3
三十歳になっていた。さすらいの旅人グレンはロキの戦いぶりを遠い丘の頂から見物していた。
あの蜘蛛を殺した時などは、信じられないような手並だった事は確かだ。
このままロクサネ軍は風の国のリノアを慕っていた者達を吸収し、砦の包囲に持ち込むに違いない。
ロキ。彼が間違いなくこの世界の勇者だろう。神を名乗る光の国の当主より、ドラゴンを操るロクサネよりグレンの目にはそう映った。
剣か。自分が扱う魔法とは対照的なそれは、時に大事なものを守る力になる。
自分の魔法は、魔女フィーネから学んだ。水魔法を独自の試みで氷魔法へと進化させた頃には「教える事は何も無い」とまで言われた。そして現在はこの世界を旅するに至っている。いずれはフィーネから譲り受けたこの「グインロッド」で異世界の扉すら開けてみせる。それが冒険者グレンの真の目的だった。
背後に魔王ヘラがいた。一瞬仰け反りそうになるのを何とか耐え、「何しに来た?」と言った。
「お前こそ闇の国で何をしていた?一年間もフィーネに師事し、我が国に執着心でも芽生えなかったか?」
「私は……」
私は消えた妻を探していただけだ。その面影が闇の国の至るところに設置されてある石碑に見受けられた。
「フン……まあいい。我が軍の副指揮官にならないか?フィーネでは荷が重すぎるのでな……」
断る。私は悪魔には仕えない。何も言わなかったが、目がそれを表していた。
「……では此処で死んでもらう。魔王の申し出に答えなかった罰だ」
ヘラは武器を必要としない。その卓越した武術を駆使し、素手で戦う。
命の危険を感じたグレンは氷魔法ブリザードを手の平から発射した。
氷の礫が、次々と魔王ヘラに襲いかかる。
「効かぬわ!」
とそれでも間合いを詰め、グレンは首根っこを掴まれるに至った。万事休すである。
「言い残す事はあるか?グレンよ」
懐からグインロッドを取り出したグレンは力任せにそれを振るう。その時だった。
銀色のゲート。高さ三メートルのそれはヘラを飲み込んだ。ギギギ……とそれは閉まる。
どういうわけか助かったようだ。だがこうしてはいられない。扉の先の世界では魔王ヘラが待機している。
「あの姉弟の力を借りねば」
グレンはロクサネ陣営に足を運ぶ決意をした。信じてもらえるか分からないが、此処は想像世界なのだ。
「私はグレンという名のも旅の者だ。ロクサネ様に用があって参った」
通された。待機していたのはロクサネにリノア、そして手負いの黒人だった。流れ矢にでも当たったのだろう。酷く出血している。
「何でしょうか」
ハッとする程の美貌だが、何処かで見たような面影があった。だが妻には似ていない。少なくとも今のグレンにはそう映った。
「私は貴方とロキ殿の力を欲している者だ。この戦いが終結したら、一緒に来てもらいたい」
おや?という顔をしているが、直ぐに顔色を改め、
「困ります。何処かの国のスパイではないかもしれませんか」
私もそう思う、とリノアが言っているのが聞こえた。
「信じてくれ、私はあなた方の敵ではない」
平伏した。もはや自身の誇りなどとうに捨てている。この世界で生き延びるにはこうしてくるしかなかった。
「分かりました。暫く我が陣営に居なさい」
「ロクサネ!」
リノアが驚いた声を上げるが、ロクサネの決意は変わらなかったようだ。澄んだ目をしている。
「顔を上げてください、グレンさん。私は天下万民に尽くす者。この方もその一人ではありませんか。それに……」
何処かで見た事がある、とロクサネは言わなかった。
だが通じ合える何かが其処にはある気がした。
*****
モルバが、毒矢に当たって死んだとの情報が流れてきた。姉ロクサネを庇っての事だろう。だが戦いは大詰め。ラファレアスを失った鳥人達は完全に砦に引き篭もっている。恐らくは東からの援軍待ちだろう。
翌朝。シエンをアンガスの首と共に返すので引き下がれとの内容の文書が送られてきた。敵は、思っていたより追い詰められていたのだ。リノアなどは一切応じたくないだろうが、ここは応じるべきだった。
「よいではないか。モルバを失った今、敵は暗殺に力を入れるに違いない。手を打たれる前に退散しよう」
ロクサネも自分の意見に賛成だった。これで友の身は救われる。
牢獄に幽閉されていたシエンは足を悪くし、車椅子での移動を余儀なくされたのだが、その顔には笑顔が見られた。
翌朝、リノアが去った。モルバの死と言い、火の国は人が少なくなった。
冬から始まった戦いは二月ほどで引き分けに終わった。
「大変です!闇の国の魔王ヘラが姿を消しました!闇の国はこの上なく混乱している模様」
