2 「お礼をさせてくれませんか?」
ビアンカは自覚のない迷子だった。地図がしっかり読める者と比べれば道に迷いやすいのだが、とりたてて方向音痴というほどではなかった。時々こちらだろうと誤った道を進んで、それが間違いだったと気づくのに時間がかかる。この時もそうだった。
「おおー修道女のねえちゃんじゃん」
狭い路地に入り、人通りの少なくなった頃からおかしいと思いはじめてはいたのだ。見も知らぬ相手に話しかけられるとは思っておらず、ビアンカは内心わずか困惑した。それも、相手はビアンカよりも上背のある男二人だ。
「かわいいね。ちょっと、道聞きたいんだけど、その前にお茶しない?」
楽園とも謳われる都市ティル・ナ・ノーグ――アーガトラム王国最大を誇る都市なだけはあって、楽園にもナンパをする男は存在するのだった。最初は二人だった男が、いつの間にか四人に増えていた。
「あの……私も道を間違えたようで……ご案内する事は出来ないです」
「あー、じゃあいいや。お茶でも飲もう」
「ですが、道がわからなくなったのではないのですか?」
きょとんとした様子のビアンカに、男たちはにやにや笑いを止められなかった。
「あのね、俺たち目的地までの道はわかんないけど、ここがどこだかは分かってんの。だから、行きつけの店の場所もよおーく分かってる」
「そうそう。美味いお茶が出る店なんだよ、行こう」
ビアンカはうろたえる。どう断ったものかと。本当にただ喫茶店への同行を頼まれていると思っていたから、とにかく自分には用事がある事を強調して断らなくては。そもそも用事がある事は真実なのだから、早く正しい道に戻って目的を果たさねばならなかった。
「大丈夫だって、ちょっとの間だし」
男の何が大丈夫なのだか分からないような言葉に、不安を抱きながらもビアンカは心を決めた。明るい緑の瞳を決意にひらめかせる。
「私……用事がありますから、申し訳ないのですが」
「なんでー? いいじゃんちょっとの間だけだしさ」
「本当に、急いでますのでっ……!」
にわかに男の一人の顔が不機嫌そうにゆがめられる。まとう空気も、ゆがむ。
「いいから、来いよ!」
ビアンカは腕を引っ張られた。彼女にしてみれば、腕が抜けると思うほど、強く。
「きゃあっ!」
放して、叫ぶよりも早くビアンカの涙腺が働きはじめた。痛みに涙が出そうになるが、ふいに加えられた力が、消えた。
いつの間にか閉じていた目を開けると、ビアンカの目前にいたはずの男がいなくなっている。その男は彼女の視界の端で地面に転がっていたのだが、今はそれすら目に入らない。仲間を蹴倒した相手をにらみつけるは邪魔をされた男たち。
「なんだ、お前?」
「ちっ。うせな」
ビアンカもやっと振り向くと、そこには、白い髪で顔の大部分を覆った青年がいた。両手に手荷物を持って、立っているだけに見えた青年は、次の瞬間にはビアンカを取り囲む男の一人を蹴り出していた。青年の腰からさがる剣が揺れるが、それを使う様子はない。
ビアンカの目にはあっという間に、男たち四人を青年が倒してしまったように見えた。彼らは一人として自分の足で立てるような状況になかった。
この青年は、ビアンカを助けてくれたようなのだが、どうにも長い前髪のせいで表情が分からず、戸惑ってしまう。
「……この野郎!」
突然、倒れていたはずの男が一人立ち上がり、青年の背後から拳を振り上げるのが目に入る。ビアンカはほとんど悲鳴を上げるように口を開いた。
「後ろっ……!」
青年はさっと振り返り、相手の腕を掴むとそのまま身体を地面に叩きつけた。
投げ飛ばした男から視線をはなした青年の、灰がかった白い前髪がゆれて、ビアンカを見ているのが分かった。灰色の目をしていた。
「行こう」
彼はいつまでもこの場にいるのは得策ではないと判断したのだろう、ビアンカの腕を引いた。先ほど男の一人に引っ張られた右手とは反対側だったが、不思議とこの青年には怖さを感じなかった。青年が速い速度で道をゆくのに、置いていかれないようにとしていたら、ビアンカはある事を思い出した。
「あ、あなたの荷物が」
青年を最初に眺めた時には、両手には荷物を持っていたはずが、今はそれはない。おそらく青年が荷物を手離すきっかけを作ったのはビアンカだ。だが気にかけているのはビアンカだけのようで「いいから」と返ってきた。
走るほどではないが速い足の青年の後頭部ばかりが目に飛び込んでくる。ビアンカは、ふわふわ、ゆらゆら、ゆれる白い髪をただ見上げていた。
二人は、大通りにたどり着いた。ビアンカもよく知る道で、人通りも多い。先ほどの場所からは離れたし、これだけの衆人環視があればもう安全だろうと判断した青年は、ビアンカの手を離した。
ビアンカは何も語らないままの青年に、やや当惑しつつも彼を見上げた。まだ顔もまともに見せてもらえないままだが、前髪の向こうの瞳がビアンカを向いたのが分かる。
「気をつけた方がいいよ」
ここに来てビアンカも、先ほどの男性陣がただお茶を共にしたいだけの人物だとは思っていなかった。強く引かれた腕も痛かったし、彼らの瞳は威圧感だった。
対する目の前の青年は、帯剣しているというのに一度も抜かずに男たちを倒してしまった。素手であれだけ強いなら、剣を使う必要もなかったのだろう。ビアンカには青年が非番の騎士に見えて仕方がなかった。アーガトラム王国が誇る、武芸に礼節をたしなんだ騎士たちの集うティル・ナ・ノーグ天馬騎士団。町の治安を維持する事も彼ら騎士の仕事であるために、この青年が騎士団員というのはありえない話ではなかった。揉め事の仲裁に入ってくれたのだから。
「……はい。あの、お強いんですね。騎士さんなのですか?」
「画家だけど」
即答されたそれに、ビアンカはすぐには対応出来なかった。天馬騎士団の一員でなくとも、剣士か何かと思っていたのだが、まさか――画家だとは、考えもつかなかった。画家と剣士、まるで正反対の位置にいるように思えてならなかった。
ビアンカの沈黙をどう受け取ったのか、青年は口を開いて何事かを告げようとした――自身の腹の音に妨げられるまでは。
とりわけ大きな音ではなかったが、控えめではない、主張。ビアンカはそれに気がついてしまった。そして、先ほど青年が放り出した荷物の中には黄金林檎が紛れていた事も思い出す。あれは、青年のご飯の材料だったのでは?
