5. 先生の、愛
その日は久しぶりに泣いた。涙が枯れるまで泣いた。泣きすぎて、その後の自分の顔のひどさに少し笑った。こんな顔じゃ、先生にも会えないなと思って、また悲しくて泣いた。
結局、先生がなぜあんなことをしたのか、その後で、なぜ忘れてほしいなんて言ったのか。頬に触れたのは、先生がただ何となく行ったことで、責任感の強い先生のことだから、それを悔いてなかったことにしようとしたのだろうか。様々なパターンを考えたものの、どの解答も釈然とせず、結局はわからないままだった。先生に聞きたくても、今の状態では会うことすらままならない。これ以上何か言われたら、立ち直る自信がない。
あれから、増田先生の講義に出席してはいたものの、話すことは全くなかった。心なしか、先生も少し疲弊したように見えた。あんなことを言われても、先生のことを心配してしまうのは、惚れた弱みというものなのだろうか。
それでも、テスト勉強はきちんとやった。先生に認めてもらいたかったのが、一番の理由だったかも知れない。テストで満点が取れれば、先生とまた話せるかも知れない。そんな愚かなことまで考えた。恋は盲目とはよく言ったものだ。
明日、数学のテストがある。それが終われば前期が終わり、同時に増田先生の講義も終了ということになる。つまり、先生とちゃんと会えるのも、明日が最後ということだ。
これで、私の恋は終わる。そう、思っていた。
次の日、相変わらず調子の悪そうな先生だったが、テストは予定通り行われた。講義だけは真面目に聞いていたから、どの問題も簡単に解くことができた。
残り時間はあと十分。最後の問題に取り掛かったときだった。私は、その問題を見て、心が震えるのがわかった。それは、いつか先生が私に教えてくれたことだった。忘れるわけない。先生の言葉、全てをーー。
テストが終わっても、私はしばらくその場から動くことができなかった。
なんで、先生はあんな問題を出したのだろう。なんで、私に期待させるようなことをするのだろう。
少し泣いた後、私は決心した。今こそ、先生の言っていたことを実行するときなのだと思った。
溢れる涙を拭いながら向かったのは、増田先生の研究室だった。何度か深呼吸をして、扉をノックする。はい、と短い返事があった。扉を開け中に入ると、先生は驚いたように目を見開いた。そして、安心したように少し目を細めた。
「先生、なんで……」
言いながらも、涙が溢れてくる。
「ごめんね。渡辺さんを、傷つけるつもりはなかった。でも、自分でも、なんであんなことをしたのか、わからなかった」
先生は椅子から立ち上がると、私をソファに座らせた。
「先生は、ずるいです。私が先生を好きなこと、気づいてたんでしょう。それで、私の反応を見て、楽しんでたんですか」
「そうじゃないよ」
先生は私の向かいに腰を下ろすと、静かに話し始めた。
「あのとき、君に触れたのは、僕がそうしたかったから。愛おしいと思ったからだよ」
先生のストレートな言葉に、思わず赤面してしまう。
「でも、忘れてほしいって……」
「それは、渡辺さんの将来を考えて言ったんだ……。エゴかも知れないけど、僕達教員には、君たち学生を見守り、成長の手助けをする義務がある。それを、自分の手で壊してはいけないと思ったから。でもーーそうしたくないと思う自分もいた。渡辺さんが、僕のことを忘れて、他の人を好きになることを考えたら、つらくなった。だから、君を引きとめようとしてしまった」
「ほんとうに、自分勝手です」
「そうだよね……。あんなことしておいて、忘れろだなんて、ひどいことを言ってしまった。本当に、ごめん」
先生が、今にも泣きそうな顔で謝った。先生のそんな表情は見たことがなくて、多分、他のどの学生も見たことがないんだと思うと、少し優越感に浸れた。
「じゃあ、あの問題は?」
私がそう問いかけると、先生は机の上から一枚の紙を持ってきた。
「まさか、完璧な解答がこの世に存在するなんて思わなかった。このテストが終われば、諦めようと思っていた。でも、君の解答を見て、それもできなくなった」
私は先生の言っていることが理解できず、ただ首を傾げた。先生は小さな笑みを浮かべると、その紙を愛おしそうに眺めた。
「あと四年、待つよ」
「え?」
「君が卒業するまで、僕は待っている」
「それって、どういう……」
先生は私に、手に持っていた紙を見せた。それは、私の解答用紙だった。
「こういうこと」
それは、私の答えだった。それは、まぎれもなく、私が自分で導き出した答えだった。
「数学と人生とは、何でしょうか」
「ーーそこには、愛がありました」