9.「いつも同じ言い訳です」
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執務室に戻る廊下を歩きながら、僕は先ほどの図書館での出来事を反芻していた。
リーベンシュタイン男爵令嬢──アンナ。
彼女と話している時だけ、この重苦しい日常から解放されたような気がした。
「普通でいたい」という彼女の言葉が、妙に心に残っている。
僕も同じことを願っているのかもしれない。
王太子という肩書きを捨てて、ただの一人の青年として生きることができたら。
執務室の扉を開けると、そこにはキャリエルが待っていた。
銀髪を優雅に結い上げ、紺色のドレスに身を包んだ彼女は、いつも通り完璧な貴族令嬢の姿だった。
「レイン様、お待ちしておりました」
その声には、かつてのような温かみがない。
いつからこうなってしまったのだろう。
「キャリエル、何か用かい」
僕は努めて穏やかに尋ねたが、声には疲労が滲んでいた。
「来月の舞踏会の件で、打ち合わせが必要かと」
彼女は淡々と用件を告げる。
まるで業務連絡のようだ。
「ああ、そうだったね」
正直、舞踏会のことなど頭になかった。
最近は政務に追われ、社交行事まで気が回らない。
キャリエルは僕の様子を見て、小さくため息をついた。
「また忘れていらしたのですね」
その言葉には、明らかな非難が込められていた。
「申し訳ない。最近は──」
「最近は政務がお忙しい、でしょう?」
キャリエルが僕の言葉を遮った。
「いつも同じ言い訳ですわ」
彼女の青い瞳に、苛立ちが浮かんでいる。
僕は椅子に座り、額に手を当てた。
頭痛がする。
「キャリエル、僕は本当に」
「分かっています」
彼女の声は冷たい。
「レイン様がお忙しいのは理解しております。でも」
言葉を切って、彼女は窓の外を見つめた。
「私たちは婚約者同士です。もう少し、お互いのための時間を作るべきではありませんか」
正論だった。
彼女の言うことは全て正しい。
だが、なぜかその正しさが重くのしかかってくる。
「君の言う通りだ」
僕は認めた。
「もっと努力すべきだった」
「努力」
キャリエルが振り返った。
その表情には、悲しみが浮かんでいた。
「私との時間を作ることが、そんなに努力を要することなのですか」
胸が痛んだ。
彼女を傷つけるつもりはない。
でも、最近は彼女と過ごす時間が苦痛に感じられるのも事実だった。
「そういう意味では」
「では、どういう意味ですか」
キャリエルが詰め寄る。
「最近のレイン様は、私を避けているようにしか見えません」
否定できなかった。
確かに、僕は彼女を避けていた。
理由は自分でもよく分からない。
ただ、彼女といると息が詰まるような感覚があった。
「疲れているんだ」
結局、僕はそう言うしかなかった。
「王位継承者としての責任が、日々重くなっている」
キャリエルは唇を噛んだ。
「私は、レイン様と共に歩んでいきたいとおもっております。レイン様も同じ事をおっしゃってくださったではありませんか」
彼女の声が震えた。
「でも、最近のレイン様は私を必要としていないように見えます」
その言葉に、僕は何も返せなかった。
沈黙が二人の間に横たわる。
重く、息苦しい沈黙。
ふと、先ほどのアンナとの会話を思い出した。
あの時の沈黙は、こんなに苦しくなかった。
むしろ心地よいくらいだった。
「レイン様?」
キャリエルの声で我に返る。
「何を考えていらっしゃるのですか」
まさか別の女性のことを考えていたとは言えない。
「いや、何でもない」
僕は首を振った。
「舞踏会の件、詳細を聞かせてくれ」
キャリエルは少し躊躇った後、書類を取り出した。
「招待客のリストです。確認をお願いします」
リストに目を通しながら、僕の意識は別のところに飛んでいた。
もし、僕の婚約者がキャリエルではなく、アンナだったら。
そんな考えが、不意に頭をよぎった。
「レイン様、聞いていらっしゃいますか」
キャリエルの苛立った声。
「ああ、すまない」
集中しようとするが、思考は勝手にアンナのことに戻ってしまう。
図書館で見せた、あの寂しそうな表情。
「普通でいたい」という切実な願い。
なぜか、その言葉が心に刺さって離れない。
「もういいです」
キャリエルが書類を片付け始めた。
「今日のレイン様と話しても無駄のようですから」
「キャリエル」
「また後日、お時間のある時に」
彼女は優雅に立ち上がった。
しかし、その動作の端々に怒りが滲んでいる。
「待ってくれ」
僕は彼女を呼び止めた。
「本当に申し訳ない。君に対して不誠実だった」
キャリエルは振り返った。
その瞳に、一瞬希望が宿る。
「では、今週末、一緒に過ごしていただけますか」
彼女の提案に、僕は頷くべきだった。
それが正しい選択だと分かっていた。
でも。
「今週末は、少し一人になりたいんだ」
言葉が口を衝いて出た。
キャリエルの表情が凍りついた。
「そうですか」
彼女の声は静かだった。
静かすぎて、かえって恐ろしい。
「分かりました。レイン様がそうおっしゃるなら」
キャリエルは深く礼をした。
完璧な作法だが、心がこもっていない。
「失礼いたします」
彼女が部屋を出て行った後、僕は椅子に深く沈み込んだ。
なぜ、あんなことを言ってしまったのだろう。
キャリエルは何も悪くない。
完璧な公爵令嬢で、将来の王妃として申し分ない。
でも、完璧すぎるのかもしれない。
彼女といると自分も完璧でいなければならない気がして、疲れてしまう。
窓の外を見つめながら、僕はまたアンナのことを考えていた。
彼女となら、こんな風に疲れることはないのではないか。
お互いに「普通」を求める者同士、きっと分かり合えるはずだ。
もし彼女が僕の婚約者だったら。
朝、目覚めた時に最初に会うのが彼女だったら。
政務に疲れて帰った時、彼女が温かく迎えてくれたら。
そんな想像が、次から次へと湧き上がってくる。
「何を考えているんだ、僕は」
自分で自分に呆れた。
キャリエルとの婚約は、国家間の重要な取り決めだ。
個人の感情で覆せるものではない。
それに、そもそも僕とキャリエルの間に最初から愛があるはずもないと分かっていたではないか。
長い人生を共に歩む中で、愛を育てればよいと思っていたはずではないか。
大体、アンナ嬢とは今日初めてまともに話したばかりだ。
なのに、なぜこんなにも心が惹かれるのか。
執務机の上の書類が山積みになっている。
やるべきことは山ほどある。
でも、集中できない。
頭の中は、蜂蜜色の髪と翡翠の瞳でいっぱいだった。
立ち上がって、窓辺に歩み寄る。
王都の午後は穏やかに流れている。
どこかで、アンナも同じ空を見上げているのだろうか。
「また図書館で会えるかな」と聞いた時、彼女は「はい、きっと」と答えた。
もう一度、彼女と話がしたい。
あの穏やかな時間をまた共有したい。
いや、待て。
僕は本当にそう思っているのか?
本当に──?
「殿下」
侍従の声で現実に引き戻された。
「次の予定のお時間です」
「分かった、すぐ行く」
最後にもう一度窓の外を見て、僕は執務室を後にした。
歩きながら、ふと思う。
僕は本当に僕なのだろうか。
自分がどんどん変わっていってしまうようで──恐ろしい。