「よろしければ、お礼をさせてくれませんか?」
ビアンカはおずおずと切り出した。青年の長い前髪では、なんと思っているかが見て取れないために、かすかな不安を伴いながら。
ビアンカが同行者を伴ってサン・クール寺院に戻ってくると、子供たちは彼女を取り囲んだ。
サン・クール寺院には、孤児院が併設されており、そこの子供たち――年少者は特に――は明るいうちは外でよく遊んでいる。目ざとく見つけるのは、見知らぬ青年の姿。
「あー! ビアンカ姉ちゃん誰その人ー!」
「前髪なっげ!」
「剣だ剣だ!」
「誰?」
五・六人の子供たちに群がられて、青年はわずか身じろぎしたようだ。ビアンカは、自分に抱きつく子供の頭を撫でながら、かいつまんで事情を話そうとする。
「お客さまですよ。あ……私ったら……失礼しました。まだ名のっていませんでしたね。私は、ビアンカ・ボードワンと申します」
寺院に来る間にも時間があったというのに、自分の失敗に慌てて口元を押さえるビアンカとは対照的に、青年は、
「おれはフェッロ。画家です」
と簡潔に答えた。
寺院の食堂へと来るまでに子供たちにいじられ、どつかれ、よじ登られて、フェッロの髪は乱れていた。前髪はむしろ目元から離れて、瞳がよく見えるようになっている。半分以上閉じられた、まどろんでいるかのような瞳。前髪がなくとも、感情の読み取りにくい人物だった。
簡単な食事をもらったフェッロは、残さず食べると「ありがとうございました」と丁寧にお礼を言った。
声音も表情も、感情のこもらないものだったが、その灰の瞳がビアンカをきちんと見ていたので、きっとよろこんでもらえたのだろう。
「いえ、こちらこそ、本当に助かりましたし……。あっ、そうでした。あの、私、画家さんだとお聞きして、見せたいものがあってこちらまでご足労いただいたんです」
日暮れが近い。目的地に行くために少し屋外に出たら、夕暮れがはじまろうとしていた。空の薄い水色は続くものの、西が明るく染まりはじめていた。夕暮れの朱色の空に、交じり合う昼の青。ビアンカは一度それを見上げた後で、フェッロを礼拝堂へと先導した。
サン・クール寺院の礼拝堂には、荘厳な天井画が存在する。ビアンカもその文化的財産としての天井画の価値をよく知る一人で、サン・クール寺院には天井画を楽しみに訪れる者も多くいると経験から理解している。画家なら尚更よろこんでもらえるだろうと思ってここまで案内したのだ。
「へえ……」
最初こそ、穏やかな先ほどと変わらぬ調子の声でフェッロは天井画を見上げていた。それでもかなりの長い間、画家は顎を持ち上げたままでいた。静まった礼拝堂に、ビアンカはあまり楽しくなかっただろうかと不安になり、少しだけ足を動かしフェッロの顔色を伺った。
思わず、息を忘れた。
ビアンカは見てはいけないものを見てしまったのかもしれない。画家の青年は天井を見上げたままで、一筋の涙を流していた。感情のうかがえぬ顔のまま。
誰かが泣いていたら、心配になるのは当然だ。ビアンカは孤児院の子供がケンカの末に泣いてしまうのをよく目にしてはいたが、大の大人の男の涙など――見た事が、なかった。
視線をそらすべきだったのに、ビアンカはそれが出来ず、自分の涙にも気づかずに天井を見る画家に、目を奪われていた。
サン・クール寺院の天井画は素晴らしい。それでも、彼がここまで感動するには、別に何か理由があるのではないか。
一体、彼に何が――?
