1. 先生の、笑顔
いつから好きになったとか、どこを好きになったとか、そんなことは覚えてない。ただ、先生の背中を見ていると、いつも胸がぎゅっと押しつぶされるような切なさに襲われる。その背中を独り占めしたいと、心の中でいつも考えてしまう。
私にとってこの人は特別な存在なのだと、感覚的にそう感じたのは、大学一年生の初夏だったーー。
「じゃあ、次はこの問題を解いてみようか」
春が終わり、夏の景色を感じ始めた五月の頭。私が密かに想いを寄せる数学の増田先生は、黒板に綺麗な文字で書かれた問題を指差しながら、そう言った。
先生の声は低すぎず高すぎずちょうど良いトーンで、学生たちの眠気を誘っていたようだ。歩きながら、眠りこけている学生たちを優しく注意していく。
もちろん、私は先生の講義中に眠ったことなんて一度もなく、真剣に聞いている様子をアピールしていたのだが、それが彼にうまく伝わっているかどうか定かではない。
先生の姿を横目に見ながら、私は提示された問題を解き始めた。
「お、よくできてるね」
突然、先生の声が真上から聞こえて、慌てて見上げると、先生が感心した様子で私のノートを覗き込んでいた。先生に話しかけられるのはこれが初めてだったので、何と答えたらよいかわからず、ただ頷くことしかできなかった。しかし、先生はそんな私に優しく笑いかけてくれた。
先生の、私にだけ向けられた笑顔が、嬉しくてたまらなかった。
「芳乃、先生に褒められてたね。すごいじゃん」
隣の席に座る友達が、先生と私を交互に見ながらそう言った。
「そんなことないよ。たまたま、できただけで……」
とか、友達の前では言ったけど。毎回、この講義が終わるたびに家で予習復習ばっちりやってるなんて、恥ずかしくて言えない。勘の鋭い女の子になら、先生のこと好きだって見抜かれちゃうかもしれないし。
再び教壇に戻った先生が、先程の問題の解説を始める。私は先生の言葉、仕草、目の動きまで、余すことなく目に焼き付けようと、全神経を集中させた。
一瞬、先生と目があったような気がして、少し、うつむいてしまう。少しして、また先生を見る。
私のことなんて、見てるはずがないのに。先生が、私のことだけを見てくれたら、どんなに嬉しいだろう、いつも、そんな想像をしては、後で落ち込んだりするのだ。
ーーもっと、先生に近づきたい。
胸の高鳴る鼓動を感じながら、私はいつしかそう考えるようになっていた。
「でも……どうしたらいいのかな」
その日の夜。高校時代の友達に、先生とのことを電話で相談していた。
「その先生ってさ、芳乃の学科の先生じゃないんだよね」
「そうだよ。多分、非常勤講師だと思うんだけど」
「じゃあ、会う機会はあんまりないってことか」
彼女とは大学が別であるものの、同じ市内に住んでおり、こうしてたまに電話で話したり、会って遊んだりする仲だった。
「まあ、手っ取り早い方法が一つあるけど」
「なに?」
「聞けばいいの。わからない問題を」
「なるほど……」
友達は呆れたように短いため息をつくと、
「定石でしょ」
「ごめん、こういうの、疎くて」
「芳乃は頭いいから、聞くってこと自体、頭になかったのかもしれないけど。とにかく、男は頼られるのが好きなの。ここわからないから教えてくださいって言えば、誰だって嬉しくなるものでしょ。特に、理系男子は自分の得意分野を話すのが好きなんだから。芳乃も、わかってても、それ知ってますなんて言ったらダメだよ。そうなんですか、すごい、って言わなきゃ。わかった?」
物凄い勢いでまくし立てられて、はいと返事するしかなかった。
「まあ、立場が立場だから、いろいろ大変かもしれないけど、私は応援してるから」
立場……教員と学生という、絶対に越えられない壁がある。それは、私も理解していた。たとえ、先生に気持ちを伝えたとしても、それが叶うことはないかもしれないと、わかっていた。
「ありがとう。ダメでも、頑張ってみる」
それでも、私は、今のこの気持ちを捨て去る術を持ち合わせてはいなかった。もう、後には引けない。もう、前に進むしかないのだと。たとえそれが崖から落ちることになったとしても、私は諦めることを許さなかった。
次の週、朝から増田先生の講義があった。その日はたまたま朝寝坊をしてしまって、急いで準備をしたから、まともに化粧すらできていなかった。こんな状態で先生に会うのは恥ずかしかったが、それでも講義を欠席するよりはマシだと思い込み、学校へ向かった。
何とか、講義開始五分前に、教室に滑り込むことができた。
「芳乃! こっち!」
友達に声をかけられ、息も絶え絶えに席に着く。
「芳乃がこんな時間まで来ないなんて、珍しいね」
「寝坊しちゃって」
「雪でも降るかな」
友達の言葉に二人で笑っていると、
「プリント、後ろにも回してね」
先生が前の方に座る私達に、講義で使うプリントを渡してきた。プリントは友達が受け取ってくれたのだが、一瞬、先生と目があって、慌てて髪の乱れを手で直した。すると先生は少し笑いながら、
「渡辺さんが時間ギリギリに来るなんて、珍しいね」
ーー私の名前、知っててくれたんだ。
それが嬉しくて何も答えられないでいると、隣にいた友達が口を挟んだ。
「ですよね。しかも寝坊だなんて、私もびっくりしましたよ」
「真希ちゃん! そんなことまで言わないでよ」
「ええ、いいじゃん。普段はしっかりしてるんだから」
私達のやりとりを見て、先生は楽しそうに笑っていた。それがすごく恥ずかしくて、しかも寝坊したことまで知られてしまって、少しだけ、友達のことを恨んだ。
「じゃあ、始めるよ」
先生の声で、教室が静かになる。
心なしか、先生の表情が少し明るく見えるのは、先程の先生の笑った顔が印象的だったからだろうか。私のことで先生が笑ってくれたのならーー私は、どんなことをしてでも、先生を笑顔にしたいと思った。