1 「フェッロさんは、優しいですよ」
この小説は、多人数参加型西洋ファンタジー世界創作企画『ティル・ナ・ノーグの唄』の参加小説です。
この世界観では“バレンタインデー”は“ライラ・ディ”となり、“ホワイトデー”は“リ・ライラ・ディ”となっております。
あなたが、ぼんやりとしながらも、ここではないどこかを見つめているから、“あの日”のように地上よりもはるか遠く、その向こう側をのぞむようにしているから、こんなにも、胸の奥が窮屈なのでしょう。
寺院の庭に座って、長い前髪の隙間から見せる瞳は、どこも見ていないようで、空よりももっと高く届かない場所を見ているのを、私は知っています。
そんな時、私は、置いていかれるような気分を感じるのです。
あふれそうになる言葉を、我知らずこらえるのです。
胸が騒ぐのを、おさえこむのです。
***
穏やかな天気の多いティル・ナ・ノーグには珍しく、風のある日だった。はるか上空では、雲が風に追いやられるのが見える。まるで、ビアンカの不安な気持ちをもあおるような強い風だった。
激しく動く雲が騒ぐように落とす影に、白亜のブランネージュ城の外壁もかすかにくすんでそびえる。そんなブランネージュ城から離れた場所、サン・クール寺院の食堂にて――ビアンカとホープは顔をつき合わせて話しこんでいた。
サン・クール寺院の修道女であるビアンカ・ボードワンは明るい緑の瞳を曇らせて、今にも切なげな吐息をこぼしそうな様子だ。清廉とした美しさを持つ彼女が、そうしているのはいかにも儚げで、力になってやりたいと思わせるようなおもむきがある。
「やっぱり、騎士団に相談に行った方が……」
「でもまだ三日だしねえ」
対するホープ・ノルマンは普段の穏やかな表情のままだった。サン・クール寺院の代表である司祭の彼が、何かあっても誰よりも泰然と構えていなければならないのは、ビアンカもよく分かっているが、目尻の下がったままのホープは、事態を楽観視しているように見えてしまう。
「もう三日、です」
「何がもう三日なの?」
二人のところにひょっこり顔を出したのは、小柄な少年だ。その背後には彼の護衛のようにひかえる、ふかふかした身体の大型犬。時折サン・クール寺院に足を運ぶセヴィーリオ・ハルトとその忠犬リューンのコンビだ。セヴィーリオの父親は頻繁ではないにしろ、平素よりサン・クール寺院に奉仕にやってくる人物だ。その縁もあるだろうが、セヴィーリオはあちこちに顔を出す活発な少年、こうしてやってくるのも珍しい事ではない。
「あら……セヴィくん」
「こんにちは、ビアンカさん。それに司祭さま」
「おやおや、セヴィくん、またおうちを抜け出してきたね?」
こう見えてセヴィーリオは身体があまり丈夫ではない。そのために父親に無闇と出歩くのを禁じられているのだが、遊びたい盛りの十歳の男の子が、じっとしていられるはずがない。身体を鍛えたいというセヴィーリオの気持ちも分かっていて、具合が悪くならない限り、寺院の人間は彼の父を呼び出すような事はしない。
「えへへ、パパには内緒だよ。それで、何が三日なの?」
そんなセヴィーリオと、彼に付き従う従者を見て、ホープはビアンカにだけ聞こえるように声をひそめた。
「……ビアンカくん……犬の嗅覚を頼ってみるのはどうかな」
「……司祭、もしかして、捜査犬をしてもらおうと? それだと……セヴィくんまであちこち走らせる事になってしまいます」
危ぶまれるのは、リューンと一緒になって町中を出歩く事になるだろうセヴィーリオの事だ。何もとじこもって療養すべきと思っている訳ではないのだが、同じように身体の強くない弟を持っているビアンカとしては、すぐに頷く事は出来ない。
「何かを探す話をしてるの? リューンが役に立てるかな?」
大人の心配事など吹き消すかのような明るい笑顔に、ビアンカとホープは顔を見合わせた。
「頼んでみようか」
「ですが、もし遠くに行っていたら、やっぱりセヴィくんには徒労ばかりをかけるような事になってしまいます」
「ビアンカくんは心配性だなあ。じゃあセヴィくんには私がつきあうから、ビアンカくんは引き続き聞き込みをお願いするよ」
ビアンカは修道女であると同時に、サン・クール寺院に併設された孤児院の管理者でもある。生来心根の優しい彼女だがとりわけ、子供に関する事象には他よりは過敏になってしまう。
相手方がきちんと思いを口にしてくれるのを待つセヴィーリオ少年の錆浅葱色の瞳は、かわいらしげでありながらもどこか頼もしく見えた。まだ言い足りないようなビアンカを後目に、ホープは少年へと顔を向ける。
