異端審問 ー炎に包まれた聖女ー
ああ、お前は天から落ちた。
明けの明星、曙の子よ。
お前は地へと切り倒された。
――イザヤ書14章12節
****
「それではこれより、異端審問を開始する」
審問官を務める副司教が、高らかに言い放った。
春先とはいえ冷たい風が隙間から入り込み、部屋を冷やしていく。
捉えられた少女は、この季節にしては薄着だった。
寒さを感じているはずだけれど、その姿を憐れに思う者は、この部屋にはいない。
この異様な空間が彼女の運命を決定付けていることは、おそらく彼女自身も分かってるだろう。
けれど彼女は怯むどころか、司教をじっと見つめ、凛とした姿で座っている。
すらりとした面立ちには、あどけなさが残っている。少し暗めの茶色の髪はばっさりと切り落とされ、肩までしかない。ズボンを履いているが、それは彼女にとても良く馴染んでいる
聞けば、歳は19だと言う。彼女が民衆を導き始めたのは16歳。幼いとまでは行かないが、十分に若い。
しかし、ルーファスはさして驚きはしなかった。神の声を聞く者には、もっと幼い者もいるからだ。
「それではこれより、告訴状を読み上げる。一条ごとに被告に話を聞いていくので、応えるように」
「私がお答えできる限りすべてをお話いたします」
鈴のような声が響いた。その場にいた誰もが、彼女はたしかに女性なのだと思い知らされる。
わずかに空気が揺れるのは、動揺か、あるいはやはり異端者なのだと再確認したからか。
副司教は嫌そうに眉を寄せてから、ごほんと一つ咳払いをして、続ける。
「よろしい。では初めに、第一条」
訴状は朗々と読み上げられた。その数は七十あるという。
ルーファスにとってその内容はどうでもよかったが、彼女がどう応えるかには興味があった。
どれほど神を想おうとも、すでに彼女は神の声を聴けなくなっているだろう。
彼女の処女性が失われたからではない。このエリアに、天使は入ってくることが出来ないからだ。
そんな状態で、この読み書きもできない少女がどのような答えを導き出せるのか、聞きたいと思っていた。
「被告はその目的をより的確に計画するため、右隊長に男の衣服と自分にふさわしい武具を整えるように要求し、右隊長はそれに従った。この衣服と武具が調達されると、被告は完全に女の衣服を捨て去った。男の武装で被告は戦い、これにより被告は神の命令を果たした。間違いないな」
「すでに答えた通りです」
「では、この衣服、武具、その他の武装は神の命令によって着用したものか」
「今しがた申し上げた通り、以前にお答えした通りです」
少女は至って冷静に、副司教の答弁に応える。
そのほとんどが以前に答えた通りであるとのことだったので、審問官は過去の記録をあさり、都度補足を付け加えていた。
「記録によれば、男の服を着ることも、どのようなことも、神や天使たちの命令以外ではしたことがないとのことです」
「ご苦労」
ルーファスはそのやりとりを時間の無駄だと感じながらも、少女の答弁の能力と記憶力にいたく感心した。
以前答えた通りということは、彼女は自分がどのような回答をしたかを覚えているということだろう。それはつまり、どのような質問にも、記憶できるくらいしっかりと考えているということだ。
しかし、彼女の答弁は澱みなく進められている。そこに熟考した様子は無い。
どこにでもいる普通の少女に見えるが、たしかに非凡な才能を持っているらしい。
さすが、天使が使命を与えるだけのことはある。信仰心と求心力、そして頭の良さが無ければ、天使から下される使命を果たすことは難しのだろう。
「被告は女性の貞淑さを忘れ、礼節を軽んずるだけでなく、教養のある男なら当然の儀礼も忘れ、最も下品で卑しい男が着ているようなあらゆる異様な服装を装っていた。加えて、人を傷つける武器も携行している。これを神や聖天使、聖女たちの責任にするようなことは、我が主や聖者を冒とくし、神の掟を拒み、教会法をおかし、女性の本姓と貞淑を愚弄し、人々の礼節を腐敗させている。そのうえ堕落の手本として同じような輩を蔓延らせる行為である。何か弁明はあるか」
「私は、神や聖者を冒涜したことはございません」
「第十四条。被告は卑しい男の服を着用し、頑なにこれを離さず、啓示による神の許しが無ければ脱ぐべきではないと述べることで、神や諸天使、諸聖者を冒涜した」
「私は、神に誤った仕え方はしておりません」
少女は長ったらしい訴状をしっかりとすべて聞いたうえで、静かに答える。
その様子を見ていたルーファスは、いよいよつまらないと感じ始めていた。
この答弁に意味があるとすれば、大勢の前で彼女を断罪したいと考える司教たちの気持ちを満たすことくらいだろう。
彼女の言葉がすべて真実であることを、ルーファスは知っている。
ルーファスにははっきりと、聖なる者が使命を与えたときに出来る印が見えているからだ。
だからこそ、わざわざこうしてやってきた。天使に遣わされた少女など、これ以上ないほどに最適な獲物はいない。
しかし、当の少女の目は欠片も濁らず、心は穢れを知らず、いつまでも光り輝いている。
神を信じて疑わない姿は、ルーファスにとって酷くつまらないものだった。
白い髪を乱雑に掻く。不意に出掛けた欠伸を嚙み殺した自分を褒めてやりたいほどだった。
こうなってはもうただの時間の無駄だ。彼女の心が乱れる様を見たかったが、おそらくどれほど経っても乱れないだろう。
これだから『聖女』は嫌なのだ。いっそ無理にでも押し倒して穢れさせるか。いや、この手の人間はたとえ身を穢しても心まで侵すことは出来ないのだ。
「それでは、何か意見のある者は」
本日の告訴状の読み上げは終わりを迎えた。
まだ先は長いので、複数日に分けて査問を行うのだ。
もっとも、告訴内容が多いだけの理由ではなく、少女を疲れさせ判断能力を奪うことも兼ねているだろう。
この異端審問は、初めから少女を処刑台へと送るために設けられているものであるが、曲がりなりにも聖職者を謳う以上は簡単に処することはできないので、墓穴を掘って欲しいということだ。
陪審員も含め、この場にいる少女以外の者たちの方が、よっぽど天から遠い存在だというのに。
主は一体、こんな人間のどこに良さを見出しているのだろうか。
ルーファスはそう思いながら、少女へと質問をすることにした。
「僕から一つ。男装をしろと、神のお告げや命令を受けたの?」
「すでに答えた通りです。必要ならば明日、その点についてお答えします。私は、誰が私に男の服を着用させたかを良く知っていますが、何故それを明かさねばならないのか分かりません。その答えは必要でしょうか?」
「……いや、必要ないね。ありがとう」
男装についてはすでに何度も遣り取りをしていたので、ルーファスも彼女がそう答えるであろうと予想はしていた。
