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「星見の務めは不要だ」と婚約破棄されましたが、苔むした天文台の廃墟に二十二年分の観測記録が残っているので、私は王国の暦を止めます

作者: uta
掲載日:2026/10/14

「イレーナ、君との婚約を破棄する。星見の務めなど、もはや不要だ」


王城の大広間。王太子リュカの声が、磨かれた大理石に反射して、よく響いた。


隣には純白の衣の少女が立っている。半年前に現れた《神託の聖女》ミレイユ。祈るだけで神が星を教えてくださるのだという。


「イレーナ様、申し訳ありませんの。でも、もう夜に塔へ登る必要なんてないんですもの」


甘く伸びる語尾。悪意はないのだろう。悪意がないことが、いちばん厄介だということを、私は前世で嫌というほど知っている。


周囲の貴族たちがささやく。塔守りの娘風情が。毎晩星なんか眺めて。暗い女だ。


――ああ、聞こえている。十二年前から聞こえていた。


私は懐から手帳を出した。角の丸くなった、使い込んだ革表紙。ページをめくり、ペンを走らせる。


『第四の月、十一日。晴れ、雲量二。王城大広間にて婚約破棄の通告を受ける。立会人、王太子リュカ殿下、聖女ミレイユ嬢、他五十三名』


誰かが息を呑む音がした。


「何をしている。泣くでも喚くでもなく、手帳だと?」


「申し訳ありません。私の手は、感情より先に記録へ動く体質なのです」


本当です。前世からずっとそうでした。


インクを吸わせ、私は顔を上げた。


「……承知しました。では、来月の潮汐補正は、どなたの署名で発行されますか?」


会場が、静まり返った。


誰も答えない。グラスを持った手が止まっている。宰相ベルナルド様の眼鏡の奥で、眉がわずかに動いた。


潮汐補正。月に一度、港の魔石灯台の点灯周期と、魔力潮汐の高低差を再計算して王国全土に通達する作業。百二十枚の表を一晩で検算し、署名して封をする、あの、誰も見ていない仕事。


