熟知しているみぃちゃんに感謝と敬意を表しながら、プルタブを開いた。
彼女はそのまま、また同じ位置に座り、ペットボトルのキャップを開け温かい紅茶を口位に入れる。唇が飲み口に触れ、喉を液体が通過し、こくんと音を立てる。
時期的にあったかーいの飲み物を購入したのはキャップのカラーでわかったがまだ熱かったらしく。飲み込んでから、はふはふ言って、冷気で舌の熱を逃がそうとしているようだった。
猫舌ってのは体質とかじゃあなく飲み方に問題があるらしいが、しかしそれならば誰でも克服可能な疾患というわけだ。
猫舌専門外来。……作ってくれねぇかな。
そうすれば俺も、プルタブを開けて放置して、少し冷ますなんて手間が省けるのによ。
そんなこんな、みぃちゃんと適当に、会話少な目で過ごし、やっとここに来て太陽の光を受け入れられるようになった俺の目が公園を見渡す。
公園といっても遊具一つないこの空間は、ただいくつか並んでいるベンチと東屋があるのみ。東屋にはゆったりとお茶を飲む老人が数人集まって井戸端会議の興じていて、平和な空間の演出に一役かっている。
……髪の色は皆、老化から来た白髪交じりの黒、或いは白髪染めの濃い茶色。
異常が発生する以前の人間の形だ。
もっとも、現在ですら日本の異常発生率、いや、発症率と言うべきか。それは二十パーセント弱ほど。子供達だって黒髪がほとんどであり、だからまあ、珍しくはないのだけれど。
隣のみぃちゃんは桜色の髪。
やはり苦労もあるのだろうか。
「みぃちゃん。みぃちゃんの子供のころの話、聞いてもいい?」
だから、と言うわけでもないのだけれど、遠回しにそんなことを聞いてみた。
みぃちゃんは小さく首を傾げ、だが俺の目を数秒見つめると、悪戯っぽく笑って話し始める。
「なんですか? せんぱい、可愛い後輩に興味津々ですか?」
「……まあ、それでいいんだけど」
「むぅ……もっと狼狽えてくださいよー。さらっと流されたみたいで悲しいですー」
言いながら、しかし彼女は少し困ったような表情を浮かべる。
「ん……でも、いたって普通……ではないかもしれないですけど面白くはないですよ? 」
「それでもいいんだけど……。でも話したくなければ話さないでいい……というか、なんか急にごめん」
異常者は今なお偏見の目で見られる。少し前であればなお一層。彼女の過去に触れたくない部分もあるのかもしれなくて、遅まきながらそれに気が付いた俺は、だから少し後悔した。
けれど彼女はそこには大して何を思っているでもない様で、だけれど始めから暗い話をし始める。
「……んー?でも私、小学校の時は虐められて行かなくなりましたし……。で、途中で戦争が始まって終わって、なんか知らないうちに学校は吹き飛んでましたし……。その後は……中学に在籍はしていたみたいですけれど行ったことないですし……」
おい、学校を知らなすぎるだろ。というか彼女の人生十六年の内の一年弱しか行ってない計算になるが……。それでいいのか義務教育。
俺も行ったことがあるのかないのか知らないし、それでいて記憶がある期間にそういう機会はなかったことだし。人のことは言えないけど。
まったく、戦争って奴ははそういう機会も奪っていったようで、碌なもんじゃあねぇな、なんて月並みなことを考える。
月並みなんて、情緒を重んじる日本人のくせして自分の考えを月と同価値に見るとか……まあ人間なんてそんなもんか。
ともかく、みぃちゃんの話を聞いて、俺が学校教育の穴以外に思うことは一つだけだった。
「虐められてたって……」
それははっきりとした言葉にはならず。だけれどついつい、口を突いて出てしまった。出すつもりはなかったのに。
すぐに訂正しようとして、だけれどその前に、みぃちゃんはぽつんと言った。
「十年も前ですからね……。それで、十年前ですし。」
十年も前。異常がまだ世界的に許容されていなかった頃。
十年前。異常者が好き勝手して戦争が始まるほどに、ピリピリしていた時期。
俺の記憶のスタート地点たるそのころには、俺は既に一般と呼べる立ち位置にいなかったから、それがどういう影響を世界に発していたかを詳しくは知らない。