それでも質問したのは、彼女と話してみたいという好奇心が半分と、彼女の心はどうしたら乱れるのかを図るためであった。
ルーファスと言葉を交わせば、その気は無くとも心が揺らぎ闇が生まれるものだ。この闇は本人にすら知覚できないけれど、ルーファスにはよく見える。そこを突くことが、ルーファスの手法だった。
けれど、今回は失敗に終わったようだ。やはり少女は少しも揺らがず、光にあふれている。
ほかの神からの遣いと同じように、彼女もまた、心の底から神や天使たちを信じ従っているのだ。
「それでは、本日はこれまでとする」
副司教の号令により、異端審問は終了となった。
少女は繋がれたまま、部屋を出ていく。幽閉されている城の塔に戻るのだろう。
薄暗く冷たいあの場所は、心も体も疲弊させるのピッタリな場所だった。
ルーファスはその様子を目で追いながら、長時間座り続けて凝り固まった体を、盛大に伸びをしてほぐしていく。
すると、背の高い青年が声を掛けてきた。
「君はどこの神官だね?」
「いいえ、神官様。僕はこの街の神学者ですよ。ルーファスと言います」
「そうか。私はパトリックだ。先程の問答といい、どうにも気が緩んでいるように見える。神の御前なのだ、明日からは態度を改めておくように」
「……はい、そういたしましょう」
生真面目そうな青年が眉に皺を寄せながら言ってきたので、ルーファスは肩を竦めて頷いておく。
ルーファスの言葉に満足したようで、彼はそのまま過ぎ去っていった。
「へえ、珍しいこともあるもんだな」
ルーファス面白いものを見た時のように、楽し気に口の端を広げた。
普通の人間は、ルーファスを注意することは無い。たとえ審議中に寝ていたとしても、である。
そうなるように、ルーファスはこの空間を歪めているのだ。
それが、どうやらパトリックと名乗る彼には通じていなかったらしい。
見たところ天使の声を聴いた印は無いから、純粋に光を持つ青年なのだろう。
誰も彼もが穢れを抱え淀み切った場所にはふさわしくないと思いかけて、いや本来ならば彼のように敬虔な使徒であるべきなのだと思い直す。
人間など所詮は愚かで不完全なのだ。真の異端者が混じっていても、誰一人気付くことが無いのだから。
そしてルーファスは、愚かで矮小な人間よりもむしろ、彼のような存在ほど欲している。
「この件が終わったら、次はあいつだな」
ルーファスは意地悪そうな顔を湛えて、その背中を見届けた。
「何故彼女を助けない?」
冷たい石畳の廊下を歩いていると、後方から声がした。
気配は察していたので、ルーファスは振り向かない。
「何故、助ける必要があるんです?」
「彼女は私が遣わした者だ。これは神のご意志でもあるんだぞ」
声は責め立てるように飛んでくるが、ルーファスは振り向かない。
声の主が痺れを切らしてルーファスの肩を掴み、向かい合わせにさせる。
金色の髪と蒼穹の瞳を持ち、大きな一対の翼から雪のように羽根を降らせる青年の姿が目に入ってきた。
「何故、私を見ない」
「貴方がその姿で来ることが分かっていたからです。僕には貴方の本当の姿は見えないからね。人間と同じ扱いをされるなんて、屈辱以外の何物でもない。分かっているでしょう、兄上」
天使は人前に表すとき、人に知覚できるように姿を変える。その姿は、愛すべき兄が人間のためにこさえた姿だ。
ルーファスはそのことが酷く屈辱的で、煩わしかった。
「ではなぜ、再び天へ戻ろうとしないんだ。天へ戻りさえすればお前は前のように私を見ることが出来るようになろう」
人ではあり得ないほどに整った面立ちが、悲しそうに陰る。
神から最も寵愛を受けている者の一人である彼は、その愛をすでに天より堕とされた自分にまで向けてくれていた。
そのことが嬉しくない訳ではない。しかし同時に、煩わしかった。その愛はあの穢れた存在にも向けられていると知っているから。
「兄上。僕はすでに堕ちた身だ。天へ行くことは二度と適いません」
「罪を償えばきっと、我らが主は戻してくださる」
「……兄上は、本当に心根が優しくていらっしゃる」
ルーファスは、皮肉交じりにそう言った。彼の真っ直ぐさは愛しい部分でもあるが、今のルーファスにとっては残酷だった。
もうずっと遥か昔のあの戦いを、彼が忘れたわけではないだろう。
――さて、天で戦いが起こった。ミカエルとその使いたちが、竜に戦いを挑んだのである。竜とその使いたちも応戦したが、 勝てなかった。そして、もはや天には彼らの居場所がなくなった。
ヨハネの黙示録として語られるこの一節は、正確ではないけれど、嘘偽りを伝えたものではない。
確かにあの戦いで、ルーファスは地へと堕とされたのだ。
その罪を、我らが主がそう簡単に赦してくれるとは思えない。人間はもう天へは戻れないのだから。
ルーファスの言葉に、天使は訝しげに尋ねる。
「どうしてお前は、人間を唆すなんて馬鹿な真似をしたんだ? それほど我らが主からの寵愛を受けた人間が憎かった? お前だって、確かに愛されていたのに」
問いに、ルーファスはかつての華々しい日々を思い出す。
人間が誕生する前は兄と二人、穏やかで楽しい暮らしをしていた。朗らかな春が永遠に続くような、そんな静かな温かみがあった。
人間が誕生し、すべては一変した。我らが主は彼らを大切にし、天使たちも人間の良き友であり、親兄弟であり、腹心であった。しかし皆が皆、それを受け入れていたわけではない。
他ならぬルーファスも、その様子を受け入れ難く感じていた。
今でも人間を見ると憎たらしくて仕方がない。その口が我らの創造主を口にするたび、腸が煮えくり返りそうにすらなる。
その気持ちを隠しもせず、ルーファスは彼の言葉を否定した。
「いいえ、兄上。僕は別に、あいつらに嫉妬してあんなことをしたんじゃありません。ましてや、我らが主の代わりに世界を統べてやろうなんて気持ちもない」
「では、どうして」
「兄上、人間という存在は愚かで優れたところはなく、我が主からの寵愛など不釣り合い。天にいる価値もない者たちです」
「それはお前が決めることではないだろう。主は彼らを愛したのだから」
「ええ、そうです。僕もそう思いましたよ。だから彼らを唆したのです。彼らが主の深い愛に値するのであれば、愚かな行動に出ることなどないでしょうから」
姿を変え、女に近づいた。果たして女は男を誘い、二人は禁断の果実を口に含んだのだった。
それまでは僅かでも信じる気持ちがあったと、ルーファスは思う。けれどあの瞬間、すべてが失望に変わった。
創造主の寵愛を受けておきながら、彼らは主を裏切る行為をしたのだから。
そのあとは書物の通り。人間は地に落とされた。そして、ルーファスも。