「……そんなものは、後で決める」


リュカは吐き捨てた。


私は手帳にもう一行書いた。


『殿下、「後で決める」とのこと』


ペンを差しに戻す。


「かしこまりました。王国法第七編、第百十二条。――星暦の最終署名権は、実測記録を有する星見師にのみ属する。念のため、申し添えておきます」


「何の話だ」


「後で決めるときに、必要になる条文です」


私は礼をして、背を向けた。


靴音が、やけに大きく響いた。誰も、何も言わなかった。


    ◆


翌朝、私は荷物をまとめていた。


私物は少ない。観測手帳が十二冊、ペン差し、母の形見の銅の分度器、着替え、それだけ。


王立観測院の職員室の扉が、乱暴に開いた。


「イレーナ!」


ハンナ・ロウ。五十五歳。前掛けはいつも粉だらけ。私が六歳でこの塔に通いはじめた日から、夜食の麦粥を運び続けてくれた人。


「ほんとに行くのかい」


「はい」


「あんた、十二年だよ。十二年、一日も休まなかったじゃないか。お母さんの葬式の夜だって、あんた塔に登ったんだ。そんな娘を追い出すなんて、この国は」


「休まなかったのは、私が続けたかったからです。国に褒められるためではありません」


「……そういうところだよ、あんたは」


ハンナは鼻をすすって、布の包みを押しつけてきた。干し肉と塩、それから。


「茶葉も入れといたよ。あんた、茶が無いと考えごとができないんだから」


「……ありがとうございます」


不覚にも、喉の奥が詰まった。


泣いているのはハンナのほうだ。私は泣かない。泣いている時間があるなら、荷物の重量配分を考えたほうがいい。山道を登るのだから。


「どこへ行くんだい」


「北の尾根に、旧第七観測塔という廃墟があります。百年前に放棄されたそうです」


「廃墟!? あんた、住むのかい、そんなとこに」


「屋根があります」


「屋根しかないだろうが!」


そのとおりでした。あとで知るのですが、屋根も穴だらけでした。


観測院の廊下を歩く。老職員たちが目を逸らす。昨日、聖女様の『神託暦』の原案に、承認印を押した人たちだ。祈って三日でできたという暦に。


誰も止めなかった。止められなかった。


私は彼らを責めない。責めても、記録は増えない。


門を出るとき、門番の若い子が小さく頭を下げた。私は手帳を開いて、一行書いた。


『第四の月、十二日。王立観測院を退職。晴れ、北風弱し。観測は継続する』


継続する。


それだけが、私の持っている、たったひとつの武器だった。


    ◆


私の前世は、日本という国の、地方の公立天文台の観測記録係だった。


発見者でもなければ博士でもない。毎晩同じ時刻に同じ座標を観測し、雲量と気温と星の位置をノートに書き写し、三十年分のデータを整理してアーカイブ化するだけの、地味な職員。


