表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
6/6

6 「悪かったな」

 清涼で透明な空気。土塊(つちくれ)のにおい。苔むす木々と、生い茂る葉の間。待ちびとを見つけた。

「……あ……」

 名前を呼ぼうとした、無事をよろこぼうとした、安堵で肩のこわばりをほぐそうとした、なのにビアンカはそのどれも出来なかった。

 人になつかないペルシェが、フェッロにまとわりついていた。ペルシェの、ヒレの端や尾ビレの薄いところが透明に透けて、かすかな光を透かしている。まるで輝く星のよう。ペルシェたちの弾く光が、白い髪に反射させ、光にまみれて彼はまるで幻の中にいるかのようだった。淡い光の中に溶けてしまうような――

「……まっ……」

 待ってください、口から出るところだった言葉はフェッロが振り返り大声を上げた事で霧散した。

「――危ない!」

 ペルシェが一気に飛び去ったのが見えた。足元が暗くなる。ビアンカの全身に大きな影がかぶさった。瞳の中にそれが映る頃にはもう、かなりの接近を許していた。

 枯れ枝の刺さった巨木の切り株――まるでそれは大木そのものだったが、自律し、蔓を伸ばし、ビアンカに迫っている。さながら、動く木。

 その生き物から伸ばされた触手のような蔓が、ビアンカに触れる直前で、途切れた。目前をよぎったものを目で追えば、剣が蔓を別の木に縫いつけていた。フェッロのいた場所から飛んできた、彼の剣だ。一難去っても、切り裂かれた動く巨木の蔓、それだけが相手の持つ蔓ではない。

 一見してすぐに魔獣(モンスター)と分かるような見た目をしていないせいか、ビアンカはとっさに動く事が出来なかった。自らの意思で動いている点を除けば、巨木の切り株と遜色はない。ぶつかれば大怪我が約束されるだろう巨体と、伸びる蔓が、安全な存在ではないと主張している。

 自身の蔓の欠損に戸惑っていたかのようなその生き物は、しかし何本も蔓を持ち、先ほどした行為を繰り返そうとする。ビアンカに向けて他の手――蔓を伸ばす。

「いやっ!」

 両手で頭をかばったビアンカの腰が、抜けたように引っ張られる。途端に、浮遊感が訪れる。背中に、ぬくもり。耳元に、届く吐息。ビアンカはその人の腕の中にいた。

「ビアンカ、大丈夫?」

「フェッロさん?」

 近すぎる距離にいるために振り返っても彼の全貌は見えない。危ないところをフェッロが引き寄せてくれたのは分かっているが、まだビアンカは相手の顔を確認出来ていなかった。視界の端にゆれる白い髪が、ふわふわとして見える。言いたい事はたくさんあった、しかし彼女はそれら全てをのみこまなければならなかった。

 短く「あ」などとつぶやくのみで済ませたフェッロだったが、ビアンカは今一度あの巨大な蔓が目前に迫っているのを黙って見てはいられなかった。

「きゃああああ!」

 ビアンカの視界が、反転する。頭の中は混乱したまま、彼女はあの動く巨木の蔓から逃れられただけではなく、どうやら横抱きに運ばれているらしい。フェッロと比べたら足が遅い彼女を安全に逃がすための処置だとしても、今のビアンカにはそれがよく分からない。

「あ、あの、フェッロさ……!」

 自分の顔が熱くなっているのが分かる。ビアンカは、そんな場合ではないのに、あまりにフェッロとの距離が近い事に、狼狽していた。だが魔獣の危機を目の前にして離れてとはとても言えない。

 その上ベールを切り裂いてしまったから、長い髪の毛があちこちに広がって邪魔になってしまう。慌てて髪を押さえるビアンカは、そのままぎゅっと押さえたら全身が小さくなってしまえたらいいのにと仕様のない事に頭を支配されていた。

 顔のない動く巨木は、しなる鞭のように蔓をいくつも伸ばしてくる。

「何なんだろう、あれ……」

 まるで長椅子でゆったりとくつろいでいるかのように穏やかな口調のフェッロだが、その足は軽やかで素早く、飛んでくる蔓をかいくぐっていた。追っ手は、木々という障害物の多い森の中を先に蔓だけ延ばし、身体を傾がせては樹木を避けてゆっくりと、だが確実に追いかけてきている。何が目的なのかは分からない。