「彼らは、他の動物たちと異なり争いを起こしては方々を破壊して回る。いずれ主が造られた世界を壊してしまうでしょう。そのような愚かな存在を、何故未だに気に掛けているのか理解できませんね」
「では、お前が我らの遣わした使徒を妨げているのは、人間が憎いからか」
「ええ。どれほど崇高で清らかな聖女と言えど、いつかは堕落するものです。天へ昇る者にはわずかな陰りなど許されないのです」
天使は時折人間の下に現れ、お告げを与える。
それは創造主の創り出したこの世界が平穏に、光にも闇にも傾くことがないよう保たれるようにするため。光と闇の均衡が崩れれば、この世界は崩壊しかねないのだ。
そして天に遣わされた者の魂は使命を果たすと、天へと誘われる。それが使命を果たした者への褒美の代わりである。
「僕はね、兄上。地上に堕とされたことはむしろ僥倖なのです。ここならば愚かな人間を監視し、裁くことができますから」
「……異端審問官、か」
「ええ、ピッタリな仕事だと思いませんか。僕は誰よりも敬虔な信徒ですから。天へ還る気は毛頭ありませんよ」
「もう何度、お前は邪魔をすれば気が済む? 彼女の件も」
「何度だって。そもそも天への道を約束されていながら、使命を果たす途中で悪魔に唆されて身を堕とす者が悪いのですよ。そのような人間が主のもとにいては、主を穢しかねません」
「お前が何もしなければ穢れることもないだろうに」
「いいえ、穢れる心を持つ人間が愚かなのです」
ルーファスの言葉に、大天使はその瞳を辛そうに揺らした。
人間が誕生するまで、二人は分かり合っていると思っていた。実際、分かり合っていたと思う。
けれど、もう二度と二人が交わることは無い。
ただ神を愛し彼のために動いていることは違わないけれど、立場が違い過ぎたのだ。
「あの娘を助けてやってはくれまいか」
「お断りします。僕はあの子を地獄へ連れて行くと決めているのですから。助けたいのなら、貴方が動けば良いでしょう?」
「私は人間には干渉できない。分かっているだろう? お前とは違うのだから」
「……僕とは違う、ね。そうでしょう。貴方は天高く誰よりも創造主の信頼が厚いお方ですからね、ミカエル兄上」
「そういう意味で言ったわけでは!」
「良いんですよ。天使は人の心に干渉することはご法度。その点、堕天使の僕は人間の心を揺さぶることも、彼らを取り込んで操ることも、何でもできる」
堕天使と悪魔は、闇を孕む者。闇を孕む者は人間の闇に潜み、闇を深く浅くと操作して、堕落させることが出来る。
天使たちは人間の光に干渉することが出来るはずだが、主により秩序のためにそれは制限されていた。
しかし堕天使は、もとより創造主による制約を破った者が天より堕とされている。天使にとってご法度なこともできるのだ。
逆に言えば、あの憐れな少女を助ける手助けだった出来るということで。
大天使であるミカエルがこうしてルーファスに会いに来たのも、彼女を処刑せんと奔走する神官たちを止めるためだろう。
だが、それは天使たちの都合だ。ルーファスが取り合うはずもない。分かっていただろうに。
「……彼女の心は、穢れることはないぞ」
「兄上やガブリエルたちの力で、あの娘の光が守られているのは分かっています。闇の欠片もない彼女に内部から干渉することはできないでしょう。でもね、人の心は弱く移ろいやすいものだ」
「我らは手出しは出来まい。しかし彼女の魂を守ることは出来よう。お前には渡さない」
「さて、どうでしょうか。時間はまだたっぷりとあります。彼女の審議はまだ始まったばかりで、先はまだ長いですからね」
ルーファスは赤い瞳をつと細め、にやりと笑った。そして、ばさりと、取り出した翼を大きく振る。
背中にある一対の大翼は、光をすべて飲み込んでしまいそうな漆黒だった。
「ミカエル兄上。たとえ貴方がどれだけの聖者を見出そうとも、僕は誰一人として天へ昇らせやしません」
「……残念だよ。私はまたお前と、天で主のために働きたかったのだが」
「僕も兄上と一緒に居られたら幸せですよ。けれど、貴方は堕ちて来てはくれないでしょう? さあ、交渉は決裂。早く去ってください。僕は貴方と争いたいわけではない」
「では、また会おう。――ルシフェル」
眩い光が、辺り一面を覆った。神の威光を示すかのような光は、闇に潜む身には鋭く突き刺さる。
ルシフェルは翼で体を覆いそれを耐え、光が失われてからゆっくりと翼を仕舞って瞳を開いた。
愛すべき兄も、天を統べる王も、どれほど人間の堕落を目にしても決して見放すことはしない。
けれど、いつか。目を覚ましてくれる時が来るかもしれない。
いや、もし目を覚まさないのだとしても構わない。神を穢しかねない人間を地の底へ堕とすのが自分の勤めであり、それは見返りを求めるものではなかった。
主のことを二度と見ることは出来ないとしても、それでも構わない。ただ、自分の使命を全うするだけだ。
愚かな人間を裁き地の底へ送り出す。その、役目を。
ルシフェルは久しぶりに見た兄が存外元気そうだったことに少し安堵を覚えながら、誰もいない廊下を進む。
彼の足音は闇に消えた。
****
何度目かになる審問が、今日も開催された。
彼女を即刻処刑台へと送らないのは、おそらく彼女が真にお告げを受けた聖女であるという声が根強いことと、彼女が異端であると分からせることで、彼女が戴冠させた王を貶めるためだろう。
長引けば長引くほど、ルーファスにとっては好機だった。
彼女は未だ光輝いていて、一点の曇りもない。何度か声を掛けたが、それでも闇が生まれることは無かった。
このまま死んでしまっては、サリエルが魂を天へと運んで行ってしまうに違いない。
堕天使ルシフェルとしての力を持つルーファスがサリエルと戦うことは不可能ではないが、サリエルは罪を犯した天使を堕とす裁きの天使の側面も持っているから、堕天した身としては少々相性が悪かった。
なによりサリエルは死と裁きを司る関係で片足を地の底に突っ込んでいて、地獄の底へ逃げたところで追って来れるので、喧嘩は避けたい。
そのためには少女自身が闇を生み出さなければ難しい。
ルーファスは隙を伺うように少女を見た。
目に見えて衰弱しているのに、それでも彼女の瞳は希望を失わず、しっかりと副司教を捉えている。
副司教が問うた。
「申命記第二十二章には『女は男の服を着てはならない。男は女の服を着てはならない。あなたの神、主はそのようなことをする者を忌み嫌われるからだ』とある。お前は牢にいるときでも男の服を着ている。牢の中では必要が無いはずだ。これについては?」
「私は神から遣わされ使命を果たした時、女の服を着るでしょう」
「では、男の服を着ることが善い行いだと思っているのか?」
「我が主に従います」
男の恰好は彼女にとって、自身の正当性を示す一つの道なのだろう、と思った。
