いつものカフェで普段通りに
朝8時10分。
行きつけのカフェに着いた僕は、いつものように先に席にリュックを下ろし、財布だけを外ポケットから取り出し、レジに向かう。
このカフェに通い始めてから1年が過ぎ、すっかり常連さんの一員となった僕は、いつものアイスコーヒーに、言わずともミルクだけが添えられる。
店員さんに一礼し、座席までの道の途中で灰皿を手に取り、ジーパンの右バックポケットにあるハンカチをテーブルに敷き、グラスと灰皿を置く。
グラスにできる水滴がテーブルに滴ってしまうのが嫌で始めた行為なのだが、以前隣に腰かけたご婦人から、「若いのに偉いね」と言われたことがある。
そこに若さは関係無いだろ、と思ったことはまあどうでもいいとして。
偉くないのだ、そんな行為に偉さなんてあるはずがない。
行為であって好意ではない。
自分が嫌だからしたものなので、自己中心的な行動なのだ。
口に出してしまいそうになったが、お隣のご婦人は笑顔であった。
好意で言うのをやめた。
それこそが偉いのだ。
ご婦人の顔を思い出しながら、リュックを置いた席とは反対側に着く。
気温が上がりきる前の時間だからといっても、夏の日差しには変わりなく暑い。
リュックの外ポケットに財布を戻し、流れで煙草とライターを取り出す。
箱から1本抜き、風も無いのに手でライターを覆い、先端に火を点ける。
しっかりと煙を肺に入れ、意味もなく時間をかけて、口から煙を天井に吐き出す。
口いっぱいに広がるメンソールは、高校時代に好きだったクールミントガムを思い出す。
ここからおおよそ40分、電車の1限登校ラッシュが終わるまで、思い思いに時間を潰す。
普段なら携帯をいじったり、レポートをしたり、小説を読んだりしているのだが、今日は他にやることがある。
携帯を開き、メッセージアプリを起動すると、昨晩送信を諦めた文が残っていた。
「今度の日曜日に、花火を観に行きませんか?」
画面に表示されて、思わず吹き出してしまうほどのお堅いお誘いだ。
昨日は勇気が出なかった。
だから、今日カフェで送る。
夜、家にいては、不安ともどかしさと、色々な要素で押しつぶされそうになる。
カフェでは大丈夫。
アイスコーヒーも煙草も小説も、頼めばケーキだってある。
心強い。
普段は40分かけ、ちびちび飲むアイスコーヒーを、今日は一気に半分、ストローで流し込んだ。
フィルター近くなった煙草を、灰皿に押し付けると同時に、僕はメッセージを送信した。
今は8時20分。
カフェを出るまで、あと30分。
朝10時30分までアイスコーヒーが安くなる、この全国チェーンのカフェに、誰かと一緒に来たことはない。
もちろん、花火に誘った君を連れてきたこともない。
君と出会ったのは、たった3か月前。
煙草を吸わない君を、カフェに誘うのは申し訳なさ過ぎた。
僕より3つも年下の君は、まだお酒が飲めない年齢だ。
もちろん、煙草もそうだけど。
3つ下は僕の妹よりも年下だし、高校も入れ違いなので、普通に生きていたら接点なんてないのだ。
大学って素晴らしいな。
そんな妹より妹な君は、少しばかり背が大きい。
女の子グループにいれば、頭一つ飛び出てるし、男の平均身長より若干大きいはずだ。
だけど僕より小さい君は、僕からしたらか弱い女の子だった。
女の子と花火を観るのが、僕のささやかな夢だった。
そして、君と出会った。
背の大きい君に、絶対浴衣は似合うと思った。
だから、君を誘った。
それだけだ。
今は8時30分。
カフェを出るまで、あと20分。
僕が煙草を始めたきっかけは、男友達に似合うと言われたからだ。
他にもギターやバイクなんかも言われた。
たぶん、見た目がちょっといかついからだと思う。
だけど、僕は真面目な人間だった。
授業もちゃんと出席する、単位も取る、集合時間の30前には着く、両親に誕生日プレゼントだってあげる。
そんな真面目な僕に、彼女はいなかった。
もちろん、仲の良い女の子はそれなりにいるけど、みんな僕よりどうしようもない彼氏がいた。
君は、そんな子たちとは違うよね。
真面目な僕は、今日2本目の煙草に火を点ける。