 ビアンカを抱えたままのフェッロがそれを避けるうちに、彼が一つ蔓を避け切れなかったのをビアンカは目の当たりにする。頬をかすった程度だったが、魔獣の蔓の先は鋭利だった。かすり傷ではあれど、フェッロは目前に自身の血が流れるのを見ていた。

 血は、フェッロの中の何かを変える。

 聞こえる人には聞こえるという、何かの引きちぎれるような音は、ビアンカには聞こえなかった。が、フェッロの機嫌が悪くなったのはその形相を見ればすぐに分かる。親の(かたき)でも見つけたような形相で、怒気をあらわにする。フェッロは足を止めると振り返り、魔獣の蔓を右手で素早く捕らえた。

「ちっ、この雑草風情が! 焼き殺すぞ?! つうか刻む! 死ね!」

 そのまま蔓を引っ張ろうとしたフェッロが自身の右手を引こうとするが、相手は簡単に許しはしない。引っ込もうとする蔓との摩擦で生まれた熱のせいで、彼の手の平は小さな血飛沫をあげた。魔獣本体は近づいてくるというのに、一度掴んだ蔓は後退してしまった。ますますフェッロの眉間のしわは深くなるばかり。

 フェッロは怒りに顔色を変えているというのに、ビアンカはやっと落ち着けてきそうだった。あの巨木の魔獣が一体何ものか考えるくらいはしなくてはとやっと思えてきた。

 ビアンカの脳内にある生物図鑑が目前のものとの一致を探して、稼働する。精密な挿絵のついた魔獣図鑑を読んだ事がある。本物ではないが、それと見まごうほどの精緻な挿し絵で見た事のある存在だ。

「……アル、ボレオ……?」

 あの動く植物は“アルボレオ”だと思い出した。触手のように伸びた蔓で、比較的大型の虫を捕まえて捕食する動く枯れ木のような生き物。肉食でもないし、獰猛でもない。刺激を加えても、火でもつけない限りは、暴れ回ったりはしないはずだと、ビアンカは把握している。そのアルボレオが、何故突然襲いかかってくるのか。とにかく、ビアンカの持つ知識から何か解決策を探さねばならなかった。頭の中の図鑑に羅列される文字をたどる。

「フェッロさん、あの生き物、アルボレオは、ハチミツが好物です! それで気を引いてみては……近くにありませんか?」

「ハチミツ、だと……?」

 顔をしかめたフェッロは、すぐにそんなものが見つかるとは思っていないようだった。首を伸ばして周囲を確認するが、ミツバチの巣など蜂蜜がとれそうなものはなかった。

「待てよ……たしか……」

 ミツバチの巣のありかを思い出したかのようなフェッロのつぶやきに、ビアンカは自分がとりに行くと申し出るつもりだった。なんの力もない自分が足手まといになるのは分かりきっている、せめて彼のために出来る事はしたい。

 だしぬけに放り出されて、ビアンカは空気だけを飲み込んだ。

「ここにいろ」

 何を言うのかと、フェッロを追おうとして自分のいる場所をやっと思い知った。アルボレオを見下ろしている自分は、少なからず高い場所にいる。離れていったフェッロが、木の枝の上にビアンカを腰掛けさせていったのだ。その枝は太く、ちょっとやそっとでは折れそうにはないが、突然こんなところに押し上げられては動転するしかない。

「えっ、ええっ、ふ、フェッロさん?!」

 人の背の倍近くはある場所に一人放り出されて、相手がビアンカの安全を確保してくれた事は分かるのだが、それならフェッロはどうなのだと彼の背中を見つめる。敵対する相手と距離はおきつつ近づいていく青年を。

 しかしアルボレオはまっすぐにフェッロに向かっていきはしなかった。むしろ彼を見逃したようにすら見える。つまりはビアンカにまた、その()を伸ばしはじめたという事で――ビアンカの心臓がざわりと悪寒を訴えた。