しかしミカエルが服装について言及しているとは思えず、おそらく彼女が自らを守るために着用しているか、あるいは周りにそう望まれたかのどちらかだろう。
それを指摘するのは簡単だったが、ルーファスは愚かな人間に手を貸すのも嫌だったので、そのようなことはしなかった。
ルーファスは今回の件で、一度も神官たちや神学者たち、あるいは一般の人間に至るまで、一切力を使っていない。
なぜならルーファスにとっては、彼らもまた地獄へと堕とすべき人間だからだ。
風向きがあの聖女を守りそうならば力を使うことも厭わないが、それはないだろう。
ならば、放っておいても地獄へ落ちるだろう愚かな人間に干渉するなどしたくもなかった。
さて、少女は一貫して、神の御心に従っていて、神も聖女達も冒涜していないと答えている。
それはたしかに事実なのに、彼女を信じる者はこの部屋にはいない。
憐れだ。天使たちが関わりさえしなければ、彼女はこうして同じ質問を何度もされ、否定され続けるようなことはなかったのに。
不幸を天使のせいにしても良いのに、彼女はそれをしない。強い心を持っているのだろうが、ルーファスはそこが気に食わない。
ああ、本当に。早く闇を見せてしまえば、楽になれるのに。
「もしお前が『我唯一の聖なる公教会を信ず』という心情を信じないというならば、お前は異端者として判決を受け、火刑となるだろう。それでも良いのか?」
「たとえ火刑台を前にしても私の答えは変わりませんし、異なったことはいたしません」
少女は凛とした声で、はっきりとそう告げた。
神官たちはくすくすと笑い声を立てる。虚勢を張っていると思っているのだろう。
だが、彼女の言葉は本物だろう。彼女は天使により天を約束されているはずだし、何より火刑台に上るのもまた神の御心なのだと思っているらしいから。
彼女はどうやら、どこまでも敬虔な信者のようだった。
それはまるでかつて天に居た頃の穢れを知らぬ自分のようで、ルーファスは苦虫を噛み潰したような表情をする。
「人間は愚かで穢れた存在でなきゃいけないってのに」
「? 何か言ったか?」
「ああいや、独り言です。すみません」
隣に座るパトリックが眼鏡を神経質そうに上げてきたので、慌てて首を横に振る。
彼はあの日以来、何故か隣に陣取っている。神学者の立場であるルーファスとは座るべき場所が違うというのに。
しかし彼の空気は不思議と居心地が悪くないので、別段文句がある訳でもない。
ルーファスは堕ちたと言えど天使なので、清浄な気を放つ人物は悪くなかった。
彼と親しくなればゆっくりと堕落させていくことも可能だろうと考え、隣に座ることを許している。
パトリックは確かに内に光を持ち清浄な気を放つ存在だが、やはり人間で、あの少女とは全く異なる光を持つ。
天使に守られた聖女の放つ光は、使徒の印により天の国に近くなっているのだ。
そのうえ、あの揺らぐことの無い信仰心。彼女ならば神のもとへ行っても良いのではと思わせるほど、気高い魂だった。
だからこそ、引き摺り堕とし甲斐があるとも言える。彼女ほどの存在も穢れるのだと分かれば、主も兄も天使たちも分かってくれるかもしれない。
「被告よ」
進行を副司教にさせていた司教が、少女に向かって口を開いた。
「我らの忠告や慈愛に満ちた勧告を十分に考慮し、そなたの考えを放棄するのだ」
「……反省するために、いったいどのくらいの時間をくださるというのですか?」
「即刻反省し、我らが望むことを答えるように」
司教の言葉に、少女は応えなかった。そしてそれは、今日の審問の終わりの合図でもあった。
司教は退席し、少女が部屋から牢獄へと連れ戻されていく。
ルーファスがその後を追っていこうとすると、パトリックがルーファスに呼び掛けて制止した。
「どうかされましたか、神官様」
「ルーファス。君はあの少女をどう思う?」
「僕の意見なんて何の参考にもならないでしょ。どうしたんですか? 突然」
「参考になるかは私が決める。ともかく、教えてくれ」
「そうですねぇ。僕が思うに、あの女は嘘を吐いていますよ。もしその女が聞いた声を神だと信じていたとしても、それは悪魔の囁きでしょう。そして神の威光を使い、みだりに民衆を惑わしたんです」
「だが、実際に彼女がいたことで戦況は大きく変わった。本当に声を聴いたんじゃないか?」
パトリックは公平だ。それは、彼の心が光を湛えていることからも分かる。
つまり客観的に見れば、彼女はやはり聖女にふさわしく見えるということか。
もっとも、そもそもこの異端審問自体が歪なので、彼女が聖女であるかどうかより教会への不信感を募らせているのかもしれないが。
しかし残念ながら、彼に同調してやる義理は無い。
むしろ彼にあの少女を疑わせることで、神の光を疑ったという罪で闇を生み出すことが出来るから、その方が都合がよかった。
「偶然でしょう。あるいは彼女が本当に神からの遣いだと信じたことで士気が上がり、結果的に勝利へと導かれたんです。ああ、悪魔と契約して勝利へ導かせたのかもしれませんね」
「……君はどうしても彼女を魔女にしたいんだな」
「僕にはあの女が魔女にしか見えませんから。でもね、もしあの子が本当に聖女なら、きっと神は彼女を救ってくださると思いますよ。もし救われないのなら、やっぱり魔女だったのでしょう」
「……そうか」
納得していないままパトリックは頷いて、そのままルーファスの前を立ち去った。
彼の光に澱みは無いから、あの少女を疑っているということは無さそうだ。
あの光が歪む瞬間を想像して、ルーファスはひっそりと笑みを浮かべた。
「こんにちは」
窓からの光がほとんど射さない牢獄の塔で、ルーファスは人好きのする笑みを浮かべて少女を見た。
少女は面倒臭いとでも言うように、視線だけで彼を見る。
今しがたまで祈っていたのだろう。彼女は床に座り、手を組んでいた。
「また来たんですね。お暇なようで」
「そんなかしこまらなくていいよ。僕と君との仲じゃない」
「貴方とは囚人と神学者以外の関係はありません。何を言われても、すでに答えていること以上の答えはありませんよ」
「ああ、あんな質問どうでもいいよ。僕は君に交渉しに来たんだ」
「交渉?」
少女は、体の向きを扉へと向けた。ルーファスは勝手に扉を開けて中へ入っていたので、少女とそのまま向き合う形になる。
男物の服を着た彼女には、審問会で見せた凛とした姿は無く、年相応の表情をしていた。
疲れと牢獄の環境は彼女をやつれさせ、捕まった当初の若々しさと溌溂さは感じられない。
「あのね、神に祈っても無駄だよ。神はお前を見放した。せっかく導きに従って尽くしたのに、あっさり捨てられちゃったね」
「見捨てられてはいません。先程も声が私を励ましてくれました」
「励ますだけなら簡単だからね。天使は嘘を吐かないから、君を天には届けてくれるだろう。でもね、処刑の火から逃してはくれないよ」