定年目前の冬の夜、私は台長室の椅子で、誰にも看取られずに息を引き取った。


三歳の高熱の夜、それを全部思い出した。思い出して、最初にしたことは、枕元の帳面に熱の数字を書くことだった。


母が笑って言った。「変な子ねえ」


記録は、取り続けた者にしか作れない。


それが、私の唯一の信条だ。


    ◆


旧第七観測塔は、想像以上にひどかった。


石壁は緑一色。苔が三寸も積もっている。ドームの隙間から日が射し、その日射しの下に雨水の溜まりができていた。つまり、晴れでも屋内が濡れている。


「……二十二年分の雨漏りを放置した先輩、そこは直しておいてほしかったです」


誰もいない廃墟で、私は誰にともなく文句を言った。


愚痴を言っても苔は減らない。削りました。


一日目。入口から五歩ぶんだけ苔を削った。手のひらに豆ができて潰れた。


竈の煙道が詰まっていたので、棒で突いた。鳥の巣と、鳥の骨が出てきた。黙祷した。


火を入れる。煙が逆流する。咳き込む。もう一度突く。今度は通った。


湯が沸いたとき、私は少し泣きそうになった。泣きそうになっただけです。


麦粥を炊いた。塩を入れた。ハンナの干し肉を削って落とした。


……おいしい。


王城の晩餐会で出た鴨のテリーヌより、確実においしかった。あれは味がしなかった。十二年、夜の仕事の前に食べるものは全部、味がしなかった。


二日目。雨漏りの箇所を数えた。十四箇所。板を探す。塔の裏に崩れた納屋があり、使える板が六枚。足りない。


優先順位をつける。寝床の上、竈の上、そして観測記録を置く棚の上。この三つだけ塞いだ。あとは桶を置いた。


三日目。床を洗った。井戸はまだ生きていた。釣瓶の縄が腐っていたので、荷物の紐で代用した。


水を汲む。流す。擦る。水を汲む。流す。擦る。


前世でもそうだった。観測ドームの床は埃が溜まる。誰も掃除しないから、私が掃除していた。三十年。誰にも褒められなかった。


褒められたくてやっていたわけではない。床が汚いと、足を滑らせて、機材を壊すからだ。


夜、ドームの隙間から星が見えた。


手帳を開く。


『第四の月、十五日。旧第七観測塔にて観測再開。雲量一。南中時刻、院の基準より……』


ペンが止まった。


……おかしい。


南中の時刻が、王立観測院の基準表と合わない。わずかだが、合わない。


私の懐中時計がずれているのか。それとも。


「……基準点が、違う?」


私はその一行に、赤インクで印をつけた。


後で調べる。今は寝る。寝ないと手が震えて、数字が歪む。


毛布にくるまりながら、私は思った。


――この床、なんだか、妙に平らだ。


百年放置された廃墟の床が、妙に、平らすぎる。


    ◆


四日目。石床の目地に、違和感を覚えた。


苔の下に、何かの溝がある。


私はヘラを持ってきて、こそげ落としはじめた。朝から昼まで。昼から夕まで。


指の皮が剥けた頃、それは現れた。


――格子。


床一面に、細い線が刻まれていた。縦の線、横の線。交点ごとに小さな数字。


私は膝をついたまま、動けなくなった。


座標格子だ。観測座標の基準線を、床に直接刻んである。百年前の星見師が、自分の立つ位置を永久に固定するために。


「……本物の、基準点」


震える手で、私は懐中時計と、昨夜の記録と、床の数字を突き合わせた。


合う。


私の観測値と、床の格子は、完全に合う。


合わないのは、王立観測院の現在の基準表のほうだ。


一度、二十一分。


たったそれだけ。けれど暦の計算では、たったそれだけが、二十日のずれになる。


私は立ち上がり、よろめき、壁に手をついた。


――壁が、鳴った。


空洞の音。


石を一つ、また一つと外した。奥から出てきたのは、油布に包まれた革装の冊子。一冊、二冊、三冊。


全部で、二十二冊。


開く。几帳面な、小さい字。


『第一の月、三日。雲量四。北の三星、南中時刻は――』


観測日誌だった。毎日、毎晩、途切れなく。


余白に、独り言が書いてある。


『指が凍えて数字が歪む』

『今夜も誰も来ない』

『麦粥に塩を入れすぎた』


私は声を出して笑った。笑いながら、鼻の奥が熱くなった。


――同じだ。


前世のノートの余白にも、私は同じことを書いていた。コーヒーがぬるい。今日も誰も来ない。暖房が壊れた。


二十二冊目の、最後のページ。


『私はもう目がよく見えぬ。明日からは書けぬかもしれぬ。

 この記録を誰かが読むことはあるまい。名も残るまい。

 誰も読まぬだろう。だが、いつか誰かが必要とする日のために、私は書く』


署名は一言。――ヴェスパ。


私は床に膝をついた。


苔の匂いのする古い紙を、指で撫でる。


「……先輩」


声が、掠れた。


「ちゃんと、届きましたよ」