「こっちだ枯れ木!」

 言いながら、フェッロは未だ自分の手の中に自分の剣を取り戻せていなかった。自身の得物(アンシャール)は先ほどアルボレオの蔓からビアンカを守るために投げた後、取りに行っていない。とりあえずの得物としてフェッロは腰の鞄の中から短剣(ナイフ)を取り出す。短剣で、アルボレオの木の皮を引っかいた。攻撃を加えれば、防衛のためにとりあえずそれを加えてきた相手に対応するようだ。しかしアルボレオの身体は硬く、意識をフェッロに向けられただけで何の解決にもならない。一際強く力を加えて、フェッロは短剣をアルボレオに突き刺した。少しは深く食い込んだはずだ。あまり動じた様子ではないが、その隙にフェッロは自分の得物のところへと走る。

 ビアンカがアルボレオに出会った場所までは距離があった。フェッロはどんどんとその場所へと戻ってゆく。本体から切断されたアルボレオの蔓を、虫の標本のように貫いているのはフェッロの愛用する剣“アンシャール”。右手でそれを引き抜くと、今一度アルボレオに向き直って、駆けた。

「来い、燃えさし!」

 跳躍するとフェッロは曲刀(アンシャール)でアルボレオの蔓をいくつも切り裂いた。切り落とされた蔓の先は、釣り上げられた魚のようにうねりながら地面に落ちていった。アルボレオは今度も標的をフェッロにへと戻す事にしたようだ。蔓の代わりとばかりに、アルボレオは身にまとう葉を放出した。蔓の先同様切っ先の鋭いそれはフェッロの肌を容易に切り裂くが、しかし致命傷になるほどではない。

 構わずに走り出すフェッロが、突然ビアンカの視界から消えてしまった。

 木々のおいしげる場所だから、そう遠くに行っていなくとも遮るものは多かったが、今度は遠く離れてしまったようなのだ。つい先ほど、ミツバチの巣に心当たりがあるような事を口にしていたから、それを探しに行ったのかもしれない。ビアンカには、推測する事しか出来ない。

 アルボレオもしばらくは、フェッロの消えた方角へと身体を動かしていたが――ビアンカの不安を読み取ったかのように、ふいに動きを止めた。まるで、恐怖を嗅ぎ取って気弱な人間の元に訪れるのが仕事かのように、ぎしりとその身を動かす。

 嫌な予感を覚えるまでもなく――顔も持たないその生物は、ビアンカに興味をうつしたようだ。動きのあまり俊敏でないアルボレオが追うのを諦めるほどにフェッロは遠ざかってしまったのだろうか。

 たとえばグリフィスキアのような獅子にも似た有翼の魔獣(モンスター)ならば、まだ目鼻も揃って恐ろしいながらにも生き物らしさをうかがえただろう。アルボレオは違う。表情など伺えない。動く木なのだ。目も鼻も口もない分かえって、不気味さを増す――。

 ここにいては、逃げ場は空しかない。ビアンカは動くしかなかった。

 足を伸ばせば、地面は遠く、飛び降りるにはある程度の気概が必要だった。その上、もたついていると、あのアルボレオがビアンカの真下にたどり着いてしまうだろう。早く飛び降りなければ。足を、伸ばした。

「そこにいろっつっただろ」

 離れた場所から飛んできた鋭い声は、かすかに苛立ちを含んだもの。言うなり、フェッロは手にした包みを遥か彼方に投擲した。それはフェッロの服で包んだミツバチの巣だった。持ち運ぶ際にミツバチに刺されてはかなわないと、とりあえず布で包んだのだ。アルボレオは、ごく分かりやすく反応を示してくれた。蜂蜜が好物という名に恥じない反応の速さで、蔓を伸ばしてミツバチの巣を追おうとし、それがかなわないと知ると、ハチの巣の飛んで行った方角へと動き出した。

 二人の人間を振り返ろうともしない――どこに顔があるのか定かではないが、進行方向に顔があると仮定するならばそちらの面がこちらを向かない――様子に、やっとビアンカは落ち着いて息をする事が出来るようになった。深く息をする。心臓はまだ速いままだ。

 さやさやと、かすかに揺れる梢の音だけが、森に広がった。


 剣を鞘に納めたフェッロが、ビアンカの元へとやって来る。彼女の座る木に足をかけて、両手を伸ばしてビアンカの身体を地面の上へと連れて下りる。

 めまぐるしく動いた事態に、ビアンカはまだ何を言えばいいのか分からずじまいだった。文字通り、やっと今、地に足をつけられたばかりなのだから。彼女は息を整える事を考え、無意識のうちに髪を撫で、泥だらけの自分の服を見ていた。つと、自分に与えられる視線に気づく。もちろん相手はここにいるビアンカ以外の人間、フェッロだ。じろじろと眺め回すような目付きは不機嫌そうだ。何が言いたいのか、相変わらずさっぱり分からないビアンカは口を開いた。