「私は処刑を恐れてはいません。それが神のご意志なら、それで構いませんから」
「可哀想な子。天使たちがお前を助けないのは、それが神のご意思だからではなく、お前を助けるメリットがないからさ。逃がすにしても人々の意識を変えるにしても労力がいるからね。それなら、新しく使徒を見出すほうがずっと簡単だ」
「……あなたは、一体?」
少女は怪訝な顔で、ルーファスにそう尋ねた。
今までも彼女と何度か話をしたことはある。それは大抵、異端審問の後。
わずかでも彼女の心に神への不信感を与えようと、神の声を疑わせるような言葉を掛けてきた。
しかしルーファスはその時でも、今回のように直接的に天使を貶めるようなことはしなかった。
理由は単純で、彼女の心が頑なに神と天使を信じていたからだ。
けれど、今日の少女はいつもと様子が違っている。それが身に病を持っているからか、疲れているからかは分からない。
ルーファスの力によって、天使たちがこの塔へ赴くことが出来ないようにしているので、以前よりも天使の声を聴くことが出来なくなっているはずだから、そのせいかもしれない。
なんにせよ、ルーファスはその彼女の心のわずかな揺らぎを待っていた。
だが客観的見れば、天使を直接否定するような言動は敬虔な信徒たる神学者がやるようなことではない。それゆえ、少女はルーファスを疑っているだった。
疑われることはわかっていたけれど、ルーファスにとってそれは大きな問題ではない。
ルーファスは口の端をスッと上げ、意地悪そうな表情になる。
「さてね。憐れな戦乙女。お前がもし僕と手を結ぶなら、ここから逃がしてあげるよ。僕は教会の者たちをどうとでもできるからさ。さ、どうする?」
ルーファスの問いに、彼女は答えない。
それは肯定ではないが、同時に否定でもなかった。
以前の彼女ならばすぐに断っていただろうに、それほどまでに心が揺らいでいるらしい。
もう一押し。しかし押しすぎてはダメだ。かえって彼女の心を神に近づけさせてしまいかねない。
「まだまだ時間はある。考えておいて」
ルーファスは黙り込んだ少女を置いて、牢を出た。
門番の男はそれを当たり前のように受け入れ、ルーファスを見送る。
ルーファスが何をやっても、何を言っても、この街の人間は疑問に思わない。
それはルーファス、もといルシフェルが人知を超えた存在であり、闇を抱えた人間にとっては『従うべき王』だからである。
パトリックのように闇を持たない者には効かないが、彼のように心に闇を持たない人間などそういるはずもないので、基本的には操ろうとせずとも意のままにすることが出来る。
そしてそのパトリックも、牢の中の聖女も、いつかは自らに従うようになるのだろう。
自分を聖人だと信じている人間が堕落した時の絶望、そして神に仕えるべき者が己に跪く様は、ルシフェルにとって何よりの娯楽である。
****
また幾日か経ち、少女の姿は火刑台の横の説教台にあった。
神学博士が声高らかに彼女へ説教を行っている。
一般人にも公開されており、多くの町人が詰めかけていた。
説教が一通り終わると、今度は裁判官を務める司教が訴状などを読み上げ始める。
その表情は少女を憐れんでいるように見え、ルーファスは馬鹿らしさに鼻を鳴らした。
神官に見つかれば大目玉だろうが、彼らは今この馬鹿げた舞台を盛り上げるのに必死で気付くことは無いだろう。
「さあ、悔い改めて、この書状に署名するのです」
説教を行った神学博士が、彼女の前に紙を差し出した。
ペンが置かれ、周りから見える位置で署名を行えるようになっている。
あの紙は、いわゆる改悛の書状だ。
天使の声を信じ勝利に導き続けた少女が、その信仰を否定して教会への信仰を示す内容が書かれている。
この異端審問は初めから終わりまで、彼女を処刑するために作られた舞台であるから、当然あの改悛の書状は教会に有利になるように記載されているはず。
おおよそ、少女が文字の読めないことを利用して、騙して書かす算段なのだろう。
「乙女よ、どうか私を信じて。君が望むならば君は救われる。君が着ている男物の服を脱ぎ、命じられた通りにするんです。そうでないと、死の危険が迫りますよ。もし君が私の言う通りにするのなら、君は救われ、多くの幸いを得、不孝となることもなく、教会の一員に戻れるでしょう」
少女の横に付き従った男が、彼女にそう告げた。
彼が教会の味方なのか、少女を憐れんで心から言っているのかは分からない。
だがいずれにしても、署名したところで彼女が解放されることはない。彼女自身がそれを分かっているかは怪しいが。
どのみち、とルーファスは少女を見る。
あの娘は従わないだろうと思っていた。何せ死を恐れぬ少女なのである。
少女は微笑んでいる。横には火刑台があって、死刑執行人がその時を待っているというのに。
思えば少女が取り乱したところを1度も見たことがなかった。審問中でも、牢の中でも、彼女が穏やかさを失ったことは無い。
その少女が、くつくつと喉を鳴らし、ふざけたようにペンを取った。
「ええ、ええ。私は教会に服従いたしましょう。」
彼女はさらさらとサインを書き上げる。
その笑い声は少しずつ大きくなり、ついに高らかに変わっていく。
気が触れたと思った者もいたかもしれない。やはり悪魔と契約をしていると確信したものや、あるいは、その姿を憐れに思った者もいただろうか。
ルーファスは、彼女の行動に驚きを隠せずにいた。あれほど死を物ともしなかった少女が、あっさりと改悛したのだから。
てっきり信仰をもとに拒むかと思っていたのに、何故。
心の澱みは生まれていない。ということは、彼女は天使たちの意に反してはいないということだ。
ならば、あの行動も天使たちの意思なのだろうか。
しかしあの堅物どもが、己への信仰を否定させるようなことをするとは思えなかった。
むしろ、殉教しろとさえ言いそうなものだ。
少女の笑い声はすぐに小さくなったが、しかし肩を揺らしている。
彼女が何をそれほど面白がっているのかは分からない。
教会の思惑に気が付いたか、たとえ使命とはいえ己の信じたものを否定することが、笑わずにはいられないほどに酷く耐え難かったのか。
いずれにせよ、こうして少女は男装と真実の証言を捨てることになったのだ。
「判決を言い渡す。パンと水のみによる永久入牢に処す。汝はそこで、汝が犯してきた罪に涙し、今後涙すべき罪を再び犯すことの無いように。我々の慈悲と減刑がそなたにとって効果があるよう願う」
判決を言い終わると、少女はそのまま牢へと連れて行かれた。
彼女は信仰を捨てたわけではない。
だが、天は偽りを許さない。示した行動はすべて真実となってしまう。
彼女の思惑がどうであれ、あの改悛にサインをしたことで、結果としては自ら天使たちの守護を取り払ったのだ。