火の国にとっては好都合だった。それにしてもこの世界の情勢はここ数ヶ月で激変した。唯一穏やかなのが水の国だが、どうやら地の国を攻める姿勢を見せている。
「レオンをロクサネ様の新たな護衛にすべきです。私を信じてください」
シエンの言葉だった。生まれつき、人を見る目があるようで、ロクサネもそれには賛成だった。
ロキは車椅子のシエン共に城下町を視察する事にした。
メルヘルツ改めゼラートは種族間の差別がない、平和な場所だった。
「ロキ殿、元気そうで何よりだ。酒場で一杯いかがかな?」
グレン。知っている。先日姉の元を訪れていた旅の者だ。話を聞いてやってほしいと姉ロクサネからは聞いていたので、二つ返事で承諾した。
シエンも付いてきている。車椅子椅子を押す者は常に二人付いていた。護衛も兼ねてである。
「この世界とは別にもう一つ、人間たちが暮らす世界がある。それはそれは平和な世界だ。其処に魔王ヘラを送り込んでしまった。頼む、一緒に魔王を倒してくれ」
にわかに信じられない話だった。だがシエンは真顔である。
「これをどう受け取れと?仮にその世界で殺戮があったとしても我々には関係ない事ではないか」
「いえ、そうとは限りません。それにその世界との交流を上手く図れば天下統一に大きく近づくかもしれません。魔王を倒し、恩を売っておいても損はないでしょう」
シエンの言葉にも驚かずにはいられなかった。この男は異世界があると本気で信じているのか。
「私はこの通り車椅子で動けますまい。どうです?ロクサネ様とロキ殿で異世界の視察に向かわれては」
「三人だけではちと心細いな。レオンも連れ行くか?」
「その方が良いでしょう。元々ロクサネ様の護衛ですし」
話は纏まった。酒に付き合うつもりが、とんでもないものに巻き込まれた。だが後悔をするつもりはない。
ロクサネとレオンを呼んだ。町の外れの小さな庭で、ゲートを出現させる儀式は執り行われた。
「ロクサネ様、火の国の事はこのシエンにお任せください。光の国に同盟の使者を送り、万事を生き抜いてみせます」
フランがおいおい泣きだす。
銀色のゲート。潜れば異世界が待っている。ロキは大きく息を吐き、その一歩を踏み出した。
*****
レオンはゲートを潜るや否や、辺りを見回した。大都会。少なくとも今まで体験してきた世界とは明らかに異質である。
「何だ此処は」
言ったところで始まらなかった。取り敢えず四人でヘラを捜すしかない。
「レオン、落ち着きましょう。ここはドラゴンに乗って空から敵を探せば大丈夫」
ロクサネはまるで子猫でも扱うかのように言った。
それにしても見るものは自分に脅え、逃げ出していく。この世界では獣人は差別の対象なのか。はたまた存在しないのか。
『この謎の悪魔が現れたから、早一ヶ月、戦闘機を駆使しても全く歯が立ちません』
町の液晶画面にヘラの姿が映し出されていた。あれがヘラか?と最初は疑ったが、ロクサネは首を横に振った。
「この世界の文明は恐ろしく発達しているようだな」
ロキの言葉を他所に、ロクサネはドラゴンを召喚した。確かに上空からなら、何か分かるかもしれない。
遠方での爆発音。それを赤き竜は逃さなかった。叫び声を上げ、その方向へ飛んでゆく。
下で「何だあれは」と人々が動揺しているのが聞こえた。
ヘラ。掌から念力を放ち、上空から町を破壊しているところだった。
グレンが口を開いた。
「町を破壊するのをやめろ、魔王。そこまでして人間の魂が欲しいか」
「フン……誰かと思えばグレンか。魂は既に吸い取った。気晴らしに壊しているだけだ」
(吸い取られた魂をヘラから遠ざけるのには奴を殺すしかない。此処は地上戦に持ち込もう)
グレンが耳打ちしてくるのが聞こえた。
「降りろ、ヘラ。それとも俺の剣が怖いのか?」
「如何にロキといえ、この魔王から見れば赤子同然、いいだろう。降りて始末してやる」
レオンは一連の会話を無言で聞いていた。この方天戟が唸っている。一度は仕える身となったヘラ相手だが、差し違える覚悟は出来ている。何故なら自分は一度死んだ身だからだ。
焼け野原となった町に降り立った。ロキは既に剣を抜いている。
「ロクサネ様は下がっていてください。このレオン、華々しく散ってみせます」
「そんな」
駆け出していた。ロキも遅れじとそれに続く。
ヘラの拳。一瞬消えたかと思いきや、次の瞬間には己の腹を捉えていた。あまりの衝撃に口の中で血の味がした。
「フン!」
そして念力。嵐と比喩するのが相応しいそれは、ロキの胴体に直撃した。後方に押し戻され、地面を転げ回ったロキは気を失ったようだった。
「レオン、逃げて!」