前世の私が、三十年かけて誰からも言われなかった言葉を、私は百年越しに、他人へ返していた。


一行だけ泣いて、顔を洗った。


湯を沸かし、茶を淹れた。ハンナの茶葉だ。


それから私は、二十二冊を順に読みはじめた。


十一冊目で、手が止まった。


『蝕環期。三日のあいだ、星は読めぬ。

 この期に種を蒔いてはならぬ。次は百年の後』


私は日付を数えた。数え直した。もう一度数えた。


「……今年です」


湯呑みの茶が、冷めていった。


    ◆


七日目の夕方、扉が叩かれた。


山奥の廃墟で、扉が叩かれるとは思っていなかった。


開けると、空が狭くなった。


男だった。やたらに大きい。扉を潜るのに屈まなければならない背丈で、黒髪は無造作、眉間に生まれつきらしい皺が三本。首筋に硬い鱗の紋様。


竜血の騎士。それも、この紋章は。


「カイ・ドレーゲン様」


「……知っているのか」


「王国最強と伺っております。騎士団長が、こんな山奥に何の御用でしょう」


長い沈黙。


「……道を、間違えた」


「はい?」


「宿営地が、見つからん」


王国最強が、迷子でした。


私は彼を中に入れた。椅子は一脚しかないので、彼には樽を出した。


麦茶を淹れた。夏の名残の暑さだったので、井戸で冷やしておいたものだ。


彼は大きな手で木の碗を両手に持ち、じっと見てから、啜った。


沈黙。長い沈黙。


「……うまい」


それだけ言って、また黙った。


私は手帳を開いた。


『第四の月、十八日。来客一名。竜血の騎士団長。迷子』


「何を書いている」


「記録です。来客は珍しいので」


「……俺は記録されるようなことはしていない」


「記録は、あとから何が重要になるか分かりませんので、全部取ります。前世……いえ、師の教えです」


彼は碗を置き、ドームを見上げた。隙間から星が見えはじめていた。


「ここで、何をしている」


「星を見ています」


「毎晩か」


「毎晩です」


「……何年だ」


「十二年です」


彼の眉間の皺が、わずかに変わった。怒っているのかと思ったが、違った。


「毎晩、同じことを続けられる人間を、俺は尊敬する」


「剣のほうが大変でしょう」


「剣は、終わりがある。勝つか死ぬかだ。お前のは終わらん」


……この人、言葉数は少ないが、妙に核心を突いてくる。


帰り際、彼は雨漏りの桶を見て、何も言わずに外へ出た。


暗がりで、斧の音がした。しばらくして戻ってきた彼の腕には、割られた薪が積まれていた。


「板が要るな。次に持ってくる」


「次」


「……また迷う予定だ」


予定なんですか。


翌週、彼は本当に来た。板と釘と塩と、山菜を担いで。微妙に違う道から。


その次の週も来た。無言で雨漏りの板を打ち直し、無言で麦茶を飲んで帰った。


四度目に来たとき、彼は碗を置いてから、ずいぶん長く黙っていた。


「……頼みがある」


「はい」


「俺の部隊に、トビアスという十六の小僧がいる。北の港町の出でな」


「はい」


「潮灯り祭という祭りがあるらしい。母親が港で灯りを掲げて待つそうだ。あいつは三年、帰れていない」


彼は自分の手を見ていた。


「船の航路の日取りが要る。北回りは潮次第だ。今の暦では、信用できん」


竜血の騎士団長が、百人の敵の首より、部下一人の祭りの話をしている。


「……お作りします」


「金は」


「板をもう六枚」


「……安いな」


「雨漏りは、十四箇所あったんです」


彼の耳が、わずかに赤かった。たぶん、夕日のせいではなかった。


    ◆


一方、王都では。


聖女ミレイユの『神託暦』が発行されていた。祈って告げるだけなので、三日で完成したという。


観測院の老職員たちは首を傾げた。南中時刻の根拠を問うた者もいた。


「神が仰るのですもの。根拠なんて、いりませんわ」


誰も逆らえなかった。承認印が押された。


そして、崩れた。


――北部三領。種まきの日取りが、二十日ずれた。


穀物商人グレン・マーシュが観測院の門を叩き壊す勢いで怒鳴り込んだのは、芽が出ないと分かった朝だった。


「わしらは紙に書いてある日に種を蒔いただけだ! その紙は誰が書いた!」


「せ、聖女様が……あたしらが、印を押しちまったんだよ……」


「二十日だ。二十日ずれた。麦は待っちゃくれねえんだよ!」


――港。潮汐補正が狂った。


魔石灯台の点灯周期が合わず、霧の夜に灯りが沈黙した。商船が二隻、座礁した。


――ダンジョン。


魔力潮汐の予測が外れ、魔物の湧き周期を読み違えた討伐隊が、湧きの最中に突入した。


畳み掛けるように、王城へ届く。


領主たちの抗議文が十九通。商会連合の連名嘆願が三通。神殿は沈黙。民衆が広場に集まる。