けれど、一番悪い時代ともいえるその時期は、子供が育つのに一番適していなかった時代でもある。
そして彼女は、唯一の救いと言ってもいいであろう両親をも、失っている。
口を突いて出た言葉はいくら息を吸い込んだところで戻るわけでもなく。結果だけが重くのしかかる。
そんな俺の心情とは対照的で。彼女はむしろ俺の表情を見て、笑顔で言う。
「そんなに気にすることじゃないですよ? 確かに髪の色とか目の色とかで虐められてはいましたけれど、それでもお父さんもお母さんも優しかったですし。優しかったんですよ? それに……」
彼女は笑顔を絶やさず、それでいて少し照れの混じった顔で、それでもはっきりと言う。
「今の私には、せんぱいがいますしね」
「三十点」
「むぅ、別に点数を狙ったわけじゃないんですよー」
口をとがらせて言う彼女に、俺は目線をそらし、そして煙草を一吸いする。
ああ、今この子の方向みれねぇわ。紫煙を吐いて、少しでも気を落ち着けようと。それでも、妙にみぃちゃんが気になって。
目を……。
あ、結局みぃちゃんの似非ナレーション通りになっちまってるな。
そのまま少し、やはり言葉少な目でゆっくりとした時間が流れる。もう二本目の煙草に火をつけて、この時間を満喫して。
風に乗って、流れてくるのは、まだ小さい男の子の声だった。
子供嫌い……というか、子供になるべく近寄りたくない俺であったが、それでもその声には感じるものがあり。今日何度目かもわからない平和を身に沁みながら感じていた。
道を歩く少年は母親に手を引かれ、もう片方に風船をもって。笑顔で歩く。少し前までは考えられない状況だ。
黒髪の少年。ここからでは細かくは見えないが、おそらく異常者ではないのだろう。黒髪の人間の異常発生率は高くないのだから。
警察が少しは機能を回復している証拠だ。
まだまだ恨みつらみはあれど、警察のここ数年の頑張りは評価せざるを得まい。まあ結局それは、あの俺が嫌いな人工知能さんを褒めるようで癪に障るのだけれど。
少しだけその状況を見守って。
少年はどうやら少し坂を下ったところの商店街でもらったのであろう風船を握りしめているようだが、母親に笑いかけた瞬間、その拍子に手を放してしまった。
浮いていく風船に慌てて手を伸ばし、ぴょんぴょんと飛び上がって手を振り回し、だがそれでも風船は容赦なく浮いて、木の枝に引っかかる。その高さは五メートルほど。
どうあがいても少年には、そしてあの母親にも手が届かないであろう高さだ。
あーあ。
少年は取れないことを悟って、だが諦めきれない様で大声を上げ始めた。
泣きながら、風船が欲しいと。
その声はこの公園内部にも響き渡って。俺たち以外のもう一組の客。老人グループはその場に駆け付けた。
駆け付けた、とは言ったもののゆっくりだなぁ。
見ていると、どうやら飴を渡して宥めているようだった。飴ちゃんを渡して子供を宥めるってのはこの国の伝統なのかね。
三人の老人が子供の回りを右往左往しながら、必死に宥めて、だけれど子供は泣き止まない。
風船。ヘリウムが詰まっただけのゴムになぜあんなに執着するのか。
子供心を忘れていないつもりの俺にもわかりかねるが、まあ人間界に存在するものの中で生活中によく接する唯一の重力に逆らう物体だ。きっとそれが、子供の心を鷲掴みにするんだろうし、だからこそ商店街も配るんだろう。
なおも騒ぐ少年に、ようやく俺も重い腰を上げ。
「みぃちゃん、ちょっと来て」
「はい?」
煙草を咥えながら、少年に近づいた。
異常者と言えど、大半の異常者の身体能力はただの人間と変わらない。だが特殊な環境で生きている人間にとってはその枠に収まらない。
もしみんな一緒ならスポーツ選手なんて商売あがったりだろうし。
ともかく。
だから俺とみぃちゃんの身体能力は、常人よりはちょっと高い。
みぃちゃんと二人でなおも騒ぐ集団に近寄り。そうすると徐々に声が小さくなっていく。喚く少年だけが声を上げ、他の大人たちは。
こちらを見て怯えの表情を浮かべる。
……うるさい子供を黙らせるのに殺したりしないよ?