ドラゴンの炎。ヘラに直撃したが、通じない。万事休すである。グレンはロクサネの前に立ち塞がるが、このままでは二人の死は免れない。
ロクサネを死なせてたまるか。レオンは背後から方天戟を突き刺した。不意をつかへたヘラの口から黒い血のようなものが流れ落ちる。
「覇!」
斬った。ロキに敵わなかった自分が、あの魔王ヘラを倒したのだ。悪魔は愛ある攻撃に弱い。それをレオンは知らなかったが、偶然にも彼を倒す事に成功した。戦いは終わった。
「おお……」
グレンはまだ何が起きたかはっきりとは把握していない様子だった。ロクサネが歓喜の声を上げる。
「戻ろう。シエンが待っている」
とレオンは気を失っているロキを抱え上げた。
「あ、ああ……」
とグインロッドで銀のゲートを出現させるグレン。ようやく彼の顔にも笑顔が見られた。
勝った。自分の懐にロクサネが飛び込んでくる。
ロクサネに左肩に手を置かれ、ロキを右肩に抱えながらレオンはゲートを潜った。
ゲートを出て、レオンたちは首を傾げる。てっきり火の国に出るとばかり思っていたからである。
これが後のミルナ島。あのナオミが名を馳せる島である。
*****
気がついた時、ロキは砂地の神殿の前に立っていた。
「やっと気が付いたか」とレオン。ロクサネは傍で火の番をしているが、グレンの姿はない。
「私はこの神殿でレオンとひっそりと暮らす事に決めたの。でもロキの夢は天下統一。この島のエルフたちを駆逐して、王朝を建ててくれるって信じてる」
「エルフたち?」
「そう。リノアがこの島に来たみたい。でもロキなら彼女に勝てるはず……」
聞けばエルフたち北の方に住んでいる事が分かった。
ならば南で力を蓄えるまでだ。
「だが、シエン殿は?」
「上手く連絡が取れない。それに此処の人、サルデア人っていうそうよ」
ロキは大きく息を吐いた。何と既にドラゴンとの契約を解除し、自由にしているそうで、姉ロクサネの意思は固そうだった。
「分かった。これ以上は何も言うまい」
南へ移動すると古びた城があった。サルデア城。ゼラートの城に比べると小さかったが、見てくれは悪くなかった。城下町でリノアに遭遇した。
「何しに来た?此処は我々エルフの楽園だ。帰ってもらおう」
リノアは澄んだような蒼い眼をしていた。
だが関係ない。彼女を今此処で殺せば政権は我らのものだ。
剣を、抜いた。リノアは困惑している。それでも大薙刀で迎え撃ってきた。
「お前は俺に勝てまい。それはお前が一番分かっている事だ」
盾で防ぎ、そのまま右上に飛び上がった。剣。首元を捉えていた。
「私ロキ・レノンはこの城に王朝を築く。従いたい人間はついて来い」
ロキの信じられないような手並を見て、一人、二人と集まってくる。始まった。先ずは王朝建設に奴隷が必要だった。ロクサネの意思には反するが、今は仕方がない。ならばあのエルフたちを奴隷とする。
「此処から更に南ではサタンという名の悪魔が悪さをしているようです。いかが致しましょう?」
全く悪魔は何処にでもいる。それでもロキは顔色を変えなかった。
「南に対し防備を固めろ」
サルデア暦元年。ロキは王朝を建設した。
*****
水の国が攻め入ると同時に、火の国も北の地の国に攻め入った。結果地の国は山分けとなり、金山も両国のものとなった。力をつけた火の国はテルミナ帝国を名乗り、光の国、水の国との三国同盟を締結する事に成功した。乱世は収束に向かっている。
「シエン様」
今や将軍の地位に上り詰めたフランが片膝をついて言った。
「光の国のエルメスが遂に最上級魔法を会得したと。放てば一国を滅ぼす威力だそうです」
「放つとしたら闇の国へだろう。慌てる事はない」
エルメス。あの道化師のような姿をした魔導師か。
自分は上級魔法までしか使えない。魔女フィーネなど中級魔法までしか使えないという噂だ。
「技名を『大滅破』というそうです。念のため」
シエンはゼラートの城下町を見渡した。金山の収入あってか町はこれまでに無いほどの賑わいを見せている。
これで良かったのだ。ロクサネ様とロキ殿を失ったが、平和は実現した。
「レオン将軍に会いたいものだ」
ふとフランが口にした。確かに彼も優秀だった。
「ヘラ相手では如何に彼と言えど……気持ちは察するが」
車椅子に腰掛けたシエンは扇子を仰いだ。頭に血が上り過ぎるのを防ぐためだが、それを人に教えた事はない。
「おや」
竜が舞っていた。ロクサネは何処かで無事だったのか。こみ上げてくる感情を爆発させたのはフランである。
咆哮。レオンを真似たものだったが、些か弱すぎた。それでも嬉しいのはシエンも同じだった。