「セヴィくん、ちょっと頼みがあるんだけど」
――三日前の事だ。
いつものようにサンクール寺院では、ホープ・ノルマン・噂話好き・司祭が実に楽しげに張り切っていた。
「聞いたよビアンカくん! フェッロくんにライラ・ディにチョコを渡す事が出来なかったんだって?」
フェッロはサン・クール寺院の守門であるが、本人の預かり知らぬところで――というより何も気づいていない――ホープの恋愛妄想の餌食になっている人物の一人である。
このホープという司祭は、娘のようにかわいがるビアンカの力になってやりたいと思うあまりに、彼女が公言せずとも思いを向けている相手、フェッロ・レデントーレとの仲人になろうとしているのだ。フェッロの事もホープはよく目をかけており、そんな二人が一緒になったらいいなあという思いを、本人たちそっちのけでひたすら暴走させている。
「し、司祭……! 声をおさえてください!」
彼の口をふさいでおくのは難しい、ならばせめて声を小さくしてもらいたいビアンカである。それよりもむしろ、今の話題について何故知っているのかという方が疑問であるが。
「それどころか、フェッロくんに逆にチョコもらっちゃったんだって? それで今度はリ・ライラ・ディにお返しをあげるんだね? リベンジだね! 今度こそちゃんと渡せるようにいろいろと手伝える事があると思うんだ」
入り組んで込み入った複雑な乙女心を、自分の気持ちを公言するつもりはないはずのビアンカの事を、狼狽させるにはホープの言葉は多くなくとも充分だった。
「ななな、何を、お、おっしゃってるんですか……?」
家族や友人にも親愛の印として日ごろの感謝を形にして送る日――しかしその多くの意味は、女性が男性に特別な間柄になりたいという気持ちをこめた嗜好品を贈る日、と認識されるのに使われている――それが“ライラ・ディ”。
当日、ビアンカはちょうど時間があったためトリュフを作ったのだが、彼女は渡そうとした相手に、チョコレートをもらってしまった。ならばそのお礼にとビアンカのトリュフを渡せるはずだったのだが、フェッロが更に取り出したのは、どこをどうしたらカカオをそこまでの芸術品に昇華させる事が出来るのかという目を疑うような美麗な物体だった。
フェッロはほかにも、サン・クール寺院で祀られている“空の妖精ニーヴ”と“海の妖精リール”の御姿を写し取ったチョコレートの彫刻に、ガート――鳥の羽のような長い耳とふわふわした尻尾が特徴の動物――を立体に起こしたチョコレートまで精製していた。
チョコレートと思えないほどの素晴らしい作品を見せられては、ビアンカの簡素なトリュフなど差し出すのも難しい。何とか勇気を振り絞れば、フェッロの目に触れさせる事も出来たはずが――タイミングが悪すぎた。フェッロのチョコレートを見つけた孤児院の子供たちが押し寄せてきて、ビアンカは機会を失った。それからはチョコレートパーティがはじまり、渡せなかったものはそのままになった。
たとえビアンカがライラ・ディに目的を果たせていても、フェッロが相手では翌日からの対応も普段通りだったろう。意中の男性がいる女性にとっては非常に重要な日であるライラ・ディを、チョコ工作の日だとでも思っているような情緒のない男が相手では、しばらくはホープも何も気がつけなかった。
しかしどこから聞いたのか、ビアンカがひそかに再挑戦を狙うリ・ライラ・ディ間近になってきて、ホープは例の“癖”を発揮するようになった。
「大丈夫、今度は私がライラ・ディとリ・ライラ・ディについてきちんとフェッロくんにはいろいろと教えておいたから! そうだね、リ・ライラ・ディ当日には寺院のみんなで遠足に行く事にしようかな、ビアンカくんとフェッロくんが二人っきりになれるようにね」
リ・ライラ・ディはライラ・ディにお菓子を贈られた男性が、相手の女性にお返しをする日となっているが、逆にお返しを贈る側になったという気恥ずかしさもあるというのに、このホープ司祭は何をいうのかと、ビアンカの顔に血を集めさせた。
「よ、余計な事はなさらないでください!」
そんな話をしていたのを、ビアンカはよく覚えている。この日がフェッロがいなくなった日ではなかったとしても覚えていただろう、そう思わせるくらいにはホープは乙女心を刺激しすぎた。