「あ……私の顔に何かついてます?」

「怪我、ねえか」

 ビアンカは首を左右に振る。

「……悪かったな」

「え……?」

 もしかしたら程度で、彼の言いたい事が分かるような気がした。

 フェッロは、ビアンカがここまで来たのは自分を追っての事で、アルボレオに襲われる事になったのも彼のせいだと思っているのではないか? そんな事はない――ビアンカの勝手な行動はビアンカに責任があるというのに。

 何か、言葉を重ねなくてはと思った時に――黒いものが視界につめよる。それはフェッロの手袋をはめた左手だった。フェッロが親指を押しつけるようにしたのは、ビアンカの頬についていた泥を落とすためだったのだが、それがビアンカにはわからなかった。相手との距離が近い意味も。

 切れた時のフェッロが浮かべるのは不機嫌そうな顔や、不敵に口角を上げる様、怒りの表情などばかり。それが今はどこか感情など忘れたような、瞳の透き通った表情(いろ)。紫がかった灰色の瞳は、まるで真剣に何かを憂いているかのよう。

 まるで、何か言いたい事が山ほどあるかのように。

 その目には、何が映ってるんですか?

 目の前にいるのは自分のはずなのに、ビアンカは彼が分からないあまりに、思わず問いかけてしまいそうになった。

 彼女の望みがかなったのか、フェッロは口を開いた――

「ビアンカくーん? どこに行ったんだい?」

 ――それが響くまでは。

 遠くの声に、フェッロはぱっと手を離した。声に遅れてレオンとホープが顔を見せる。近づいてきてフェッロの顔を見るなり、ホープは顔を明るくした。

「フェッロくん! 見つかったんだね、よかった!」

 そのまま心配したんだよトークを続けるつもりだったホープは、ビアンカの頬が赤いのを見て何かを察した。憶測を含むそれを彼なりに解釈して、言葉にする。

「……あれ? ごめん、もしかして、お邪魔だった?」

 フェッロが一気に顔をしかめたのが、ビアンカにも分かった。つまりそういう風にホープにからかわれるのが嫌で、ビアンカの事はなんとも――

「とりあえず、そこの俗物司祭、歯ァくいしばれっ」

 顔中にしわを寄せて拳の骨を鳴らしはじめたフェッロにやってこられ、ホープは怪訝そうになる。彼が“裏”になるとやたらと暴力的になるのは知っていたが何かしただろうか。ホープは全く理解していない。

「あれ? なんでなんで。落ち着いてフェッロくん」

 本気でホープを殴るつもりのフェッロを、レオンが渋面を作りながら抑えているのを、ビアンカは複雑な気持ちで見つめていた。


 ホープと合流したレオンが事情を話して、行方不明者の二人(フェッロとビアンカ)を探しにやってきたのだが、迂回をすれば簡単に行き来が出来る事が分かった。かなり遠回りになるのだが、それでもあまりに遠いというほどではない。それをフェッロは見つけられなかったのかと聞くと、とにかくいろいろあったのだと返答した。まさか何か面白いものでもあって帰るのを忘れていた訳じゃないよね、とのホープの問いにフェッロは答えなかった。

 先をゆくホープとレオンの後から少し離れて歩くビアンカとフェッロの間に言葉はなく静かなものだった。苦手というほどではないが、切れた時のフェッロは目つきが険しいために、怒っているとしか思えずビアンカはつい言葉を忘れるのだ。それに、さっきの彼の行動の意味をはかりかねていた。

 なるべく、彼の事は気にしないように歩いていた。今のビアンカはすっかり全身泥だらけで髪の毛もぐちゃぐちゃだった。それを言うならフェッロの方だって、五日間も大自然の中で生活していただけあって、泥のついていないところはないというくらいにあちこち汚れてしまっているが、それは大変な目にあったという事の何よりの証しだった。ビアンカの様相などさほど変わってはいない。これぐらいで恥ずかしいだなんて、フェッロの五日間を思えば何て事はないはずなのだ。かえって小さい事を気にする自分が恥ずかしくなってしまう。

