第8話
以前母が入院したとき、
お互いの連絡先が必要だということになって、
LINEの登録を、しあったのがきっかけだった。
時候の挨拶程度の会話から始まり、
今では、
くだらない冗談を交わすくらいにまでなった。
とくに母に伝えるような内容でもなかったので、
そのやり取りは二人の間だけしか知らない。
あえて内緒にするつもりはなかったが、
なんとなくそんな感じになった。
目の前に並べられたできたてのあたたかい料理に誘われて、
思わず手を伸ばした。
ふんわりとした玉子焼き。
口に入れた途端、
妙な気分になった。
なんだろう。
この感覚。
もうひとくち食べてみる。
玉子焼きは柔らかくて、口の中でとろとろと溶けていく。
そして、ようやく気がついた。
そうか。
私は今、懐かしいと思っている。
この料理は、母の味だ。
幼い頃、毎日食べていた、母の手料理の味。
あれから何十年も経って、思い出すことなど一度もなかったのに。
冬弥君と母は、母が働いていた居酒屋で知り合った。
料理が得意な母は、私たちの元から去ったあと、
東京の叔母さんの紹介で、小さな居酒屋で、料理人として働くようになった。
そこにアルバイトで入った冬弥君と知り合ったのだ。
母と駆け落ちした男とは、一度だけ会ったことがあるが、
気の弱そうな陰気な人だった。
とても母を連れて大阪から逃げていくような情熱的でも、
男として魅力的でもないように思われた。
母はただ、逃げ出したかっただけなんじゃないだろうか。
男はきっかけに過ぎない。
「店であの人に料理を仕込まれたから、だいたい同じでしょ。味」
冬弥君には私の考えていることが、
すっかり見えているようにタイミングよくそう言った。
「お母さんの味なんや、これ。私、全然覚えてへん」
妹はまだ小さかったので、覚えていないのも仕方ない。
しかし、
母の味をこんな風に感じることができるのは、
この世にもう、
私しかいないのかと思うと、とたんに心細くなった。
「うん。懐かしい味だ」
私がそう言うと、冬弥君は少し嬉しそうな顔をした。
「一度ね」
冬弥君の整った細長い指が、
目の前にぬっと現れた。
ご飯がようやく炊きあがって、
ほくほくと湯気のあがる茶碗を、
きれいな指先でそっと私の前に置いた。
よく見ると冬弥君の瞳は薄い赤茶色をしていて、
蛍光灯の下では、ますます色を失っていくようだった。
透明で儚いけれど、
奥底に言い知れぬ力強さを感じた。
母はこの顔を毎日どんな風に見ていたのだろう。