SNSを更新して、みんなの近況に変化がないことを確認する。
大学生は朝に弱い、普通はね。
真面目な僕は、日付が変わる前に寝て、5時前には起きる。
目が覚めてSNSを更新すると、みんなの出来事が滝のように、たくさん流れてくる。
真夜中に活動して、朝起きれなくて、授業に行かず単位を落とす。
そんなしょうもないやつと付き合っている女の子も、総じてしょうもない。
それでもって、いざお別れすると、男運がなかったとか言い出す。
くだらない、自分で選んでおいて。
君はしっかりと選べるよね、ちゃんとしてる男を。
煙が出なくなるまで、煙草を灰皿に押し付ける。
君からの返事は、まだない。
ああ、そろそろカフェを出る時間だ。
カフェでなければ、どんな返事だって、きっと僕は耐えられない。
今は8時40分。
カフェを出るまで、あと10分。
いくら心強いカフェにいたとしても、この時間に次第に耐えられなくなり、3本目の煙草に火を点ける。
普段の40分では2本で丁度よいので、さすがにぼんやりとしてくる。
煙草を吸いたくなるのは、食後と、お酒を飲んだときと、ひと段落したいときと、緊張しているとき。
僕は朝ご飯をいつも食べないし、今はお酒も飲んでない。
カフェでくつろいでいるから、ひと段落するほどでもないし、緊張なんてもちろんしていない、たぶん。
君を花火に誘ったのは、ただの行為であって、好意ではない。
緊張なんて、するはずがない。
氷が溶け、若干薄まったアイスコーヒーを、一口ぶん残すまで飲む。
最後の一口は、席を立つときと決めている。
吸い終えた煙草を灰皿に落として、お店を出る前にお手洗いに行くことにした。
普段はそんなことはしないが、携帯をテーブルの上に置いていくことにした。
時代がまだ2つ折り携帯だったころ、僕らはメッセージアプリではなく、メールでやり取りをしていた。
今思えば、メールはだいぶ不便で、たった一言送るだけでも、多くの時間を要した。
メールが届くと、自分で設定した着信音で教えてくれて、ランプが点灯する。
特別な人の着信音とランプの色を、よく変えたものだ。
メールを送信した後、一定時間放置して、ランプの灯りの有無に一喜一憂したものだ。
それをふと思い出し、やってみたくなった。
僕がまだ若かったときに、大切にしていた人がいたときに、夜に意味もなく電話していたときに、傷つけてお別れしたときにしていたように、返事を待つことにした。
今は8時45分。
左手に付けている腕時計は、8時50分を示している。
世界でもトップレベルの技術を誇る、国産メーカーのものなので、誤差はない。
用を済ませ、席に戻っていた僕は、携帯をまだ見ていなかった。
出るか。
携帯を手に取り、画面を開かずに、ジーパンの左ポケットに入れた。
腰を上げ、立ったまま残りのアイスコーヒーを飲み干す。
リュックを背負い、灰皿を手に取り、グラスとともに返却口に持っていく。
使ったミルクとストローを、返却口下のごみ箱に入れ、席に戻りハンカチを畳んで、普段の右バックポケットにしまう。
歩いている間、僕は携帯の振動に気づくことができない。
返事はもうきているかもしれない。
心強いカフェを出たら、僕はもうひとり。
さあ、いつでもこい。
今は8時55分。
普段より5分長居した。
いつもより少し長くカフェにいた僕は、いつも乗る電車が去った後のホームにいた。
この時間は通勤、通学ラッシュも終わり、時間にだらしない学生か、老後を楽しむ人たちしかいない。
そのどちらでもない僕は、何をするわけでもなく、ぼんやりとしていた。
普段はSNSを開いたりして、時間を潰しているのだが、今日に限っては見ることができない。
決心がつかないままでいた。
聴こえればいいといった理由で買った、安いイヤフォンから聴きなれないイントロが流れる。
ランダムシャッフルで音楽を聴いているので、あまり聴かない、好きでもない曲が流れることは多い。
飛ばすか。
慣れた手つきで、ジーパンのポケットから取り出し、画面に灯りをともす。
「あ」
不意に見てしまった携帯。
君からの返事がきていた。