それはルーファスにとって絶好のチャンスのはずなのに、なぜかがっかりしたような気持ちになった。
「彼女はやはり、魔女だったのだろうか」
パトリックが神妙な面持ちで、ルーファスに問う。彼の心には、わずかな澱みが出来ていた。
あの聖なる乙女を疑い始めたことで、心が天から遠ざかった証である。
ああ、これだ。普通の人間は、どれほど清らかな心を持っていても、こうしていとも容易く心に澱みを生む。
ルーファスはパトリックを存外気に入っていたので、彼が堕ちてくるのは大歓迎であった。
澱みではまだ闇を増幅させることは出来ないが、この澱みはいずれはっきりとした闇になるだろう。
そのとき、ルーファスは彼を地獄へと誘う契約を結ぶのだ。
しかし今は彼に構っている場合ではない。あの少女に悪魔の契約を結ばさせることが先決である。
ルーファスはパトリックの疑問に答えることなく、一言断ってからその場を後にした。
「あんなものに署名するとは思わなかったよ」
スカートを纏った少女に、ルーファスは声を掛けた。
相変わらず牢の内側にいるが、少女はそれについて言及しない。今までしたことも無かった。
「私には使命があります。4つの使命が。そのうち2つが、まだ終わっていないの」
「そうだとしても、あれは天使の声を否定する所業でしょ? 天使の声は、まだ聞こえてる?」
少女は答えなかった。声が聞こえていないのか、あるいは聞こえているけど話したくない内容だったのかは分からないけれど、どうやら芳しくは無いようだ。
とすれば、やはりあれは天使の命令ではないということ。それはルーファスにとって都合が良い。。
ルーファスは、以前掛けた言葉をもう一度掛けた。
「お前がもし僕と手を結ぶなら、ここから逃がしてあげるよ。どうする?」
「……永久入牢の刑が、神学者の一存でどうにかなるとは思えませんが」
「僕は特別。ここに入れているのを見て、分かってるだろ?」
「……あなたは、悪魔なの?」
少女が虚ろな目で尋ねてきた。そこにはもはや希望もなく、何にすがってよいか分からなくなっているようにも見える。
天使は彼女を助けず、彼女は天使の守護を否定していて、関係は崩れかけている。
問いかけは本気でそう思っていたわけではなく、絶望的な状況で甘い囁きをするルーファスが悪魔に見えたのだろう。
ルーファスはくすりと笑った。
「それは正確じゃないかな。堕天使と悪魔は、ちょっと違うんだ」
「……堕天使?」
「そうさ。僕は愚かな人間に裁きを下す、異端審問官だよ」
黒い翼をばさりとはためかせると、少女は驚くように瞳を大きくする。
赤い瞳はより深くなり、深い闇が蠢いている。短髪だった白い髪はすらりと腰まで伸びる。
これは人間に見せる時のルシフェルの姿だった。
昔はミカエルと同じ、金色の髪に白い大きな羽根だった。瞳は地を思わせる深い茶色で、兄と並ぶと天と地を連想させた。
しかしミカエルの手によって天より血の深い奥底に堕ち、長い時を牢獄で過ごしていたら、すっかり変わってしまった。
「天使はお前を見放した。お前も天使を捨てただろ? それなら、僕と一緒においで。ここから逃がしてあげる」
「私は神を捨てたつもりはないわ。使命を受けたから」
「嘘つき」
「え?」
「お前はただ怖かっただけだろ? 死ぬのが怖くなったんだ。だから命惜しさに神を捨てた。違う?」
少女が使命のために改悛の書に署名した気持ちは、嘘では無いだろう。だが、馬鹿正直にそれを肯定することは無い。
彼女は今、使命のためとはいえ神や天使を捨てたことに揺らぎがあるはずだ。突かない手は無い。
「命惜しさに神を捨てるなんて、どうせ地獄へと堕とされるよ。それなら僕と契約して、自由になりなよ。神が味方しなくても、僕がお前のやりたいことを手伝ってあげよう」
「私は神のご意思に従って行動するの。悪魔とは手を結べない」
「でも、そのご意思に従わずあの書類にサインをしたじゃないか。天使たちの声は何と言っていた? 自分達を捨てて良いと許可はあったの?」
「それは……」
「天使たちは、お前を助けてくれなかっただろ。いつまでも縋る必要は無いよ。僕がいる、それでいいじゃない」
「……」
少女の心は揺らぎ始めている。けれどなぜか澱まない。
普通ならばパトリックの時のように、こうして天から心が離れかけているときは澱むはずなのに。
それは、彼女がどこまで行っても敬虔な信者だからに他ならなかった。
少女は、何かを考え込むように俯いた。手は組まれ、痛いほどに握られている。
こんなときでも、まだ我らが主に、天使たちに、縋るのか。
天を捨て地に落ちるとなったとしても神を助けたいと思ったルーファスは、最後の最後まで彼らに縋ることはしなかったのに。
それが一つの誇りだったと同時に、弱さでもあったことを、ルーファスは分かっていた。
ルーファスはほかの天使たちに、何より兄ミカエルに否定されることが怖かったのだ。そして、我らが創造主に突き放されるのが怖かった。だから、あのような姑息な手段を用いて人間たちを楽園から追放させた。
こうして、今この時でさえ神を信じている彼女を見ていると、仲間を頼らなかった自分が惨めになる気がした。
たかが人間の少女に、何故自分はこれほど揺らがされねばならぬのか。それがルーファスを苛立たせる。
「今すぐ決めなくてもいいよ。また来るから。それじゃあ」
早くその場を去りたくて、ルーファスは彼女の返事を待たずに足早に退出した。
きっと彼女は最終的には己の罪を自覚し、こちらに助けを求めてくるはずだ。
そうすれば、やはり彼女ほどの聖女も己のためにならば神をも否定できる異端者なのだとはっきりする。
その時まで、少し時間を空けよう。
ルーファスは彼女といることが自分にとって、あまり良くない影響を与えるような気がしていた。
しかしそのルーファスの考えは、彼女自身の手で打ち砕かれることとなる。
「何故再び男装をした。誰かに指示をされたのか」
問い詰められているのは、改悛を行ったはずの少女だった。
彼女は女物ではなく男の服を着ており、それは間違いなく再び異端となった証である。
少女は自嘲するように微笑みながら言った。
「いえ、私が自分の意志で行ったものです。それに、私は男の服の方が好きなのです」
「再び男装をしないという誓いを行ったではないか」
「私は二度と男の服を着ないと言ったつもりはありません。それに私は、ミサに赴き、ご聖体を拝領でき、そのうえで鎖を解いてくれるという約束でした。けれどあなた方は約束を果たさなかった。だから私も破ったのです」
「お前は自分の行いは誤りだったと悔い改めたというのに、それは嘘なのか」
「もし約束を果たしてもらい、もっと良い牢に入ることが出来、女性を一人付けてもらえるならば、私は喜んで教会の望む通りのことを行いましょう」
