2. 先生の、好意
今日の私はいつもより張り切っていた。なぜなら、次の講義で、先生に聞く問題を探さなければならないからだ。
しっかり集中するために、大学の図書館へやってきた。端の席を選び腰を下ろすと、教科書を開き、ひたすら問題を解いていく。もともと数学が苦手ではなかった私は、特に躓くことなく問題をクリアしていった。
そして、二十五問目に差し掛かった時、ペンが止まった。応用問題で、まだ講義では習っていない問題のようだ。しかし、そういう問題こそ、意外と簡単に解けるものだったりもする。そこを慎重に見極めなければ、先生の前で恥をかくことにもなりかねないーーのだが。しばらく考えたものの、一向に解ける気配がない。一度ペンを置き、席を立った。図書館なのだから、数学の参考書も置いてあるはずだ。棚を一つ一つ確認しながら、数学の本が置いてある棚を探す。
「あった」
ようやく見つけ、お目当の本を探していると、
「渡辺さん?」
急に後ろから声をかけられ、振り向くと、増田先生が立っていた。
「あ、こ、こんにちは」
まさか、こんなところで会うとは思ってもみなかったから、動揺して声が上ずってしまった。
「渡辺さんって、文学だよね? 専攻」
「はい、そうです」
「なのに、数学の本?」
先生は本棚を指差しながら、不思議そうに聞いてきた。まさか、先生と仲良くなりたいが為に数学を勉強しているなんて、口が裂けても言えない。
「あ、あの、教科書の問題を解いていたら、わからない問題がありまして……」
「そういうことか」
先生はなぜかほっとしたように笑った。
「それなら、僕に聞いてくれればいいのに」
「えっ」
それはーーそれが目的で、ここにいるのだけれど。
「あの、でも、わざわざ先生のお手を煩わす程の問題でもないかも知れなくて……」
もし参考書を読めば簡単に解ける問題だったのなら、わざわざ先生に聞くのもはばかられる。念のためそう言ったのだが、先生は笑って流すと、
「少しなら時間あるから、見せて」
そこまで言われたら、もう断ることはできない。私が自分の席まで案内すると、先生はその隣に腰を下ろした。
「どこ?」
「これ、なんですけど」
先生は私の差した問題をしばらく眺めると、
「何か書くものあるかな」
「これ、どうぞ」
私の差し出した紙に、解答をすらすら書き連ねていく。
「この問題はまずこの公式を使って……」
先生が教科書を使いながら説明してくれるが、私は先生との距離の近さの方が気になって、説明に全く集中できなかった。
先生の指や、まつげや、唇、かすかに香る香水、その全てが私を狂わせて仕方ない。
ドキドキしすぎて、教科書を支える指が震える。それを先生に悟られないよう必死で耐えた。その時間は数分だったにもかかわらず、私にとっては数時間のように感じられた。
「ーーと、いうわけなんだけど。わかったかな」
先生の言葉で、はっと我に返る。
「え、あ、はい、いや、あの……まだ、ちょっと、わからないです……」
「そっか」
先生は腕時計をちらりと見ると、「今日は時間がなくてもう行かなきゃならないんだけど、また、次の講義のとき、改めて説明するということでいいかな」
「はい。お忙しいところ、ありがとうございました」
「渡辺さんは、勉強熱心なんだね」
先生は席を立つと、軽く手をあげて立ち去った。先生の姿が見えなくなると、私は全身の力が抜けたかのようにへたり込んだ。
たった、あれだけの時間だったのに。先生に近づけたというだけで、こんなにも心臓が激しく動いている。こんな経験、今までに体験したことがなかった。
やっぱり私は、先生のことが好きなのだーー。
次の講義は、先生の顔をまともに見れないほど緊張していた。あのときの感覚が忘れられず、先生のことをとても近くで認識してしまったものだから、恥ずかしくて、どんな顔をしてよいのかわからなかった。
「渡辺さん」
問題を解いていると、先生が近くまで来て声をかけてきた。
「講義終わったら、来てくれる?」
「わ、わかりました」
それが何のことかわかるのは、私と先生の二人だけ。そう思うと、自然と顔が緩むのが分かった。
「先生と何話してたの?」
隣に座る友達が、不思議そうに尋ねた。
「ちょっと、わからない問題があって」
「へえ。芳乃が解けない問題なんて、珍しい」
「教科書の応用問題なんだけど」
「応用問題までやってるの? そこは、テストには出ないんじゃなかったっけ」
「うん。でも、解けないと気になるじゃない?」
「まあ。確かにね。特に芳乃はそういうの、追究しないと気が済まないタイプだし」
友達が私の先生に対する気持ちを悟っていないようで、ほっと胸を撫で下ろした。気持ちを知られること自体は問題ないのだが、もしそれが広まって、先生に対する悪い噂に繋がってしまえば、先生が何かしらの処罰を受けてしまう可能性もあると、それを懸念していたのだ。
私が先生を好きになったことで、先生に迷惑がかかってはいけない。それだけは、避けなければならない。
講義が終わると、友達を先に帰らせ、先生の元へ向かった。
「これ。一応、解答を分かりやすくまとめてみたんだけど」
先生が差し出したのは、全部で三枚にも及ぶ紙だった。
「ありがとうございます」
「もう一度、説明するけど……」
先生の説明を、今度は聞き逃さないよう集中して聞いた。すると、あんなに悩んでいた問題だったのが嘘のように、すっと頭の中に入ってきた。
「わかったかな」
「はい。わかりました。すごく、わかりやすかったです」
「それならよかった。その紙は、あげるから。またわからなくなったときに、参考にして」
「ありがとうございます」
先生の字で丁寧に書かれたその紙が、私にとっては札束よりも貴重なもののように思えた。
「ところで、渡辺さんは数学に興味があるのかな」
「え、ええ、まあ」
「もしよかったらーー放課後、数学の講座をやっているんだ。就職や公務員試験のときに役立たせるために行っているんだけど、数学の好きな人でも参加できるから。ーー学問を追究することは、追究しようとしない限りできないことなんだけど、それができない学生は多い。でも渡辺さんはそれができる学生だ。興味のあることには、積極的に参加していくといいよ」
「あの……それは、増田先生が講義なさるんでしょうか」
先生は少し驚いたように目を丸めたが、すぐに笑顔になると、
「もちろん」
「検討してみます。これ、ありがとうございました。失礼します」
顔が赤くなる前に、先生のもとから足早に立ち去った。まさか、先生がそんな提案をしてくるとは思わず、驚いてしまった。でも、それは私にだけ向けられた好意なのだと思った。先生が、私のことを認めてくれたのではないかと思った。それが嬉しくてたまらなかった。
このときの私は、まだ世間知らずなただの子どもだったーー。