ぎゅうと心臓が縮まった。ビアンカは、思わず服の上からそれを抑え込もうとするかのように、胸の前で拳を握った。
どれくらい時間がたっただろうか。そう長い間ではなかったはずが、フェッロはいつまでたってもこちらを見てくれないような気がしていた。ビアンカが近くにいる事も何もかも忘れて天井画に意識を注ぎこんでいる。そんな風だった。
と、フェッロは首を動かして視線を下ろしていった。前髪をかきあげようとした拍子に触れたといった風に、やっと冷えた頬に気がついた。彼はまるで目やにを取る子供のように目元をこすると、何事もなかったかのようにビアンカを振り向く。
「ありがとう。見れてよかった」
声にわずか喜色がにじむものの、何事もなかったかのように口にする。先ほどの涙を見ていなかったら、ビアンカは気に入ってもらえなかったのだと思い込んだだろう。
「……あの、」
「礼拝堂に居たのかい、今戻ったよ、ビアンカくん。おや、どなたかいらっしゃるみたいだね」
何を思ったのか聞いてみたい――ビアンカの勇気は打ち砕かれた。陽気な男性の声によって。
残念ではあったが、ビアンカはきっとあの後何も言葉を続けられなかっただろうから、これでよかったのかもしれない。
礼拝堂のビアンカたちの元へとやって来るはビアンカのよく知る人物で、司祭のホープだ。彼は用事で出かけていたのだが、ちょうど今戻って来たところなのだろう、荷物はそのまま手にしている。
「司祭……おかえりなさい。こちら、画家のフェッロさんです。フェッロさん、こちらはサン・クール寺院のホープ・ノルマン司祭です」
ビアンカがフェッロに世話になった話は、少なからずこの司祭にも話す事になるのだからと紹介をしたが、この時はまさか、フェッロが将来どんな職業に就く事になるかなど、ビアンカは予想もしていなかった。
「へえ! それなら、画家だけど、剣士でもあるんだねえ。すごいねえ。ビアンカくん、彼の太刀筋は見たかい?」
三人で食堂へと移動して、ホープに事の顛末を説明すると、彼はただでさえ下がり気味の眦を下げて饒舌になった。フェッロの剣も珍しいものだったので、見せてくれとせがんだほどだった。弓のように弧を描く片刃の剣は、“アンシャール”という名で、よく手入れされており光を反射していた。
「いえ……一度も使わずにいらっしゃったので……」
「じゃあ素手でも相当の手練れな訳か。すごいね」
ホープは柔和な笑みを深めて楽しげですらある。
「フェッロくんは、どちらのご出身かな?」
「オグルブーシュです」
「もしかして、有名な護衛剣士の家柄だったりしないかな? オグルブーシュで有名の」
「有名かどうかは分かりませんが、代々護衛剣士を続けるレデントーレの姓を持ってはいます」
何の感慨もなさそうにフェッロは答える。その瞳には何かを突き放すような色が見えただろうか?
これはホープの勘違いだろうか。少しだけ、この青年の眼差しに寂寞としたかげりが見えるようで――。つとホープは組んでいた自分の両手を組み替えた。
「うーん、家名までは聞いた事なかったんだけど。でも、代々剣士の家柄なんだね?」
フェッロははいと頷いた。ホープがみるみるうちにフェッロの個人情報を引き出しているのを、ビアンカは奇妙な気分で見守っていた。ビアンカの方が先に知り合ったはずなのに、今やホープの方がフェッロについては物知りのように見えた。会って間もないのだから、まだ問う事も出来なかったのだと言っても、ビアンカはホープほど彼に質問を重ねたり出来なかっただろう。
「でも今はティル・ナ・ノーグに住んでいる。それで、画家の仕事はどうかな、かなり忙しいのかい?」
フェッロの前髪は再び瞳を隠す仕事に戻り、人相が見えないのにも関わらず、ホープは気にもしてないようだった。間を置いて画家は口を開いた。
「……独立したばかりで、まだ仕事らしい仕事はないです」
画家になるにはまず画家工房の見習いからはじめる。そこで親方に鍛えられ充分に技術を習得して、やっと独立出来る。だが独立するという事は工房の庇護下から離れるという事。完全な独立をせず工房での仕事も手伝いつつ自分の仕事をする者もいるが、フェッロは工房からは離れてしまった。世間は新米には優しくはない。まだ名も通らぬ若造よりも経験豊富で技量もたくわえた、親方か、その庇護下にある工房に出入りしている者の方が、仕事が舞い込む確率は高い。
詳しい事情は分からなくとも、若者が順風満帆に仕事を進められるのはよくある事象ではないと知るホープは、だいたいの事は察せてしまった。しばしホープは黙りこんだ。組んだ手を解いて、右手を口元に添える。食堂は声を発する者のいない場所となった。
頬杖をついて瞳を閉じていたホープは、その手を離し急に背筋を伸ばすと画家の青年を正面から見つめた。
「……うーん……。ものは試しだ。言ってしまおう。フェッロくん、君は、うちの寺院の守門をやるつもりはないかい?」
「……え?」
さすがのフェッロも、驚いたような声だった。