4 「元気出して、ビアンカ」
本格的に、フェッロのサン・クール寺院での生活がはじまった。
彼の仕事は守門、門を守る役目が主である。不審な人物の入場を許す事のないように、常に寺院の門を守っていなければならないのが、ごく一般的な守門像だろう。
しかしこの平穏な楽園ティル・ナ・ノーグにおいてそう事件など起こる事もなく、ただ立って門番をするだけが守門の仕事ではなかった。というより、寺院の責任者であるホープの意向により力仕事の手伝いをさせられる事が少なくないのだ。名ばかり守門というほどではないが、寺院の数少ない男手が活躍するのは、強盗でも来ない限り、剣以外のところで使われるばかりだった。
もちろん荒事など起こってほしくないビアンカには好ましい事だが、フェッロが今の仕事に就いて後悔していないだろうかと不安になるほど、ホープに様々な雑事を言いつけられているのだ。
「お使いを頼めるかな?」
「ちょっと、倉庫から物を運ぶのを手伝ってくれないかな?」
「食堂で寝ちゃった子がいるんだ、起こさないように寝室につれていってあげられる?」
前任の守門もほとんど同じような内容の仕事をしていたし、特に重労働というわけではないが、フェッロがどう思っているのか――ビアンカは気にかかってしまう。別にそれは、新任の守門が早速に辞められては困るからで、特にフェッロがどうという訳ではないのだと、言い聞かせるようにしながら。
同じように寺院で暮らすリーシェとも問題なく会話をしているのを見た。十九歳のリーシェ・マリエットは、聖職者を目指して勉学に励む真面目でしっかりとした娘だ。落ち着いた彼女なら、誰かと衝突する事はあまりないのだから最初から心配はなかったが。
「リーシェはアーラエさんとお友達なんですか」
「はい……あの、何故急に敬語に?」
フェッロは普段から年上の相手くらいにしか敬語は使わない。リーシェとも初対面からくだけた口調だったはずだ。
「いいなあと思って」
「……えーと」
ごく一般的な観点から見ればかみ合っているのかわかりにくような気がする会話をしていたが、とにかくビアンカには仲はよさそうに見えた。
フェッロに用事がない時は、絵画制作をしているようだ。集中するとホープの呼ぶ声も聞こえないらしい。実際、今のところ製作の依頼は来ていないようで、今後のための習作を手がけているという程度ではあったが。
サン・クール寺院の居住のためのスペースはさほど広いものではなく、また、絵画制作などは部屋を汚してしまうために倉庫が彼の仕事部屋となっていた。フェッロの寝室自体は別に貸してあるし、ホープは更に仕事用の部屋を貸すといったが、倉庫にもちょうど空きスペースがあったし、確かに汚されても困らない場所は倉庫以外になかった。
まだビアンカは、彼のいる時に仕事部屋である倉庫には行った事がない。一度、フェッロの姿を探しに行った時に見慣れたはずの倉庫がにわかに画家の工房に変わっているのを見た程度。倉庫に画材が増えて、立てられたイーゼルの前に背もたれのない椅子が置いてあるだけのアトリエ。その空間こそが何よりフェッロがサン・クール寺院に住んでいる事の証しのように感じられて、何故だかビアンカは不思議な気持ちになった。これまでに見てこなかった風景だからだろう。
サン・クール寺院にフェッロが住むようになって、随分なじむようになった頃。守門の話を持ちかけられた時にもホープは口にしていたが、本格的にフェッロに子守をさせる気になったのか、司祭は子供たちをよろしく頼むよと言い添えて出かけていった。それで彼は子供たちが多く集まっているところにやってきたのだ。子供たちは庭で遊んでいた。
孤児院には様々な子供がいるが、まだ十歳にならない子供たちが少しでも集まれば賑やかになるというもの。この日も子供が悲鳴をあげるかのように騒ぎ遊んでいた。
「ビアンカ姉ちゃん抱っこ!」
「えっずるいあたしもー」
子供たちは、大人に持ち上げられるのを好む。視界が上になるのは楽しいのだろう。ビアンカは、細い腕で子供の期待に応えてやる。いくら幼いといっても、子供の身体は軽くはない。
「ビア姉ーおれもー」
腕は何も持たずとも重くなってきたが、内心で疲れてきても、ビアンカはそうすぐに言えなかった。子供たちをがっかりさせたくはなかった。こんな事で彼らが喜ぶのなら、何だってしてあげるつもりだ。
「あ、フェロいるよ!」
そこにフェッロがやって来たものだから、子供たちは違う大人で遊ぶ事に決め、離れた場所にいたはずの彼に群がった。ビアンカと違って、フェッロは子供の身体を持ち上げたりはしない。それなのに――身長が高いから登り甲斐のある山とでも思っているのか――むやみやたらに取りついた。結局フェッロは抵抗しないから、子供たちは離れたりしないのだ。
