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遠き日の誓い

 かつての僕は確かこう言ったはずだ。

「僕は千絵子を守る。だから、僕は強くなる」

 僕がそう言うと、千絵子(ちえこ)は涙を流した。

 その顔、その姿は今も忘れられない。

 嬉しそうでもあり、哀しそうでもある笑顔を浮かべ、涙が一つ、二つとその頬を流れ落ちていく。

 僕はそれを柄にもなく、綺麗だと思った。

 陳腐な表現ではあるが、綺麗なものを綺麗と言って何が悪い。

 そのとき、それ以上に表現できなかったのだ。

 流れる涙はこの世でこれ以上にないほどに綺麗だったのだ。

 僕はそんな綺麗な涙を流せる千絵子を守ると、この日誓った。

 

 だが、そう誓ったのは、果たしていつだっただろうか。

 一ヶ月前か。

 半年前か。

 あるいは一年前かもしれない。

 どうしてだろうと思ったが、僕には関係ないことだとすぐ気づく。

 いつその宣誓を口にしたのかなんていうのは、意味が無いことだ。

 実際に彼女を守ると誓った言葉が果たされていればいいのだ。

 そう、たとえその誓いを反故にしようと思っても、その日はすでに遠い過去の出来事。

 起きた事実をやり直すことは、たとえ神様であろうとできるはずがない。

 無論、僕はその出来事をやり直す気なんてさらさらない。

 僕は、僕が口にした言葉を、無責任になかったことにするつもりなんてないのだから。

 千絵子は守るべき存在。

 だから、僕は千絵子を守る。

 その誓いを胸に、僕は今日も生きていく。



 そうして、僕は今日も千絵子と愛を確かめ合う。

 カーテンで閉じられた窓から薄く入ってくる月の淡い光が、部屋の中をそっと照らす。

 ワンルームのおよそ十畳部屋、二人で過ごしていくには若干狭いのは否めない。

 おまけに、エアコンの調子が最近悪く、空調が効かないため、暑くてしょうがない。

 だけど、僕はそれでもよかった。

 僕と、彼女がいるだけで、よかった。



 千絵子と出会ったのは、高校に入学したときだ。

 初めての教室、初めて会うクラスメート。

 そして、隣の席に座った一人の少女。

 それが、千絵子だった。

 僕が言うのもなんだが、千絵子は周りの男子に惹かれるような美貌の持ち主でもなければ、何か一芸に秀でてるわけでもなかった。

 多分、どこにでもいるであろう、普通の女子高生だ。

 だけど僕にとって、彼女との出会いがこれから始まる高校生活が楽しくなるのだという啓示そのものにも思えたのだ。

 事実、僕の人生はこれをきっかけに大きく変わったと思う。

 そう、一目惚れだったのだ。

 僕は彼女と一緒にいたいと思うようになったのだ。

 だから、千絵子が僕の告白を受け入れたときは、天国にも昇りそうな幸せを感じたのだ。

 それから程なくして、彼女はいじめられるようになった。

 きっかけは分からないし、どうでもいい。

 僕は結果として、彼女をいじめから守るようになった。

 彼女を救うかっこいい彼氏を演じたかっただけなのかもしれない。

 だけど、惚れた女子を守らない男子がいていいものだろうか。

 幼稚な僕はそう思って行動し、そして彼女を守り続けた。


 きっと、その頃にあの誓いを立てたのだ。

 忘れていたのは、恐らく理由が必要ないからだ。

 重ねて言うが、僕はこの誓いをなかったことにはしない。

 だから、いつ、どうして、どのように彼女に言ったのかは関係ない。

 僕は、これからも彼女を守るのだから……。



 部屋に響くのは、二人の息遣いと互いの名前のみ。

 僕は、彼女が名前を呼ぶたびに、どれだけ自分が彼女を愛しいと思っているのか、確認できる。

 好きだとか、愛しているだとか、そんな言葉はいらない。

 どんなに言葉を重ねようとも伝わらないものは伝わらないし、逆に文章にしたら文庫本一冊にもなるであろう想いをたった一言で全てを伝えることができるのだ。

 名前だけ。

 名前だけ呼んでくれればいい。

 だから、僕も千絵子と呼ぶ。

 優しく、時に激しく、僕は彼女の名前を呼ぶ。

 それが、僕たちの愛し合い方なのだから。

 そうして、夜が更けていく。

 月明かりは徐々になくなっていき、街はその色彩を取り戻していく。

 僕たち二人とも仕事も何も無い日、二人の他には誰もいないこの部屋で、僕たちはただただ愛し合う。

 それが、二人の責務であるかのように。



 しかし、太陽の光を部屋に迎えると、僕はいつも自分の弱さを実感してしまう。

 彼女と二人きりの“世界”を守るために、今まで他の全てを切り捨ててきた。

 千絵子に惚れたと言った僕の友人から、千絵子を守るために彼と喧嘩し絶交となった。