怒りたいような落ち込みたいような気分になりかけていた頃、「二人とも」と、渦中の人物の声がして、ビアンカは心臓が口から飛び出るかと錯覚した。今の話を聞かれていたのだろうかと危惧するものの、全くその心配が要らないようなフェッロの、平然とした、通常通りの何を考えているのか分からない、ただ立っているだけのような姿があった。長い前髪の下にあるはずの瞳はよく見えず、口元だけでは表情を判断するのは難しかったが、何も言ってこないという事は何も聞かれていないのだろう。
「ちょっと出かけてくる」
守門である前に一人の画家でもあるフェッロは、よくどこか他の場所に絵画制作の刺激を探して出歩く事がある。この日もそうだったのだろう、格好も普段通り、持ち物は腰に巻きつけた小型の鞄と曲刀のみ。遠出するようには見えなかった。
「あ、フェッロくん、ちょうど君の話をしていたんだけどねえ、」
顔色を明るくしたのはホープだった。さすがに、乙女心を傷つけられたビアンカは優しくなれず、黙っていてとでもいうように眦を上げてホープに視線を送ると、彼は眉を持ち上げて口をつぐんだ。かすかにむくれつつもビアンカは、一歩前に出てフェッロに向き直る。
「お帰りは、いつになりますか?」
「……夕方ぐらいには帰りたい、かな」
断定ではなく願望だったが、その日のうちに帰るつもりはあるのだろう。まったく彼らしい返答に、ホープとビアンカはそれぞれ、見送る言葉を口にした。
「行ってらっしゃい」
「お気をつけて」
そうして、なんて事のないように、立ち去る守門の背を見守ったのだ。いつの間にかいなくなる事もあるフェッロが、きちんと外出の旨を告げて出て行ったというのに、この日彼は戻ってこなかった。二日間も帰ってこなかった事もあるが、それでも三日と寺院をあけた事はなかった。
普段通りにしていたはずのフェッロが戻ってこない事を簡単に説明すると、少なからずフェッロと親しくしているセヴィーリオも驚きの声を上げる。
「じゃあ、フェッロお兄ちゃん、いなくなっちゃったの?」
「そうなんだよ、三日帰ってこない事ぐらい、前にもあったんだけど、ビアンカくんが心配性でねえ」
「三日はありませんでした」
生徒の間違いを訂正する教師のような口調のビアンカの頬は、朱に染まって見えなくもない。
「そこでリューンくんが活躍出来ると思うんだよ。お願い出来ないかな? フェッロくん探しを」
「うん!」
セヴィーリオは頷くと、相棒の頭を撫でた。リューンは分かっているのかいないのか、理知的な青灰色の瞳をきらめかせて、「ばう!」と応じた。
ホープとセヴィーリオ、リューンとは別れてビアンカは彼らの向かう先とは異なる地域の捜索をはじめた。
少し風は弱くなったものの、それでも木々は激しく揺れるている。ビアンカの不安も揺れるばかり。不思議なところがある人物と分かっていたけれど、三日も帰ってこなくなるとは、思いもしなかった。
「フェッロさんを、見ませんでしたか?」
名前を、あるいは特徴を並べて町のものに尋ねてまわった。フェッロはあまり顔が広い方ではないが、特徴を口にすると長い前髪などそういる人物ではないためか、「ああ、あの人か」と見かけるだけなら見たという返事が少なくなかった。とはいえ、それがごく最近の事かとなると話は別だった。
「さあ? そういえば最近見ないな」
「いえ、見てはいませんね」
「そういった容姿の方は、記憶にないですわ」
答えは否定ばかりだった。
街を歩きながらフェッロの姿を探していたビアンカだったが、見つからないまま。ちょうど、知り合いの店の前を通りがかったのでビアンカは顔を出す事にした。狭い店内にぎっしりと商品が並べられた日用雑貨店。“ミザッラ”の店主エフテラームは同じ女性で年も離れていないせいか、ビアンカに気さくに話しかけてくれる。
「おす、ビアンカ。いらっしゃい」
快活そうなローズピンクの瞳を細めさせて、エフテラームは手を上げた。この辺りではあまり見ないターバンを巻いて異国情緒溢れる服装を着こなすエフテラームはどこか蠱惑的でありながらも、豊かな表情の変化は悪戯好きの子供かのようであった。ビアンカは物は試しと、フェッロを見かけなかったか聞いてみる事にする。
「こんにちは、エフテさん。今日は買い物ではなくて……人を探してるんです。フェッロさんを見ませんでしたか?」
エフテラームは少し考えるように視線を上にしたが、すぐに首を振った。
「いや、見てねえな」
残念ではあったが、ビアンカも予想はしていた答えだった。エフテの店に来るまでにも一度もここ数日における目撃情報は得られなかったのだから。ビアンカが少しだけ事情を話すと、エフテラームは眉を寄せた。
「家出少年かっつーの。帰って来ないとか、どうなんだ」