王太子リュカは机を叩いた。


「なぜ誰も報告しなかった!」


「……報告は、ございました。十九通。すべて、殿下の机の上に」


「聖女、どういうことだ。神託はどうした」


ミレイユは白い指を組み、困ったように首を傾げた。


「……神様が、最近答えてくださらないの」


部屋の空気が、死んだ。


「では昨日、お前が告げた数字は何だ」


「昨日……? えっと、何て言ったかしら」


彼女は覚えていなかった。


一度も記録を取ったことがないからだ。だから検証もできない。ずれていることにも気づけない。


彼女の罪は、悪ではなかった。空白だった。


「観測院に命じろ! 新しい暦を即刻発行させろ!」


宰相ベルナルド・オーウェンが、眼鏡を外した。


白髪の老人の顔から、血の気が引いていた。


「殿下。……それは、できません」


「なぜだ!」


「王国法第七編、第百十二条。星暦の最終署名権は、実測記録を有する星見師にのみ属します」


「……何だと」


「わたくしの師が、法典編纂の折に書き写した条文です。実測の裏付けなき暦は、国を殺す。だから署名は記録を持つ者にのみ、と」


老宰相は、震える声で続けた。


「……我が国に、現在、実測記録を保持する者は、一名しかおりません」


「誰だ」


「イレーナ・ソルヴェイグ嬢です」


静まり返った。


リュカの喉が、音を立てた。


「殿下は、後で決めると仰せでした」


ベルナルドは眼鏡をかけ直した。


「その『後で』が、まいりました」


    ◆


王家の使者が尾根を登ってきたのは、よく晴れた朝だった。


私は石段の上に座り、茶を淹れていた。使者は、宰相その人だった。


「イレーナ嬢。王国の緊急事態につき、星暦の署名を」


「お茶はいかがですか。山道は喉が渇きますでしょう」


「は、いえ、それどころでは……」


「どうぞ」


私は碗を押しつけた。ベルナルドは飲んだ。肩から力が抜けるのが見えた。


……おいしいでしょう。このお茶を淹れるのに、井戸の縄を直すところから始めたんです。


「署名いたします」


「ほ、本当ですか」


「条件が三つ」


私は手帳を開いた。昨夜のうちに書いておいた三行だ。


「一、この第七観測塔を、正式な王立観測所として再興すること。予算はこちらで見積もりを出します。釘の本数まで」


「な、なんなりと」


「二、観測者名簿の初代に、ヴェスパの名を記載すること。百年前、この塔で二十二年、記録を取り続けた星見師です」


「……存じ上げませんが」


「ええ。誰も知りません。だから、記載するんです」


使者の筆が走った。


「三つ目は」


私は顔を上げた。


石段の下に、金髪の男が立っていた。


王太子リュカ。供もつけず、外套の裾を泥で汚して。


彼はこちらを見上げていた。見上げる、という姿勢を、たぶん生まれて初めてしている。


「殿下」


私は立ち上がらなかった。茶を注ぎ足しただけだ。


「イレーナ、私は……」


「三つ目の条件を申し上げます。――今後の暦は、祈りではなく実測に基づくこと。それだけです」


「……待て。君に、謝らねば」


「謝罪は結構です。記録に残りませんので」


彼の顔が、歪んだ。


「……私は、君の十二年を、何だと思っていたのだろうな」


私は彼を罵倒しなかった。罵倒する理由がない。彼は私から何も奪っていない。私の十二年は、私の手帳の中にちゃんと残っている。


失ったのは、彼のほうだ。


「ひとつだけ、申し上げます」


私は茶を一口飲んだ。


「殿下。星は、見上げなければ見えません」


風が吹いた。苔の匂いがした。


「それだけのことでした」


リュカは何も言えなかった。


彼は長いこと立ち尽くし、それから一度だけ、空を見上げた。


昼の空には、何も見えない。


当たり前です。見上げる時刻を間違えているんですから。


    ◆


王都、大審議の間。公開査問。


傍聴席は満員だった。領主、商人、神官、市民。


私は机の上に、三つのものを並べた。


一、床の座標格子の拓本。墨を擦り込んで写した、百年前の基準線。

二、ヴェスパの観測日誌、二十二冊。

三、私の観測手帳、十二冊。


合わせて三十四冊と、一枚の紙。それが私の持ち物の全部だ。


ミレイユが立ち上がった。白金の髪を震わせ、頬を濡らして。


「神託は正しいんですもの! イレーナ様が、星を狂わせたのですわ!」


傍聴席がざわめく。


私は彼女を見なかった。拓本を広げただけだ。


「宰相閣下。三十年前、王立観測院の塔は改修されましたね」


「……はい。東翼の増築と、ドームの架け替えを」


「その際、基準点の再測量は行われましたか」


ベルナルドが書類をめくった。めくる手が、止まった。