なんて。
ちょっと前までは可能性はかなり高かったことで、今でさえあり得なくはないこと。前例があればそれに恐怖を感じるのも当然のことで。だからそんな訂正はしない。
俺が少年向け近づくと、一人の老人が少年と俺の間に、遮るように入る。
……。
怯えながらも強い光を盛った瞳。そんな老人を前に、一歩横に踏み出して。
「風船ってのはいいもんだよな。今取ってやるから、ちょっと待ってろ」
それだけ言ってみぃちゃんと風船お引っかかった木の方を向く。
改めて見上げるとちょっと高いな……。
「みぃちゃん。あの風船。木が当たらないところまで弾き出せる?」
「……? 普通に紐引っ張っちゃだめですか?」
「ん、多分それだと破けちゃうかもしれんし」
「まあ、多分せんぱいとならできますけど……。で、その後はどうするんです?」
「その後は俺が紐を引っ張ればいいだけだ」
「ん? それなら……ああ、なるほど」
異常性を使ってその後は俺が紐を引っ張る。それが出来るなら始めからそれだけでやればいいんじゃないかと思った様子のみぃちゃんも、だけれどそれがダメなことには気が付いたようだし。
俺がそうする場合、必要なのは風船を引っ張ったときの軌道上に生えている枝たちを避けることだが、それにはちょっとばかし多量の血液が必要になる。
さすがに一般人の前で大量出血するわけにもいかんでしょ。
誰にも見えない様にポケットの中で、ライターの隠し刃で指先を傷つけ、異常を発動させる。
発動時に目が光るのは抗いようもなく、だから片目だけが赤く光る俺の目を見て、周りの大人たちは怯えを、警戒を一層に増す。
そんなに警戒しなくてもいい、なんて。
俺以外であれば大いに警戒してもらいたいのでやはりそんなことは言わないけれど。
傷つけていない右の手のひらを天に向け、みぃちゃんに目配せをする。みぃちゃんも何をやるかはわかっているようで、左手でスカートを抑えながら俺を見返す。
ああ、そういやスカートだったね。ごめん。
「……注意して見ないでくださいよ?」
チラ見ならいいのかよ……。
俺とみぃちゃんを見て、期待を寄せるのは少年だけ。他は皆、一様にいぶかしむような表情をしている。……それでいいんだよ。だから少年。お前だけはちゃんと見とけよ? 六歳に満たないであろう少年の目は、やはり黒で。だからこそ、今の内から異常者に対する過剰な感情は持ってほしくないからな。
みぃちゃんは、ちょっとした準備運動なのか、深呼吸をしながら同時にぴょんぴょん跳ねる。……器用だな。俺にもそんなことはできねぇぜ。
「一番、山桜みのり。行きます!」
右手を天に掲げ。
体操選手かよと突っ込む暇もくれずに彼女は走り出した。
ダッと、一歩で距離をつめ、助走を終え、俺の手のひらの上に乗り。
彼女がそれを蹴るタイミングを見計らって俺も手を振り上げ。
そして彼女が跳び上がる。
手で押さえていようと、跳び上がった彼女のスカートは放射状に広がって、腕一本で防げるわけもなく、薄い緑の横縞が……
っと、そっちじゃねぇ。俺が注視すべきは横縞ではない。横縞だけに邪な考えは放り投げ、彼女が跳んだ先の風船に目を向ける。
飛び上がり、かつ手を伸ばした高さはちょうど風船に届き、彼女はそれを、バレーボールのアタックの要領で、それでいて優しく枝から離す。