エフテラームはフェッロともしっかり顔見知りではあるが、こうしてビアンカを心配させるような行為はいただけないと思っていた。この雑貨屋の主はいつでも女の子の味方なのだ。
「てゆうか、フェッロって悪いやつじゃねえってのは分かるけど、切れると暴れるし、普段は何考えてるかわかんねーよな」
特に嫌っているわけでもないし、エフテラームはあの生物を面白いとすら思っているのだが、普通の人間ならつきあいづらいだろうと知っていた。エフテラームは様々な経験をした旅人であるために、人の作る一般論を気にしない性質なのだが、ビアンカにしてみればあれとつきあうのは大変なのではなかろうか。そう思いちらと様子を伺うようにビアンカを一瞥する。
「……フェッロさんは、優しいですよ」
ビアンカが垣間見たとある出来事がある。それはフェッロに孤児院の子供たちの監督を頼んだ日の事。
遊んでいた子供たちのうちの一人が、なんらかの拍子で泣き出してしまった。フェッロは子供があまり好きではないようで、積極的に彼らに向かってはいかない。それでもこの時ばかりは子供たちの仲介を求めるような視線を受けて、子供たちの輪にやってきた。
原因を話したり自分は悪くないと主張したりする子供たちの中で、一人泣きじゃくる子供の手が伸ばされたのを、フェッロは拒まなかった。子供は、時に自分より大きな身体を持つ相手に全身を預けたいと思うもの。泣いた子はフェッロにしがみついていた。もしかしたらフェッロは困っていたのかもしれないが、口よりものを言うはずの目は前髪の下、ビアンカには推測しか出来なかった。その子が泣き止むまで、フェッロは子供を抱きしめていた。
「ふーん。まあ、子供に泣かれりゃ大抵のヤツは泣き止むようなんとかしてやるよな」
エフテラームは店の机に肘をついて、言う。もちろん世の中には子供嫌いも存在し、泣き出すとむしろ殴ろうとする人間がいる事ぐらいは分かっているが。
「でも、フェッロさんは子供が苦手のようなんです」
ビアンカの目には、子供が苦手というより何かに遠慮するかのように彼らから距離を置いて見えるのだが。苦手なのに、その相手を思いやる事が出来る。そう簡単に出来る事ではないと言いたかったのだが、エフテラームの目が光るのが見えて、次の話題を探そうとした。
「ふうううん」
「それに、それにですね――」
彼について話せる事は少なくはないはずなのに、一番古い記憶がよみがえった。
――あの日、あの人は涙を落としていました
ビアンカがフェッロにはじめて会った日の事。
何を見ていたのか。いくら画家だからといっても、彼にとって寺院の天井画が、それ以上の意味をもって彼の琴線に触れたのは間違いがない。もちろんビアンカにはそれを推し量る術はない。
あの日以来、彼女は――……。
「だから、その……」
何も告げられないまま我に返ると、そもそもの話の主題は何だったかを思い出し、今考えていた事は主軸から逸脱してしまうと気づいた。言葉が出てこないビアンカに、エフテラームは口角を上げる。
「アイツ、早く見つかるといいなあ?」
悪戯を思いついた子供のようなエフテラームの笑み。
気がつけばビアンカはずいぶんと長くエフテの店にいたようだ。慌てて立ち上がると、本来の目的ためにここを離れなければならないと思い出した。挨拶をするとビアンカはミザッラを立ち去る旨を伝え、エフテラームもそれに応じて挨拶をした。
「では、私はこれで」
ひらひらと手を振るエフテラームの瞳の輝きが、誰かの持つそれに似ている気がしたのは何故だろうか――。とにもかくにもビアンカは捜し人の消息を求めてまた道をゆくのだった。
夕方になるより早く、ビアンカは捜索を打ち切る事にした。一度寺院に戻り、もしホープたちがまだ出先にいるのであれば、少し待ってから彼らが向かうといっていた地域に行こうかと思っていたところ、先に寺院に戻っていたホープがそこにいた。
「やあ、おかえり、ビアンカくん。こちらは芳しい結果にはいたらなかったよ……。そちらはどうだった?」
ビアンカも同じだとただ首を振った。寺院に姿のないセヴィーリオとリューンは先に帰したとの事。セヴィーリオ自身も「パパに見つかる前に帰るね!」と急いでいたらしい。
けっきょくフェッロは、リューンの鋭敏な鼻をもってしても、見つからなかった。町中すべてを駆け回った訳ではないが、簡単には出てこないようだった。
この日もまだフェッロは帰ってこないようで、さすがにホープの表情も少し翳っていた。
夕暮れの朱色の空に、交じり合う昼の青。まるで“あの日”のようだった。ビアンカは、はじめてフェッロに会った日の事を思い出していた――。