3. 先生の、残酷さ
「ここでいいのかな……」
数日後、私は先生に誘われた放課後の講座に来ていた。
このような講座が開かれていたことは知っていたのだが、普段の講義の忙しさから、なかなか足を運べていなかったのだ。だが、増田先生に誘われては、断ることはできない。
先生と会うこともできる上に、数学の知識も増えるということは、まさしく一石二鳥である。
「渡辺さん、来てくれたんだ」
私が教室の前で入るのをためらっていると、後ろから先生が声をかけてきた。
「はい……あの」
「席は自由だから。参加者も毎回同じってわけじゃないし、気楽にね」
先生の言葉に安心して教室に入ると、確かに、グループで来ている人もいれば、一人で来ている人もたくさんいる。学部や年齢も様々なようだった。
「じゃあ、始めるよ。今日はまずこのプリントをやってみて」
前の席から回ってきたプリントを見てみると、高校の頃習ったような問題がずらりと並んでいた。解き方を覚えているものもあれば、はるか昔に忘れてしまったものもある。
「とりあえず、正誤は気にせず解いてみて。後で解説するから、なるべく自分の力で解くように」
まずは、わかる問題から解いていく。ここではあまり時間を使いたくないので、軽く見直しをしたら難易度の高い問題へ移る。このような問題は、途中でミスをすると後の答えに影響が出るため、ここではなるべく慎重に、焦らずペンを進めていく。
ふと先生に目をやると、問題に苦戦している学生に声をかけ、アドバイスをしていた。
先生は、私だけのものじゃないとわかっているはずなのに。嫉妬してしまう自分がいる。こんな気持ちになるために、ここに来たわけじゃないのに。
そんな汚い感情を振り切るように、さらに難易度の高い問題へと移る。だが、そこはやはり文系の私が越えられるレベルではなかった。こんな問題、文系の学生が解けるわけないと思っていると、
「渡辺さんは、かなり進んでるね」
いつの間にか、先生が私の横まで来ていたようだった。
「でも、つまずいちゃって」
「この問題は、かなり難しくしたからね。参考までに、この公式を使ってみるといいよ」
先生はプリントの端に公式を書いてくれた。
「ありがとうございます」
「頑張って」
先生のその一言だけで、どんなに難しい問題でも解けるような気がした。
「ではそろそろ解説始めるよ」
先生の後ろ姿が、いつも見ていただけの後ろ姿が、今は少し近くにあるように感じた。みんなの先生なのに。私だけが、あの背中を独り占めしているような気にさえなった。
次の日、増田先生の講義はないものの、校内のどこかで会えるのではないかと淡い期待を抱きつつ、学校へ向かった。
「真希ちゃん。おはよう」
「あ、芳乃」
真希ちゃんは眠そうにあくびをしながら、エレベーターが一階に到着するのを待っていた。私も隣に並んで待っていると、エレベーターの扉が開いて、増田先生が降りてきた。しかし、先生の隣には学生と思われる女性が一人いて、二人で楽しそうに話しながら、私に気付くこともなく歩いて行った。
「芳乃? 行かないの?」
「あ、ごめん。行くよ」
ーーそうだった。先生は、私だけのものなんかじゃなかったんだ。先生と少し仲良くなって舞い上がっていたけれど、私より仲の良い人なんて探せばたくさんいるんだ。私だけが……特別なわけじゃないんだ。
初めからわかってた。わかっていたはずだった。それなのに。なんで、こんなにも悲しいのだろう。苦しいのだろう。
恋の苦しさなんて、大学受験の大変さに比べれば大したことはないと思っていた。それは、私がまだ本気の恋というものを経験したことがなかったから、言えたことなのだ。
好きな人に愛されない。それだけのことが、こんなにも私の心を踏みにじってしまうのか。恋は、こんなにもつらいものなのか。
いつもなら、喜んで参加するはずの放課後講座も、今の私にとっては憂うつでしかなかった。
先生と、あの女性の楽しそうな姿を思い出すだけで、心臓がぎゅっと痛くなる。こんなときに先生と顔を合わせなければならないなんて。わかっていたら、最初からこの講座には参加しなかっただろう。
教室のドアがガラリと開いて、先生が入ってきた。先生はいつもと変わらない様子でプリントを配り始める。
それもそうだ。私が先生を好きなことも、先日、先生と女性が話しているところを見て嫉妬したことも、先生は知る由もないのだから。
「では、プリントの問題を解いて」
ここは問題に集中しようと思っても、先生の姿ばかりを目で追ってしまって、全く手がつけられない。本日何度目かのため息が漏れる。するとそんな私の様子に気づいた先生が、こちらへやってきた。
「大丈夫? 体調悪い?」
まさか、先生のことで悩んでるなんて、言えるわけもなく。
「大丈夫です」
無愛想にそう答えることしかできなかった。
「そう。あまり、無理しないで。しんどくなったら、途中で帰っても構わないからね」
先生は心配そうな顔でそう言うと、教壇に戻っていった。
ーーああ、なんで先生は、そんなに私に優しくするのだろう。
たとえそれがみんなにしているのと同じ態度だったとしても、私はそれに期待してしまう。
先生、どうか、私のことが好きでないのなら、優しくしないでください。
心の中でそう願っても、先生に伝わるわけではない。
先生は、他の学生にするのと同じように私を心配し、気遣ってくれる。決して差別などしない人なのだ。それがわかっているからこそ、その態度が私にとってはひどくつらい。いっそのこと、突き放してもらったほうが楽なのかもしれない。でも、私にはそれをする勇気すらない。
今の私は、以前と同じ、ただの臆病者だった。