ヘリウムは物理法則に則って、加速的に高度を増す。終末速度、という表現が空へ上る物体にも適用されるのかは知らないが、ともかくそんな感じで。
それを見て、また顔をゆがめる少年。
だから、大丈夫だっての。
俺はポケットから隠し続けた左手を出し、天に掲げる。
そこから延びるのは、髪の毛ほどの太さを持った糸。それの伸びる速度はやがて風船の速度に追いつき、追い越し。そして風船の紐を捉えた。
あとは血液を体に戻すだけだ。ゆっくりと降りてくる風船を見ながら、地に降り立ったエンジェル、いや、みぃちゃんに目を向ける。お互い親指を立てるポーズで、健闘を称えあって、そしてついに俺の手に降り立つ風船を手に取った。
その後ズボンのポケットから取り出すのは財布。おい、俺の一挙一動に警戒するなよ……。見られてると調子狂うっつの。
財布を開くと、またも増す警戒の色。
……ああ、確かに。こんなに札束が入った財布を見ればそうなるわな。
ともかく、財布から五円玉を取り出した俺は風船の紐に括り付け、少年に渡した。
「ほら……ガキ。もう手を離しても大丈夫だから、泣き止め」
言って、風船を手から離す。括り付けられた五円玉の重みで地面に降り立つそれを少年は目をキラキラさせながら見て、そして一歩近づこうとした少年。だがそれは母親に抑えられる。
……そうだな。今更そんなこと、俺は気にしねぇよ。俺は気にしねぇが、みぃちゃんの前であんまりそういう態度を取られると。まあ、少しばかり悪感情を抱いてしまうけれど。
ともかく、俺は持ちなおした風船の紐を、少年に向け差し出し、そして少年はそれを受け取る。
受け取った少年は顔で喜びを表し、ありがとう、と。元気よく告げた。
……世間ずれしていないっていうのはこんなにも眩しかったか。
そんなことを思いながらも、俺は表情を変えない。どころか睨みつけているまである。
……ガキ。道端の異常者をそんな目で見ちゃいけないぜ? もしかしたら、死んでるかもしれねぇんだからよ。
その後は何も言わずに、立ち去った。
「せんぱい。優しいですね」
「ばーか。泣き声がうるさかっただけだっつの」
そんなやり取りをしながら、大きく煙を吸う。
元のベンチに戻り、しかしそろそろ場所を変えようと思うも、今だあの親子と老人は場所を変えていなかった。何やら話をしているようだが標準的な大きさの声はこの位置まで届かず。
……格好つけて立ち去った手前、すぐに席を立つのがはばかられる。そんな俺の小っちゃいプライドは俺を変わらずベンチへと押し付けていた。
「せんぱい。優しいですね」
「何? そのくだりまたやるの?」
彼女は微笑んで、言う。
「違いますよ。あの母親が子供を止めた時。一瞬凄い殺気が飛んでた奴のことです」
「いや、覚えてねぇけど」
みぃちゃんの言葉を流しながら、短くなった煙草を携帯灰皿に押し込む。ベンチに置きっぱなしだったココアに口をつけて。
居心地が少しだけ悪くなって。むずがゆくなって。
結局プライドを捨てて立ち上がることにした。
「移動ですか?」
「ああ、カフェにでも行こう。……デートだからな」
「むぅ……デートで別の女のところに行くってどうなんですか」
別の女っていうなよ。そう言われないようにデートって言ったのにさ。
この子は案外ちょろくはない様だ。