「……記録が、ございません」


「はい。そして、基準点は動いていました」


私は拓本の交点に指を置いた。


「百年前の基準点と、現在の観測院の基準点は、一度二十一分、ずれています」


静かな声で、数字だけを置く。


「ヴェスパの日誌、第三冊から第二十二冊までの南中時刻。私の手帳、十二年分の南中時刻。この二つは完全に一致します。百年の隔たりがあってもです」


「……では」


「一致しないのは、観測院の基準表だけです。三十年前から」


老職員の一人が、よろめいて椅子を掴んだ。ハンナが、彼の背を支えた。


「三十年、誰も気づけませんでした。なぜか。――改修の前後で、記録が途切れたからです」


私は顔を上げた。


「記録が途切れると、人は、ずれに気づけません」


傍聴席が、しんとした。


ベルナルドが呻くように言った。


「……なるほど。では、神託暦の誤差は」


「神託の問題ではありません」


私は、はじめてミレイユを見た。


「参照した基準が、誤っていただけです」


ミレイユの口が、開いた。何も出てこなかった。


彼女は反論できない。反論するには、昨日自分が何と言ったかを知っていなければならない。


彼女は、何も記録していなかった。


罰はなかった。断罪もしなかった。ただ、祈りが何ひとつ残していなかったという事実だけが、白い床の上に転がっていた。


誰も、何も言わなかった。


傍聴席の隅で、ハンナが立ち上がった。


「……イレーナ。あたしらが、守らなきゃいけなかったのにね」


「印を押した記録が残っているなら、それも記録です。いただけますか」


「……あんた、ほんとに、そういう娘だよ」


「――もう一点、報告があります」


私はヴェスパの十一冊目を開いた。


「今年は、蝕環期です」


「……蝕環期?」


「百年に一度、三日間だけ、星位が読めなくなる期間です。大気の魔力層が反転し、観測値が全て狂います。記録はこの一冊にしかありません」


私は日付を示した。


「来月の、七日から九日。――現行の神託暦では、この三日間が、北部全域の種まき期に指定されています」


広間が凍った。


グレン・マーシュが立ち上がった。


「……蒔いたら、どうなる」


「芽は出ません。今年の分も、来年の種籾も、失われます」


「国が、飢えるってことか」


「はい」


私はペンを取り、机の上の新暦の末尾に署名した。


イレーナ・ソルヴェイグ。実測記録保持者。


インクを乾かし、顔を上げる。


「種まきは、十二日からです。各領へ早馬を」


「……承知した」


ベルナルドが深く頭を下げた。老いた背中が、ひどく小さく見えた。


「嬢。わしは、来年の種まきの日取りを、孫に教えてやりたいだけなのです」


「教えてやってください」


私は手帳を閉じた。


「そのために、誰かが書いていたんですから」


    ◆


査問の三日後、泥と血で汚れた少年が、尾根を登ってきた。


そばかす、くせ毛、肩で息をしている。


「イレーナ、さん、ですか。トビアス・レンです。騎士団の」


「どうぞ、座ってください。すぐお茶を」


「いえ、あの、報告が」


彼は震える手で、丸めた紙を差し出した。ダンジョンの湧き記録だった。


「団長が、記録を取れって。湧いた時刻と、数と、魔力の濃さを全部。……俺、字が下手で」


「読めます。十分です。……はい、両手で持って」


私は彼に碗を握らせた。冷たい麦茶。彼は両手で持って、一口飲んで、それから、ぽろぽろ泣き出した。


「三人、死にました。暦の湧き周期が、合わなくて」


「……はい」


「暦が狂うと、人が、死ぬんですね」


「死にます」


私は、嘘をつかなかった。


「だから、記録します。あなたが持ってきてくれたこの紙は、次の三人を生かします」


「……っ、はい。はい」


麦粥を炊いて食べさせた。彼は三杯食べて、寝床で死んだように眠った。


――そして半月後。


北回り航路の日取りを、私は計算し直した。潮汐補正、魔力潮汐の高低、風の季節変位。三晩かかった。


『第五の月、二十二日出港。ハルデン着、二十六日午後。潮灯り祭、二十七日』


間に合う。


紙を封じ、カイに渡した。彼は紙を見て、しばらく黙っていた。


「……間に合うのか」


「一日の余裕を持たせました」


「余裕も、計算したのか」


「はい。船は遅れるものです。前世……私の知る限り、だいたい遅れます」


彼は何か言いかけて、やめた。代わりに、板を壁に立てかけた。


「約束の板だ」


「八枚ありますが」


「……数えるな」


それから一月後。


扉が叩かれた。カイだった。無言で、手のひらを差し出す。


乗っていたのは、平たい、黒い石ころ。


「……これは、石ころですか」