小言を言ったりはしない大人に子供が取りついて遊んでいて、フェッロはどんどんと重くなる身体に「重い」とこぼしていた。さりげなく殴られていても気にもしない巨木のような男を、子供たちはきっと公園の遊具の一つとでも思っているのだろう。
唐突に、強い風が吹いた。
「きゃっ」
短い声に、フェッロは離れたビアンカに視線をやる。流れる黄金の髪。白いベールがふわりと舞った。
「あ、飛んでった」
子供の一人が冷静につぶやく。ビアンカのベールを子供が指で引っかけてしまい、それを直そうとピンを外していたら、今度は強い風で飛んで行ってしまったのだ。それも、寺院の敷地の外へと。
「おれが取りに行くから」
言うなりフェッロはすぐに飛び出した。
取ってきたベールを渡す前に、フェッロは髪のすべてがあらわになったビアンカを見つめた。背中に流れるほどに長い金糸の髪は、ゆるやかなカーブをまとっている。
「なんか、ベールがないと見慣れなくて変な感じがする」
変、と言われてビアンカは衝撃を受けた。他意はないのかもしれないけれど――何かがぐさりと刺さった。自分の髪に寝癖でもついていただろうか、それともゴミでも? ビアンカは手櫛で髪をすくが、頬が赤くなるのだけは止められなかった。
「……でも、うん」
何ですか?! 聞きたい気持ちをこらえながら、ビアンカはうつむいた。
やわらかな、重力が飛来する。ビアンカの黄金の髪の上に。
(あ……、手……っ)
彼の手が、ビアンカの頭に触れている。尚更顔が上げられなかった。あんまりに顔が熱いので、それは髪に触れるフェッロにまで伝わってしまうのではないかと、心臓がうるさくなった。ビアンカはそれを悟られたくはなかったけれど、振り払う事も出来なかった。
ふと失われた優しい圧力に、心もとなく感じながらも、自分の目の前にベールが現れたのを見て、ビアンカはとにかくそれにしがみついた。離れて行ったフェッロは何も言わなかった。
彼が分からない。寡黙というほどではないはずが、意外にもものを語らない青年だ。だからだろうか、知らないうちに目で追ってしまうのは――。
熱い頬が、いつまでたっても冷えてくれなかった。
その日の事を、ビアンカはよく覚えている。前後の記憶やその日の仕事内容などは少し曖昧だが、オーシの瞳だけは、彼女から離れなかった。
昼下がりの、年少組は昼寝をさせて、年長組も自由時間を与えられて、雑談などをしていた時間帯だった。
穏やかなはずだった孤児院に、小さくない声が響き渡った。
「うるせえ! ビアンカにおれの何が分かるんだよ!」
少年は、何かをこらえるような瞳をしていた。ゆるがせた瞳が、痛切に何かを訴えているのに、少年はそれ以上何も言わなかった。思いを口にする代わりに、あふれる感情を発散させようというかのように、勢いよく寺院を飛び出した。彼と年の近い少女が、「あたしが行くから」とそれを追う。
ビアンカはしばらく黙りこんだままだったが、時間がきていたので、他の子供たちに孤児院の中に入るように言った。
寺院を出て行ったのは、十二歳のハーフエルフのオーシだ。最近多感になってきたため、周囲にとげとげしい態度をとる事が増えていた。何がきっかけであったのだろう、ビアンカはただ将来の夢について皆と話しをしていただけだったはずなのだが、彼女の言葉がオーシを苛立たせてしまったらしい。明確に理由が分からない事が悲しかった。
将来の事は誰だって不安だ。家族もなく、寺院を出て行く日を思うとおそろしくなったっておかしくはない。オーシは、常々自分がハーフである事を気にしていた。だから捨てられたのだと。彼の出自は分からないのだが、気がつくとティル・ナ・ノーグに一人でいたらしい。
オーシは、ビアンカにある人を思い出させる。最近のオーシは話しかけてもあまり楽しそうにはしてくれず、とっつきにくくなったが、騎士団をかっこいいと憧れ、年少の子供とも遊び相手になってやれる子だった。面倒見がいいというほどではないのだが、孤児院の中でも年長であるために、誰かに頼られれば文句を言いながらも手伝ってやる――そんなところも“あの少年”と似ていた。
そろそろ孤児院をはなれる未来が近いオーシの事は、中でも気にかけていたというのに、この様だった。
誰かに話をしたくとも、ホープもリーシェも出かけているし、フェッロもいつの間にか見かけなくなってしまった。その上、オーシは自分のいないところであれこれ自分の話をされるのが嫌いな性質だ。子供たちに勉強を教える時間だと、支度をして、ビアンカは一人寺院の回廊を歩く。
誰もいない訳でもないのに、寺院がさびれて見えた。
日暮れよりも前に、不機嫌顔満載の少年が少女に連れられてサン・クール寺院に帰って来た。オーシは、寺院の敷地外でうろうろしていただけらしい。彼を追えなかったビアンカは自分が恥ずかしかった。オーシは、ビアンカと顔を合わせてもふいと顔をそむけてしまい、すぐに自分の隠れ家にしている衣装箪笥へと逃げ込んでしまった。後で話をしなければならないと知りながらも、お互いに今は時間を置いた方がいいのかもしれない。