 千絵子との交際を認めようとしなかった両親に怒鳴ったこともあった。

 千絵子との生活のために、会社での付き合いを全て断り、ただひたすら仕事をこなしていた。

 そう、千絵子のために、僕はあらゆるものを捨ててきた。

 それも全ては決して崩してはならない決意を守るために。

 切り捨てることで、自分を強くすると信じて、ただひたすらに。

 だが、現実は非情で、切り捨てるたびに強くなるどころか、ますます弱くなるばかりだった。

 いつの間にか、千絵子の他に友人と呼べる人はいなくなっていた。

 怒鳴った結果、両親からは勘当を言い渡された。

 仕事場では、ただただひたすら与えられる雑務をこなすばかりで、世間話をしてくる人は皆無だった。

 気がつけば、千絵子を守る以外に、何も無くなっていた。

 そして、そのことに苦しんでいる僕自身が心の中にいるのに、僕は驚き戸惑っていたのだ。


 一体、何が間違っていたのだろう。

 一体、どこで間違えたのだろう。

 自問に意味はない。

 何度も繰り返し、その問いの答えを考えたが分からない。

 分からない。

 なぜ無くした物に苦しんでいるのか、分からない。

 僕は千絵子を守ると誓ったのだ。

 それ以外は全て、僕にとっては塵芥に等しいはずなのに。

 どうして、こんなに戸惑っているのだ。

 どうして、どうして……。


 そして、何百何千と繰り返し考えて、答えなんてないんだと悟った。

 ならば、弱いままでもいいのだろうか。

 彼女が、千絵子が側にいるだけで他にはなにもいらない。

 だったら、無理に強くならなくてもいいのか。

 相反する矛盾に目をつむり、声にならない叫びを隠し、僕は今日もアパートへの帰途につく。

 千絵子が先に帰ってきているはずの、アパートへ。



 そして、その日は突然予感も何もなく訪れた。

 弱くてもいいのだと悟ってから半年が経った日のことだ。

 この街では珍しく灰色の雪がちらほら降り始めた夜だった。

「ねぇ、(のぼる)。前から気になっていたけど、あなた、寂しいの……?」

 いつものように愛を確かめ合う前のことだった。

 どす黒い厚い雲に覆われ、月明かりもささない暗い部屋。

 二人しかいない部屋の中で、キスをしようと顔を近づけたときに、不意にそう言われた。

 彼女にとっては、何気ない一言だったのだろう。

 そう、きっと彼女は軽い気持ちで尋ねただけ。

 僕が肯定するにしても否定するにしても、きっと答えを聞いたら彼女はキスをしてくれる。

 その程度のことに過ぎない質問だったはずだ。

 しかし、僕にとっては、それはまるで弾丸のように心臓を貫いた。

 千絵子を見つめながら、僕は何も答えることはできなかった。

 肯定も否定もできなかったのだ。

 そんな僕を見つめ返しながら、彼女は続ける。

「もし、その寂しさを紛らわすためだけに私のことを愛しているのなら、お願いだから止めて」

 その目に涙はないが、悲しそうに見えるのは、僕の気のせいではないはずだ。

 なぜ、そんなことを突然言い出したのだろうか。

 僕には全く分からなかった。

 しかし、僕はあの繰り返し考えた問いの答えにようやくたどり着いた。


 僕が弱くなった理由。

 それは、他者との繋がりを棄て、千絵子との世界だけを求めたからだったのだ。

 青臭いあの決意――“僕は千絵子を守る。だから、僕は強くなる”。

 そのために色々なものを切り捨ててきた。

 そうしてきた僕に訪れた結末が、この皮肉な結果だったのだ。

 強くなるために、弱くなってしまったのだ。


 しかし、僕は弱くままでもいいんだと悟ったはずだ。

 半年前に僕はそう思ったのだ。

 なぜなら、千絵子が側にいるのだから。

 彼女が最後の繋がりだから。

 そう、千絵子だけいれば――。

「千絵子、僕はただ君だけが隣にいてくれれば、他に何もいらない」

 そう言うと、僕はそっと彼女にキスをする。

 千絵子を大切に扱うように、本当に軽く。

 彼女はキスこそ拒まなかったが、唇が離れると先ほどよりも顔を歪ませていた。

「今日の昇、何か変よ」

 千絵子は怯えているのか。

 だとしたら、何に対してだろうか。

 その目が何を示しているのか、僕は確かめずに言った。

「変じゃないよ、僕は弱くなったけれど、千絵子がいれば弱いままでいいと思ってる」

 それが、今の僕の本音だ。

 嘘も偽りもない、掛け値のなしの本心だ。

 それを伝えたくて、もう一度僕はキスしようと顔を近づけた。

 だけど、彼女は僕の頬を叩いた。

 パシンと、音のなかった部屋に肉を叩く音が響く。

 僕は打たれた左頬を押さえる。

 痛みこそほとんどなかったが、そこだけ体中の熱をかき集めたみたいに熱くなっている。