「トビアスからだ。祭りに間に合った。母親が、港で泣いていたそうだ」


「はあ」


「礼を渡したいと言うから、何かあるかと聞いたら、……これを、河原で拾ってきた」


私は石を受け取った。手のひらに、ひんやりと重い。


「伝言は」


カイは、ものすごく言いにくそうに、目を逸らした。


「……『星みたいに見えたので』と」


私は、石を見た。


ただの石だ。黒くて、平たくて、河原に何万個でもある、価値のない石だ。


宝石の指輪なら、十二年間で三つもらった。全部、王城に返した。何も感じなかった。


なのに。


「……イレーナ」


「少し、待ってください」


私は顔を背けた。


泣くつもりはなかった。でも、手が記録に動く前に、別のところが動いてしまった。


カイは何も言わなかった。黙って立って、それから、自分の外套を椅子の背にかけて、出て行った。


夜になって、私はその石を、机の上の、一番よく見える場所に置いた。


観測手帳のすぐ横。ペン差しの隣。毎晩、必ず目に入る場所。


『第五の月、二十九日。晴れ、雲量〇。――机上に星を一つ、追加』


我ながら、ひどい記述だと思った。


消さなかった。


    ◆


一年後。


苔を落とした石壁に、蔦が這っている。苔より蔦のほうが風情があるので、これは残すことにした。


入口の銘板には、二つの名前が刻まれている。


  王立第七観測所

  初代観測者 ヴェスパ

  二代観測者 イレーナ・ソルヴェイグ


名簿にも載らず、墓の場所も分からない人の名前が、石に彫られて、風に晒されている。


百年遅れの、たった二行。


私は毎朝、この銘板を拭く。それが一日の最初の仕事だ。


生活は、あまり変わらない。


毎晩、同じ時刻に同じ座標を記録する。朝は麦粥を炊く。洗濯物を風に干す。茶を淹れる。


助手が二人ついた。若い見習いだ。二人とも、最初の一月は「こんな地味な仕事とは思わなかった」という顔をしていた。


三月目に、一人が言った。


「イレーナ様。昨日の雲量、〇・五と二の間で迷ったんですが」


「迷ったことも書いてください」


「え」


「迷ったという記録は、後で読む人の役に立ちます」


彼女は不思議そうな顔をして、でも、書いた。


ハンナが月に一度、山を登ってくる。台所を占領して、私の麦粥に勝手に塩を足していく。


「薄いんだよ、あんたの粥は」


「薄味が好みなんです」


「そんなわけあるかい」


そのとおりでした。十二年、味のことなんか考えたこともなかっただけです。


グレン・マーシュは年に四回、上質紙とインクを担いで来る。


「あんたの数字は、三十年外れたことがない」


「私はまだ十三年です」


「ヴェスパさんの二十二年を足せば三十五年だ。地続きだろうが」


……この人は、たまに、ひどくいいことを言う。


王都のほうは、人伝に聞くだけだ。


王太子リュカは、暦管理の失策により王位継承権を保留された。地方領の帳簿係として、三年の勤めを命じられたという。


毎日、数字を記録する仕事だ。


噂では、最初の三月は字が汚くて何度も書き直しをさせられ、指がインクで真っ黒になったらしい。


その指を見て、彼が何を思い出したのかは、私の知るところではない。


記録に残っていないことは、書かない主義です。


聖女ミレイユは神殿に戻った。


罰はなかった。糾弾もされなかった。


ただ、誰も祈りを求めに来なくなった。


彼女は今も、白い衣で祈っているという。何を告げても、誰も書き留めない。


残らなかった。それだけだ。


――そして今夜。


私は新しい日誌を開いた。二十三冊目。ヴェスパの番号を継いで、そう呼ぶことにしている。


一ページ目。


羽根ペンにインクを含ませて、私は書いた。


『誰も読まぬかもしれない。だが、いつか誰かが必要とする日のために、私は書く』


その下に、日付と雲量と、南中時刻。


次の蝕環期は、百年後だ。


そのとき私は、とっくに死んでいる。前世でも今世でも、たぶん誰にも看取られずに。


それでいい。


百年後の誰かが、この壁の空洞を叩いて、油布の包みを見つけて、膝をついて、苔の匂いのする紙を撫でてくれるなら。


そのときに、「先輩」と呼んでくれるなら。


それで、十分です。


窓の外で、苔の匂いのする風が鳴った。


机の上の黒い石が、ランプの灯を受けて、少しだけ光った。


――扉が、叩かれた。


私はペンを置いて、立ち上がる。


たぶん、山菜と釘を担いだ大男が、また道を間違えている。


三度目だ。ちゃんと数えてあります。


私は湯を火にかけ、茶葉の缶に手を伸ばした。


「……今、開けます」

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