「何だそれ」

 ビアンカが無手ではないのを見咎めたフェッロが、薄紅の包みを顎で示した。ビアンカは、自分が何を手にしていたかを思い出し、何故こんなところにまで携帯していたのだろうかと思うと、どうしてか恥ずかしくなってきてしまい、何のためのものかも忘れ、首を振った。

「な、なんでもないですっ」

 薄紅色の包みは、リ・ライラ・ディの贈り物。羞恥のあまり、ビアンカはそれを自分の背に隠してしまった。だが“裏”フェッロはそのまま見逃すほど大人になれない人格だった。敵の弱点を発見した軍人のように勝ち誇った顔をして、にやりと口角を上げると、フェッロはあっという間にそれに手を伸ばす。奪われまいとしたビアンカの手は空を切っただけだった。彼は頭上に掲げるように持つと、薄紅の包みを軽く振った。

「で、何なんだこれ」

「……焼き菓子、です」

 フェッロに奪われた包みの中に入っているのは、貝殻の形をした金属の型に生地を流し込んだマドレーヌという名の焼き菓子だった。

「ふーん」

「よ、よろしかったら、どうぞ」

 最初からそのつもりだったはずが、ビアンカは成り行き上そうなってしまった、とでもいうように口にした我が唇を叱咤したくなった。リ・ライラ・ディ当日に渡せたのはいいが、それでもこんな状況であんな事があった後に仕方がなしにとでもいうように手渡すなんて、そんなムードのない話はなかった。この人の前だと、ビアンカはいつもそうだ。どこかおかしな事ばかりしてしまう。

 せめてサン・クール寺院に着いてから、もっとゆっくりしてからでもと思ったが、いっそ疲れているフェッロの助けになるならもはや何でもよかった。

「じゃあ遠慮なく」

 包みを開いて、マドレーヌを取り出して食べるフェッロと、うつむきがちに相手をうかがうビアンカ。彼らの様子を離れた場所から、ホープ・俗物・司祭がこっそりがっつりきっちり盗み見しているのを、隣りのレオンが呆れ顔でいつ首を前に戻すように言うべきか思案しながら眺めていた。

「ん、うまい」

 いろいろな事は置いておいて、ビアンカの作ったマドレーヌが彼の口に合わないのではない、という事実はまだ喜んでいい話なのかもしれない。

「って……アルボレオが活発になったのってこれのせいじゃねえのか?」

「……そ……そういえば、アルボレオは甘いものが好きですね……。森にある甘味はハチミツが多いですから」

 ハチミツだけが好物なのではないが、忘れてしまっていた。甘いにおいがアルボレオには絶好の標的になったのだろう。

「ご……ごめんなさい」

 ビアンカのせいで、アルボレオに襲われた事になる。

「私のせいで……。本当にごめんなさい。私が焼き菓子を持ってこんなところまで来なかったら」

「別にお前のせいじゃないだろ」

 うつむきながら失態を恥じるビアンカは、フェッロの声も届かないほどに、すっかりしょげてしまっていた。フェッロは、ホープにビアンカとの事でからかわれるのも嫌なのに、ビアンカのせいでこんなところで魔獣に襲われるはめになったのだ。申し訳なくて仕方がない。ビアンカの気持ちと同時に、頭まで沈んでいく。

「でも、私が持っていたものが、きっかけになったのは確かでしょうし、それに、私……」

 きっとフェッロの足手まといになっていた。相手がアルボレオだったからまだ大惨事にならなかったとはいえ、もし獰猛で猪突猛進な猛禽類が飛びかかってきたら、どうなっていた事か。軽傷で済んだ今よりももっとひどい事態になっていただろう。それは想像だけでも背筋に寒気が走る光景だった。

 悶々と自己嫌悪に陥っていたビアンカだが、相手の返事がない事に気づき、顔を上げる。返事どころかその本人すらいない事を知る。

「……フェッロさん?」

 いない。辺りを見回すと、フェッロはしゃがみこんで何かを見つめていた。いや、()の画家はいつの間にか取り出した紙に何かを描いているようだ。絵を描いている、という事は、“表”に戻ったという事だ。乱れた前髪の間に見える瞳はずっと穏やかに真剣に、対象物を見つめている。