少女はあの改悛の一幕の後、本来ならば教会の牢へ繋がれる予定となっていた。
しかし教会がそのような約束を果たすことは無く、結局敵国の牢にいれられ、しかも通常女性には女の看守がつけられるところを男の看守が付いていたのだという。
もちろん、これらは少女が再び男装をするよう仕向ける行為だったのだろう。
少女は、自分は暴行にあいかけたのだと訴えた。
「お前は、まだ声は聴いているのか?」
「はい、聖女の声を聴きました。彼女は命惜しさに改悛の書状にサインをするなど恥ずべき裏切り行為であり、彼女はそれを大いに憐れみ給いました。命を惜しんでの行為は地獄に堕ちるものだと告げました」
ルーファスは、彼女の話に出て来る聖女を思い浮かべた。
聖女はもとは人間であり、この乙女のように死ぬまで信心を捨てず、かつ民衆から信仰されることで永遠を持つようになった魂を指す。
悪魔も堕天使も多く、日々地獄へ堕とすことに勤しんでいるが、必ずしも成功するわけではない。悔しいことに、魂を天へ運ばれてしまうこともある。
聖人たちはこうして新しい使徒に天使と共に声を聴かせ仲間を増やそうとするうえ、元が人間なだけあり人間と調和しやすく、天使と違いはっきりと姿を見せて言葉を交わすことが可能だった。
件の聖女は、確かに敬虔な信徒であった。しかしここまで神のために尽くした少女に向ける言葉としては、あんまりな気もする。
そんなことを言われては、心に闇を生みかねない。
ルーファスにとっては願ったりかなったりではあるが、なんとも釈然としなかった。
「聖女の声を聴いたという言葉は、偽りではなかったのか」
「いいえ。私は聖女だったことを否認するつもりはありませんでした。私が行ったことはすべて火刑への恐怖から来たことです。真実に背かないものを否認したりはしません。それに」
少女は完全に希望を失った瞳でゆっくりと司教を見る。
それはまるで底の見えない穴のように深く暗いのに、彼女の心はそれでもなお光り輝いていた。澱みすら見えない。
普通ならばあり得ないことだ。信仰している本人から突き放されたのだから。
しかし彼女はこのような状態になってまで天使たちを信じているのである。
何が彼女をそこまで信心深くさせているのか、ルーファスには不思議でならない。
少女は、覇気のない声で言った。
「これ以上牢獄で苦しみに耐えるよりも、一度限りの贖罪を果たすことを選びたいと思いました」
一度限りの贖罪。それはもちろん、死である。
彼女はすでに現世に何も見出しておらず、文字通り神に委ねることにしたのだろう。
司教による仕打ちは、むしろ彼女が神を深く信じ縋るきっかけになってしまったようだった。
審議はこれで終了だった。彼女の死刑判決は確定に違いない。
もう彼女の心が変わることは無いだろうと、ルーファスには分かっていた。
彼女に闇が無ければ、迎えに来た天使たちを追い払うことは出来ない。
なぜなら天使たちはルーファスにははっきりと確認できず、人の闇に潜んでこそ認知できるからだ。
ここまで完璧に光で染まってしまっていては、それは期待できなかった。
「やはり、彼女は聖女なのだと思う。ルーファス、君はどう思う?」
「聖女だったとしても、あの子は地獄へ行くんでしょう。聖女がそう言っていたらしいし。それに、たとえどれほど潔白でも、あの子は火刑台の灰になりますよ。今更覆せないでしょう」
「ああ、そうだね。なんとも嘆かわしいことだ。彼女ほど我らが主に忠実な僕もいなかったろうに!」
パトリックが悲し気に俯いた。
彼はどこまで行っても敬虔な信徒なので、聖女であると確信できる少女が燃やされるのは耐えがたいのだろう。
彼の心にあったはずの澱みが消えている。これは、あの少女がまさしく本物であると信じたからだ。
これだから嫌なのだ。聖女というのは、存在するだけで周りの人間の闇を浄化してしまう。彼女を信じるだけで、心は天に近くなるのだ。
果たして澱み程度では、あっという間に直されてしまう。
ルーファスはパトリックにも興味が失せて、いや、すべてがつまらなくなってしまって、部屋を後にした。
「彼女の魂は、責任をもって私が貰っていく」
「そうですか、ご自由に」
突然現れたミカエルに、ルシフェルは驚かなかった。
そんなことに構うほど、彼女の魂への興味が無くなっていたのだ。
「ルシフェル、人は時に間違えるが、正していける動物だ。不完全だからこそ、そうして己の正解を見つけ出せる」
「説教しに来たんですか、兄上。今はそんな気分じゃないので」
「ルシフェル、お前は我らが主に選ばれた魂がいる天を知らないだろう? 彼らはとても良い働きをして、楽園はもっと豊かになっているよ。お前にも見て欲しい」
「あいにく、僕は堕天した身ですから無理ですね」
「罪を償い、天に戻ってくるんだ」
大天使は、どこまでいっても兄であり敬虔な使徒だった。真面目で、穢れを知らぬ存在。
一度穢れた身は、その罪のすべてを雪ぐことはできないのだと知らないのだ。
ミカエルの知らない、我が主と交わした会話がある。
主はルシフェルの行いを大層悲しまれ、その心根を憐れまれ、どれほどの時が経とうとも決して許されぬと告げた。
それと同時に、堕落した人々の管理を任せると言ってきたのだ。
ルシフェルたち堕天使や悪魔が囁かなくても、人は勝手に堕ちていく。そのとき、地獄を管理する者がいないのは問題だ。
そこでルシフェルに地獄の管理を任せることにしたのである。誰より人間を憎むルシフェルに、だ。
これは永久に赦されぬ、拷問のような罰だった。
しかし、その真実をミカエルに告げることはしない。
ルシフェルは兄を敬愛していたし、こうしていつか再び天で手を取り合えると思ってくれているからこそ声を掛けているだろうから。
もし真実を知れば、彼はこうして会いに来なくなってしまうかもしれない。彼が姿を見せなければ、ルシフェルには兄と言葉を交わす事もできないのだ。
ミカエルの存在はとても煩わしく、それでいて、愛おしかった。
ルシフェルはミカエルに向かって首を振った。
「いいえ、兄上。たとえ彼女のような稀有な存在が居るとしても、多くは愚かで穢れた、御前にはふさわしくない者ばかりです。僕は彼らを断罪する務めがあります」
「主はそれを望んでいない」
「たとえそうでも、僕はこれを務めとしています。現に、何があっても揺らがぬ、本当に光しか持たぬ者のみが天へ向かっているでしょう?」
「だが」
「兄上。今日はもう、終わりにしましょう。聖女は地獄へ堕ちると脅したようですが、実際は天へ昇るのでしょう」
ルシフェルがそう告げると、ミカエルは眉間に皺を寄せた。
「その件だが、聖女はそのようなことは言っていないらしい」
「え?」
「彼女の言を否定しようと声を掛けようとしたが、彼女の心は閉ざされてしまっていたようだ」
