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8.「学園での生活が……辛いのです」

 ◆


 リーベンシュタイン男爵邸の朝食の間は、重苦しい空気に包まれていた。


 窓からは朝の陽光差し込み、磨き上げられた銀食器を輝かせているが──その明るさとは対照的に、アンナの表情は暗い。


 向かいに座る父ダンカンは、いつも通り新聞に目を通していた。


 豪商から男爵位を得た彼は、情報収集を何より重視している。


 アンナは震える手でフォークを置き、意を決して口を開いた。


「お父様、私、学園を休学したいのです」


 ダンカンの手が止まった。


 彼はゆっくりと新聞を下ろし、娘の翡翠の瞳を見つめる。


 どこか探るような視線だ。


「理由を聞かせてもらえるかな」


 アンナは俯いた。


 喉の奥に言葉が詰まる。


 友人を失い、男子生徒たちの異常な執着に晒される日々。


 もはや限界だった。


「学園での生活が……辛いのです」


 彼女の声は震えていた。


「皆が私を避けるか、異常に執着するかの二択で」


 ダンカンは娘の言葉を黙って聞いていた。


 表情に変化はないが、その瞳の奥で何かが動いた。


「それで休学したいと」


「はい」


 アンナは小さく頷いた。


「少し時間をいただければ、この『祝福』との向き合い方も」


 しかしダンカンは首を横に振った。


「それはできない」


「でもお父様──」


「アンナ」


 ダンカンの声が急に厳しくなった。


「我が家は男爵家だ。それも成り上がりの」


 彼は椅子の背にもたれ、天井を見上げた。


「私が商人から爵位を得るまでに、どれほどの苦労があったか」


 アンナは父の顔を見つめた。


 普段は温厚な父が、こんなに真剣な表情を見せるのは珍しい。


「貴族社会で生き残るには、人脈が全てだ」


 ダンカンは続けた。


「学園を辞めれば、お前の将来の縁談にも影響する」


「でも、このままでは」


「聞きなさい、アンナ」


 父の声は静かだが、有無を言わせない重みがあった。


「我が家の立場は、まだ脆弱だ。古参貴族たちは今も我々を『成金』と蔑んでいる」


 ダンカンは立ち上がり、窓辺に歩いた。


「だからこそ、お前には立派な貴族の子女として振る舞ってもらわねばならない」


 アンナは唇を噛んだ。


 父の言うことは理解できる。


 しかし、この苦しみをどう耐えればいいのか。


「それにお前の『祝福』は神からの贈り物。それを隠して生きることは、神への冒涜になる」


「お父様、それは……そうかもしれませんが」


「だからこそ、その祝福を否定してはならない」


 ダンカンは娘の言葉を遮った。


「与えられた恩寵に感謝し、それを活かして生きるのが人の道だ。反すれば罰が与えられるぞ」


 アンナは反論できなかった。


 父の言葉は正論に聞こえる。


 確かに、愛されたいと願った。


 確かに、その願いは叶えられた。


 だが胸の奥で、何か違和感が疼いた。


 これは本当に祝福なのだろうか。


 人の心を歪め、関係を破壊するものが。


「分かりました、お父様」


 アンナは力なく頷いた。


「学園には通い続けます」


「良い子だ」


 ダンカンは微笑んだ。


 しかしその笑顔は、どこか作り物めいていた。


「ペンダントは肌身離さず着けているね?」


「はい」


 アンナは胸元のペンダントに触れた。


「一度も外していません」


「それでいい」


 ダンカンは満足そうに頷いた。


「決して外してはいけないよ」


 朝食が終わり、アンナは自室に戻った。


 扉を閉めると同時に、彼女は扉にもたれかかった。


 涙が頬を伝う。


「神様」


 アンナは小さく呟いた。


「私は、こんな形で愛されたかったわけじゃないのに」


 学園に向かう時間が近づいていた。


 今日もまた、あの地獄のような一日が始まる。


 アンナは深呼吸をして、制服に着替え始めた。


 逃げることは許されない。


 ならば耐えるしかない。


 そう思うアンナだがしかし、心の奥底で小さな疑問が芽生え始めていた。


 父は本当に、自分のことを思って言っているのだろうか。


 それとも──


 その考えを振り払うように、アンナは首を振った。


 ◆


 王立魔術学院の図書館は、知識の宝庫であると同時に、学生たちの憩いの場でもあった。