ビアンカは、自分が両親そろってるのに、幸せに暮らしてるのに孤児院にて孤児を助けられると思うのはおごりなのではないかと感じている。
自分に何が出来ているのだろうかと。
その修道女は、礼拝堂の中で静かに瞳を閉じていた。
しばらくすると他者の足音がしてきたが、瞼は上げないままでいた。
「ビアンカ、ホープ司祭が呼んでるみたい」
声はフェッロのものだったから、背後には彼がいるのだろう。
「……はい。少ししたら向かいます」
気持ちを落ち着かせたかった。ビアンカはすぐにはそこを動こうとはせず、長いまつげを伏せたままだった。用事を済ませたはずのフェッロが、なかなか立ち去る気配がないどころか、ビアンカの隣りに腰掛けてきたので、彼女はやっと目を開いた。
この時のビアンカはほんの少しだけ放っておいてほしかったから、何故フェッロはここにとどまっているのだろうと、一瞥だけした。
「……何か、まだご用がありました?」
フェッロは考えこむように沈黙した。
「んー、礼拝堂はきれいだなあと思って」
天上画でも見に来たかのような口ぶり。まったく普段通りのフェッロ。ビアンカの事で何かを察していたのではないのか。全くいつも通りの彼に、ビアンカには困ったような笑いが浮かぶ。ごく自然に脳裏をよぎるのは、今いる礼拝堂で起こった出来事。
「あの、フェッロさん、あの時――」
一度落ち込んだせいか、反対に奇妙な勢いがついて、急に“あの時”の事を聞く気になった。ビアンカがずっとずっと気になっている、フェッロの涙の理由を――。でも、勢いに任せて聞くのは公平じゃない気がして、ビアンカはかすかに首を左右に振った。
「ううん、なんでもないんです。私、最近……失敗ばかりで……。本当は、もっといろんな事から子供たちを守ってあげなきゃいけないのに、全然で」
ごまかすみたいに口にしたのは、それでも本音だった。孤児たちが守られるべきなのは、ビアンカのような両親も健在である人間に対して感じる引け目からも、守られるべきなのだ。それなのに、ビアンカは飛び出していったオーシと向き合う事もまだ出来ていない。これじゃあ、子供の頃と何も変わっていない、成長出来ていないではないか。とても落ち込んでしまう。
フェッロは口を開いた。
「出来ているよ」
意外にもビアンカの傍から声が聞こえた。
フェッロは、がしがしと頭をかいている。
「ビアンカはもっと自分の事を知らないと。子供たちは君が頑張っているのを見てる。知っている。君が自分のために動いていると知って、子供たちはうれしいみたいだ。大事なのは子供たちの笑顔なんじゃない? それをもたらしたのは君なんだ、何も出来てないはずがない」
あ、この人、瞳の灰色に紫がかっているんだ。
ずっと遠目から見ているだけだから分からなかった。
とてもきれいな瞳だった。いつも、長い前髪の奥に隠れているから、穢れから守られているのだろうかと思うほどに。ねむたげな目は少し持ち上げられ、ビアンカを真正面から見ている。
今日の彼は饒舌だ。フェッロが他者に対して思っている事をここまで表に出すとは、思っていなかった。いつも通りではない事がいくつもあるせいだろうか。ビアンカの胸の奥がさわさわとざわめきはじめる。
「知らないの、子供たち、いつもビアンカの話ばかりしてるんだよ」
寺院で働くようになってからフェッロも子供たちと多く接するようになった。孤児院の子たちから、いろいろな話をきくようになったのだろう。
「上手くいかない事があっても、ビアンカの彼らを思う気持ちは、変わらないんでしょう?」
ビアンカは、どうしたらいいのか分からなかった。
この人が、こんな事を言うなんて、思ってもみなかった。
奇妙に身体の真ん中あたりが落ち着かない。
どうして、この人はこんな事を言うのだろう? どうして、この人はこんなにもビアンカをふるわせる言葉を使うのだろう? どうして――
「元気出して、ビアンカ」
簡単な言葉なのに、フェッロの紫のにじむ灰の瞳が優しかったから――
ほんの少しだけ、泣きそうになった。
ビアンカは、この人にはかなわないなあ、とあたたかな想いが胸にじんわり広がるのを感じていた。
苦しくて、あったかい。泣きたいのに笑いたい。
こんな想いは、他になかった。
***
くしくも、かつてホープが感じた事とビアンカの不安はほとんど一致していた。
定住者でありながら、旅人のような瞳を持つ男。フェッロ・レデントーレの心はどこか他所へと向かっているのではないか。
だから、かえらぬひとに、ここまで不安になるのだ。
戻ってきてください、フェッロさん。
あなたがいると、落ち着かないのに、あなたがいないと、もっと落ち着けません。
すべて困惑のもとは、あなたが作る。
不安を私に与えないでください。
私は、あなたが――……