 少しだけ、ビアンカは待つ事にした。まだ続く忸怩たる思いが言葉を操れなくさせていたのもあるだろう。

 誰かに声をかけられでもしたかのように、フェッロが顔を上に持ち上げた。間もあけず立ち上がると、紙を鞄にしまった。

「……ごめん、ちょっとスケッチしてた」

 ビアンカが待ちぼうけていたのだと推測したのだろう、そのための謝辞だったのだ。ぼんやりとしているフェッロの態度からは意外な律儀さに、ビアンカは首を振る。

「いえ、お気になさらないでください」

 話を聞かれていなかったのが問題だったのではない。ペルシェに囲まれて立っていたフェッロを見た時のような気持ちに、その他様々な思いがビアンカの中で彼女を揺れ動かしていた。傷ついたのでも、不安なのとも違う。叫びだしたいような、丸くなって小さくなってそのまま地面にでも埋まりたいような、駆け出したいような、拳を握り締めていたいような――寄る辺がなくて、心臓の落ち着かない感情。

 今は、それでもやはり、気分は落ち込んでいた。顔も上げられないくらいに。

「……ビアンカ、元気ない?」

 冷静を努めたはずが――どうして、フェッロは見つけてしまうのだろう。孤児院の子供たちが以前話してくれた事がある。子供たちの監督を頼まれても、その輪には入らず、自分の作業に集中していたようなフェッロが、木登りに失敗し落下した子供をいつの間にか受け止めていたという事を。

 どうして、見ていないようで、見ていて、見抜いてしまうのですか?

 いっそずっと振り向いてくれないなら、こんな風に思い煩う事もなかったかもしれないのに。ビアンカの気持ちにまでは踏み込んでこないのに。どうして不意をつくようにビアンカを見つけてしまうのか。

 ビアンカは、なんとか首を振ると、笑顔を意図的に作り上げた。

「そんな事、ないですよ」

 まったくの嘘でもない。ビアンカは元気だ。ただ、訳の分からない雑多な思いがビアンカの頭を混乱させるだけ。

 それに、あんまり変な事を言って彼におかしな娘だと思われたくない。それほど、ビアンカの胸のうちはおぼつかなくて、複雑だった。

「……そう……? なら、いいけど……」

 ほんのわずか、フェッロの瞳がゆらいだ。少しだけ寄せられた眉は、それは――?

 こんなにも、誰かの気持ちが知りたいと思ったのは、はじめてかもしれない。ビアンカは、それでも、これ以上は追いかけられなくて、ただ唇を噛んだ。

「行こう」

 先行するフェッロの瞳は、既に長い前髪に隠れてしまったが、確かにビアンカに呼びかけていた。ふいに心もとなくなる胸を、つなぎ止めるかのように、ビアンカは小さく拳を握った。

「はい……」

 じゃあ行こうとでもいうように、フェッロは歩き始めた。




   ***




 せめて、どこにも行かないでください。

 せめて、心配させないでください。

 せめて、少しだけ、

 笑ってください。


 多くは、何ものぞみませんから。

 いなくなったりしないでください。


 リ・ライラ・ディの意味も知らなくてもかまいませんから。


 せめて、そばに。




 了

ここまで読んでくださり、ありがとうございました。

これにてこのお話は一旦おしまいですが、続編に当たるフェッロが主人公の話を構想中ですので、もしよろしければそちらもご覧いただければうれしいです。

まだ公開は先になりそうですが…。



このお話を、多人数参加型企画『ティル・ナ・ノーグの唄』の参加者の皆様と、何より主催者であるタチバナナツメさんに捧げます。


登場人物のうちの多くを参加者さまからお借りしました。

素敵なキャラクターを、ありがとうございました。


ビアンカ(原案・タチバナナツメさん デザイン・緋花李さん)、ホープ(原案・タチバナナツメさん トラムさん)、セヴィーリオ(藍村霞輔さん)、リューン(藍村霞輔さん)、

リーシェ(夕霧ありあさん)、アイリス(緋花李さん)、テオドール(香栄きーあさん)、ジャジャ爺ことジャガジャット(ごんたろうさん)、レオン(藍村霞輔さん)


この企画では、さまざまな参加者さまが各自で考案されたキャラクターを、一覧にしてあります。キャラクターの詳細についてはサイトをご覧ください。

サイトはこちら

http://tirnanog.okoshi-yasu.net/


あとでバナーもはります。。


それでは、またお会いできることを願って。

本当にありがとうございました。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