「千絵子……?」

 僕は自分の声が思った以上にか細くなっていることに驚いた。

 よほど、千絵子のビンタに驚愕したのだろうか。

 そうだ、僕にはなぜ彼女に叩かれたのか分からない。

 再び、どうしてと思考が巡るが、その答えもやはり出てくるはずもなかった。

「私が愛した昇は、もっと強かった。弱かった私のために、他のことを切り捨てるのも厭わないぐらいに」

 彼女は気づいていたのか。

 僕がこれまで何をしていたのか。

 だが、そこまで分かっているのに、なぜ叩いたのだ。

 僕は勇気を出して、彼女の目を見た。

 そこには、涙が浮かんでいた。

 ここ数年間、見ていなかった彼女の涙だ。

 けれど、最後に見たのはいつだっただろうか。

「ねぇ、私を愛することって、そんなに辛いことだったの? 昇が弱くなっちゃう程、苦しいことだったの?」

 違う。

 違うに決まっている。

 僕は辛かったわけではないし、苦しかったわけでもない。

 そうすることでしか、強くなれないと思っただけだ。

 なら、なぜそんなことを思ったかと言うと――。

「そ、そんなことない! 僕はただ――」

 君を守りたかったから。

 愛する千絵子を、僕は守るために強くなろうと決めて、そして弱くなったのだ。

 喉から出かかったその言葉を、僕は何故か口に出すことが出来なかった。

 言えばいいじゃないか。

 僕の理性は喉を動かそうとする。

 言っては駄目だ。

 僕の感情がそれを止めようとする。

「私が、そんなに弱かったから?」

 続きを言わない僕を待たず、千絵子が言葉を紡ぐ。

「だから、昇も弱くなっちゃったの?」

「違う、千絵子のせいじゃないよ」

 僕は彼女の涙を止めるために、優しくしたかった。

「千絵子、僕も君も弱いままでいいじゃないか? 一人じゃ駄目でも、二人なら――」

 そう言った瞬間、千絵子の目から涙は止まった。

 一瞬、ほっとしたものの、僕はその瞳から目をそらすことができずにいた。

 千絵子の瞳に僕は映っていなかった。

「昇、私がいつまでも弱いままだと本当に思っているの?」

 感情を読み取れないその声にギョッとする。

 それ以上口に出さない千絵子の目はこう語っていた。

 “私はもう弱くない”と。

 守らないといけないと僕が思っていた少女は、いつの間にか十分強い女性になっていた。

 それは、つまり、僕がいなくても千絵子は生きていけるということでもあった。


 愚かなことだが、僕はそこでようやく気がついたのだ。

 持っていたはずのあの決意を、僕はとうの昔――弱いままでもいいと思ったその日から失くしていたことに。

 両手で抱えていたはずのあの誓いは、砂となって手から零れ落ちていた。

 風が吹けば吹き飛ぶほど脆く崩れていた。

 あれだけ強固な決意は既になく、劣化した魂だけでは、彼女を守ることなど出来るはずもない。

 僕はもう手遅れなのだと、思い知らされた。

 過去をやり直すことなど出来るわけがない。

 だから、僕が誓いを立てたあの日は美しい思い出のまま、僕の中で生き続ける。

 そして、思い出は僕の罰となって、僕を未来の果てまで苦しめるのだ。



 次の日、彼女は僕には何も言わず、何も残さず二人だけの世界から出て行った。

 彼女が開けたと思われるカーテンから入る太陽の赤い光がやけにまぶしかった。

 もう、彼女がここに戻ってくることはないだろう。

 涙は出なかった。

 悲しいはずなのに、一方で僕は千絵子が強くなっていることに喜んでいるのだ。


 それから僕は独りになった。

 無くしたものは全て、しかし得たものは何もない。

 言い換えれば、僕の人生は棄てるだけの人生。

 今日という日まで、僕にはそれしか出来なかった。

 そして、これからもきっと。




 彼女がいなくなってから一年、相変わらず僕は弱いまま。

 かつて信じた思いなど、壊れてしまえば一瞬にして瓦礫となる。

 今日もただ独り、そこに存在するだけ。

 起きて、仕事に行って、働いて、帰って寝る。

 ただそれだけを繰り返すだけだった。

 しかし、そろそろどうするべきなのか、もう一度考えなければならないだろう。

 そうだ、今までの人生で得た教訓を活かして、小説でも書こうか。

 窓の外の、降り積もった雪を見ながらそう思う。

 しかし、明日のことなど、誰にも分からない。

 小説を書こうだなんて言う思いも、明日起きたときには馬鹿馬鹿しいと一蹴するかもしれない。

 未来のことなど、誰にも分からないのだ。

 だけど、僕は今日を生きていく。


 終

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