「でも、僕も、他の悪魔たちも何もしていませんよ」
聖女を偽って悪魔が声を掛けたならば、そしてそれを受け入れたならば、いくら聖女と言えど彼女の心には闇が生まれる。しかし、彼女の心に隙は無かった。
可能性があるとすれば。
ひとつの可能性に気づいたルシフェルは、じわじわと込み上げてくる笑いを耐えることが出来なくなった。
それは彼女への憐れみから来るものだった。
「はは、そうか。なるほど」
「どうした?」
「兄上。どうか彼女を憐れんでやってください。彼女はね、最後の最後で、幻覚を見たんですよ! 彼女は罪の意識が深かった。だからきっと、自分自身で思い込んでしまった。神にすら愛される資格のない、地獄へ堕ちるべき人間だと!」
「では、自己暗示で幻覚を見たと?」
「ええ、おそらく。彼女はそれを聖女からの言葉だと信じたから、心は澱みも穢れもなかったのです!」
自分をそこまで追い詰め、幻覚まで見てしまうほど、彼女の心はすり減っていたのだろう。
何がきっかけだったのかは分からない。改悛か、あるいはもっと前からそうだったのか。
いずれにせよ、たった二十年と少ししか生きていない少女にとって、冷たい牢獄の日々は辛く苦しいものだったのだ。
何にせよ、このままでは彼女は天へはいけない。天は確かに穢れが無い者を連れて行くが、自ら死を選ぶ者は除外されてしまうから。
今回のような事例とて結局は自殺行為なので、このままでは天へ行くことは難しいだろう。
しかしそれはどうにも不憫だと、さすがのルシフェルも思わざるを得なかった。
この街に来て以降、彼女の真の信仰を目の当たりにし続けたのは、他でもないルシフェルだ。そしてそのルシフェルが、せっかく天へ行く未来を見届けようと思っていたのに、このようにして天へ行くのが阻まれるのは歓迎できない。
堕ちたといえども。ルシフェルもまた天使なのである。
「兄上、彼女を助けたいのなら、彼女に死ぬように命じてください」
「私の言葉は主の言葉である。主は彼女に死ぬようには命じていない」
「では僕が、彼女に命じましょう。僕の手を取って生きろと。彼女が拒めば、それは信仰に従って殉教したことにできるでしょう」
「……お前は、それでいいのか?」
「ええ、まあ。僕としては最後のチャンスですからね。その代わり、彼女が拒んだ暁にはせいぜい天にでも御前にでも連れて行ってください」
「分かった」
ミカエルは強く頷いて、その場を去った。
彼女がやってきてからおよそ一年。ようやく、彼女はこの呪縛と否定の日々から解放されることになる。
****
結論から言えば、少女はやはり共に行くことを拒んだ。
今回の誘いは地獄へ連れて行くためだけではなく、彼女があまりに憐れだったので助けてやりたいという気持ちが少なからずあったように思う。だが、あっさりと断られてしまった。
最も、拒むことこそ彼女らしさだと思い、悪い気はしなかった。
火刑台の周りでは群衆がその様子を伺っている。しかし人々の表情は、異端者を見るものとは違っているように思える。
聖女であると信じての悲しみ、若い少女が処刑されることへの憐れみ、どう判断したら良いか分からない戸惑い。
さまざまな思惑が絡み合う処刑が今、行われようとしている。
ルーファスはただぼうっと、何を想うでもなく、その様子を見ていた。
罪状と判決が読み上げられ、少女は火刑台の上に縛り付けられる。
「どうか十字架を」
少女の鈴のような声は、近くにいた修道士に向けられた。
彼らはすぐに十字架を用意し、彼女の前へと掲げる。一人の敵国の兵士もまた、彼女のために十字架を立てた。
やがて火が放たれると、少女の姿は煙に包まれ見えなくなっていく。
そしてその煙の中から、敬虔なる信徒として天に召された者の名が聞こえてきた。
何度か叫ばれたその声は次第に小さくなり、やがて消えた。
「ああ、なんてことだ。聖女を燃やしてしまったんだ!」
一人の死刑執行人が泣き崩れた。それを皮切りに、見ていた人々からも嗚咽が聞こえ始める。
彼女は、たしかに聖女だった。その事実を知っているのは天使たちを除けばルーファスただ一人だったが、それでも、民衆は彼女が聖女だったのだと認めたのである。
立ち会った神官たちですら悲し気な表情をする中、気に食わなそうにしている男が一人。今回の一連の裁判を担当した司教である。
彼が何故あのような表情をしているのか、ルーファスには見当がついている。
少女は聖女として、母国の王の戴冠を行った。つまり王は、彼女によってその信頼を得ていたのだ。
少女が実は異端だったことで王の信用を失墜させ、さらには泣き叫ぶ少女を前に少女一人救わないような王なのだと知らしめたかったに違いない。
しかし、死せる少女は泣き叫ぶどころか最後まで敬虔な信者であり続け、誰もが思わず涙を零してしまうほどの聖なる乙女であった。
それで予定が狂ったのだろう。
ルーファスは内心で、ざまあみろ、と思った。
愚かな人間がその愚かさゆえに、救われる道を自ら潰したのだ。
彼は死後、ルーファスもしくは他の堕天使や悪魔の手によって地獄の底へ連れ去られ、永遠の責め苦を受けることになるだろう。身から出た錆だ。
「せめて天で安らかに眠らんことを」
パトリックが横で祈りを捧げながら、そう呟く。彼の心はすっかり光一色である。
そこでふと、先日のミカエルの言葉を思い出した。
――人は時に間違えるが、正していける動物だ。
ミカエルは人間に期待をしているようだったが、ルーファスには人間への期待など一切ない。
けれど確かに、正していける動物なのだろう。パトリックが自らの信仰の力で澱みを払拭したように。
何百万、何千万、あるいは何十億という人間の中で、そういった稀有な存在は確かにいるのだ。
ルーファスは今日も明日も、人間を堕とし続ける。何を言われても、人間は神の御前に赴くに相応しくない存在であると信じているからだ。
天で暮らすなどもってのほかで、最も忌むべきことである。
だが。例えばその限りなく低い可能性に当たった時は、天での祝福を祈ってやるくらいは良いかもしれないと思った。
「貴方は堕ちないでくださいね」
「ん? 何か言ったか?」
「いえ、別に」
パトリックは少し純粋なだけの、普通の人間だ。彼はきっとどこかのタイミングで堕ちてしまうだろう。
そうすればルーファスにとってはまた一つ天地から穢れを排除できたことになるから、喜ばしいことだけれど。
すべてに裏切られ散った聖女のために祈る彼のその未来が、少しでも先になるようにと思わなくもなかった。
「さ、帰りましょ」
ルーファスはパトリックに声を掛け、未だ煙の昇る広場を後にする。
その顔には、微笑みが浮かんでいた。
~Fin~
※異端審問のやりとりは複数のサイトや本を参考とし、一部抜粋及び創作が含まれます。