 高い天井まで届く書架の間を、柔らかな魔術灯の光が照らしている。


 そんな中、アンナは最奥の席に身を潜めるようにして分厚い魔術史の本を開いていた。


 視線は文字を追っているが、内容は頭に入ってこない。


 周囲の気配に神経を尖らせながら、ただ時間が過ぎるのを待っていた。


「この席、空いているかな」


 突然の声に、アンナは顔を上げた。


 そこに立っていたのは、金髪碧眼の青年だった。


 王太子レイン・アルカディア。


 アンナは一瞬息を呑んだが、すぐに小さく頷いた。


「はい、どうぞ」


 レインは優雅に腰を下ろし、自分の本を開いた。


 アンナは再び視線を本に落としたが、心臓が早鐘を打っている。


 なぜ王太子が、こんな奥まった席に。


 しばらく沈黙が続いた。


 ページをめくる音だけが、静かに響く。


「リーベンシュタイン男爵令嬢だね」


 レインが口を開いた。


「最近、よくここで見かける」


 アンナは顔を上げた。


 王太子の碧眼は穏やかで、まだ「あの光」は宿っていない。


 少し安堵しながら、彼女は答えた。


「静かな場所が好きなので」


「僕も同じだ」


 レインは微笑んだ。


「最近は特に、静寂が恋しくてね」


 その言葉に、どこか疲れたような響きがあった。


 アンナは相槌を打ちながら、早くこの場を離れたいと思っていた。


 しかし、王太子に対して無礼な態度は取れない。


「政務でお疲れなのですか」


 当たり障りのない言葉を選ぶ。


「政務もあるが」


 レインは苦笑した。


「それ以上に、人間関係というものは難しい」


 アンナは黙って頷いた。


 深く踏み込まないよう、注意深く距離を保つ。


「君は」


 レインが続けた。


「人間関係で悩むことはあるかい」


 アンナは一瞬言葉に詰まった。


 正直に答えるべきか、当たり障りのない返答をすべきか。


「誰にでも、そういうことはあると思います」


 結局、曖昧な答えを選んだ。


 レインは少し首を傾げた。


「君も苦労しているんだね」


 その声には、予想外の共感が込められていた。


「社交界は時に残酷だ。特に、目立つ者には」


 アンナは驚いた。


 王太子が自分の状況を知っているのだろうか。


「私は」


 言いかけて、口を閉じる。


 レインは静かに待っていた。


 押し付けがましさのない、穏やかな沈黙。


「私は、ただ普通でいたいだけなんです」


 アンナは小さく呟いた。


「普通に友人と話して、普通に学んで、普通に」


 声が震え始めた。


 涙をこらえる。


「すまない」


 レインが謝った。


「辛いことを思い出させてしまったようだ」


「いえ」


 アンナは首を振った。


「殿下のせいではありません」


 二人の間に、また沈黙が流れた。


 今度は先ほどとは違う、どこか温かみのある静けさだった。


「実は僕も」


 レインが口を開いた。


「最近、『普通』というものに憧れている」


 アンナは顔を上げた。


 王太子の表情には寂しさが浮かんでいた。


 アンナは何も言えなかった。


 王国の頂点に立つ者にも、こんな悩みがあるなんて。


「でも、君と話していると」


 レインの声が柔らかくなった。


「なぜか肩の力が抜けるんだ」


 その瞬間、アンナは気づいた。


 レインの瞳に、うっすらと「あの光」が宿り始めている。


 心臓が跳ね上がった。


「あの、私」


 アンナは慌てて立ち上がった。


「次の講義があるので、失礼します」


「待って」


 レインも立ち上がる。


「また、ここで会えるかな」


 アンナは振り返らずに答えた。


「はい、きっと」


 嘘だった。


 もう二度と、ここには来ないだろう。


 足早に図書館を出ながら、アンナは震えていた。


 振り返る勇気はなかった。


 きっと王太子は、あの恐ろしいほど熱い視線で自分を見つめているはずだ。


 廊下を小走りに進みながら、アンナは絶望的な気持ちになった。


 王太子まで。


 これ以上、誰かの人生を狂わせたくない。


 特に王太子には、キャリエル公爵令嬢という立派な婚約者がいるのだ。


「神様」


 アンナは心の中で祈った。


「どうか、これ以上私を試さないでください」


 しかし、その祈りが届くことはなかった。

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