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4. 先生の、嘘

 あれから、放課後講座には顔を出さなくなってしまった。先生に会うのも気まずいし、今は一人で考えたいというのが一番だった。ただ、数学の講義だけは受けないわけにはいかず、その時はなるべく先生と普通に接するよう心がけた。


 一度、講義の終わりに、先生からなぜ放課後講座に来なくなったのか聞かれたが、アルバイトを始めたのだと嘘をついた。先生は釈然としない様子だったが、それなら仕方ないと納得したようだった。

 そんなことで先生に嘘をついてしまうなんて、こんな自分が嫌になった。もともと、引っ込み思案で消極的だった私だが、先生を好きになったことで、いろいろなことに挑戦してみたいという気持ちになっていた。先生に釣り合う女性になるためにも、積極的に世の中を知っていこうと思っていた。


 でも……先生にふられてしまうとわかっていながら、そのモチベーションを維持するのは、今の私にとって非常に難しいことだった。それならばいっそ、諦めてしまうほうが楽だと思った。

 前までは、あんなに意気込んでいたのに。先生が私だけに優しいわけではないのだと気づいた途端、どうしようもなく虚しい気持ちになった。


 叶うことのない恋。それがどんなにつらいことか、私は今身をもって体験しているのだった。




 その日はとある講義の片付けを頼まれてしまって、学校を出たのはもう八時を回っていた。明るくなってきたとはいえ、八時ともなれば辺りは真っ暗になる。こんな時間に帰宅することは今までなかったものだから、少し不安な気持ちを抱きつつも、急いで校門を出た。

 出てすぐの交差点で信号待ちをしていると、後ろから声をかけられ、飛び上がるほど驚いてしまった。それは相手にも伝わったようで、ごめんね、と謝りながらも心配そうに私の顔を覗き込んでいた。


「増田先生……」


 今一番会いたくない人に、こんなところで会ってしまうなんて。


「最近は、図書館にも来ていないみたいだね」


 信号が青になったので、歩きながら先生が聞いてきた。その質問に、私の心臓はどくりと嫌な音を立てる。


「アルバイトが……忙しくて」

「そうか」


 ふと、先生は、私の嘘を見抜いているのではないかと思った。直感だが、その時確かにそう感じた。


「あ、あの、先生は、どちらに」

「ああ、僕もこれから帰宅するところだよ。帰り道、こっちなんだ」

「そう、ですか」


 なんだか気まずい。


 無言のまま、私達は小さな橋を渡っていた。下に流れる川の水面には、月明かりがぼんやりと浮かんでいる。私の心も、今こんな感じなんだろうなと思った。


「先生は……なぜ、数学を、学ぼうと思ったんですか」


 沈黙に耐え切れず、私は聞いた。


「最初は、ただ得意だったから、なんとなくその道に進もうかと思っていた。でも、次第に、数学にはその過程が重要なんだと気づいたんだ」

「過程?」


 先生は街灯に照らされた横顔を少し緩めると、


「数学の過程は人生と似ている。あれこれ悩んだり、たまには違う道を進んでみたり。正しい答えにたどり着かないことだってある。ただ、正解に行き着くことだけが全てではないって、わかるよね」


 私は小さく頷いた。


「どうやって歩んだか。そこから何を学んだか。それが、一番大切なことだと思うんだ。数学だって、人生だって。だから……」


 先生が急に立ち止まった。辺りが暗くて、先生が今どんな表情をしているのかわからない。

 すると、先生の手が、ゆっくりと私のほうへ向かってきた。その手は優しく私の髪をかき分け、そっと、頬に触れたのだった。


 ……わからない。どうして、先生がこんなことをしているのか。まるで私達の間だけ、時間が止まったようだ。

 先生の少し冷たい指先が、私の熱い頬をゆっくりと撫でる。それはまるで、愛おしいものを、壊さないよう注意しながら触れるようなーー。


「先生?」


 私の声で、先生はふと我に返ったように手を戻した。その表情は、未だに見えない。


「じゃあ、僕はここで。また」


 先生はそれだけ言うと、足早にその場を立ち去った。


 今のはーーなに?

 先生は、どういう気持ちで、あんなことをしたのーー?


 私の頭の中は真っ白だった。ただひとつわかることは、先生に触れられた部分だけが、今も熱をもって離さないことだったーー。




 そんなことがあったからか、次の数学の講義はギリギリまで行くかどうか迷っていた。先生と会うのは気まずい。だが、講義を休むのはまた別問題でもある。散々悩んだ挙句、校門の前であっさりと友達に見つかってしまい、結局行くことになってしまった。


 教室に入ると、もうすでに先生の姿があった。私はなるべく意識しないよう席に着いたのだが、やはり気になって先生のほうを盗み見てしまった。

 しかし先生は、まるであんなことなんてなかったかのように、いつも通りに学生と接していた。私は、ほっとしたような、がっかりしたような、なんとも言えない気持ちになった。


 先生にとっては、あれくらいのこと、蚊に刺されたくらいにしか思っていないのかも知れない。それなら、それでいい。私も気にしないようにしよう。

 そうは思っても、心の中のもやもやした気持ちが消えることはなく、むしろそれは怒りさえも呼び寄せるまでに成長してしまっていた。


「じゃあ、今日はここまで」


 先生の一言で講義が終わると、学生たちは足早に教室を出て行った。


「芳乃、どうしたの? 行かないの?」

「真希ちゃん、ごめんね、先行ってて」


 友達が教室を出て行くと、先生と二人きりになった。

 私はうるさい心臓を押さえると、先生のもとへ歩いて行った。


「先生、あの、この間のこと……あれって、どういうことですか」


 私がそう言うと、先生はきまり悪そうな顔でしばらく黙っていた。そして、ようやく口を開いた先生が発した言葉は、私にとってはあまりにも衝撃的で、そして何よりつらいものだった。


「あの日のことは、忘れてほしい」

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