3.「それに、素晴らしい研究材料を得られたし」
◆
ヴィルヌーヴ子爵家の応接間。
大きな窓から差し込む陽光が磨き上げられた家具に反射し、部屋全体を柔らかく照らしている。
そんな中、アルベルト・フォン・ヴィルヌーヴは、いつもより落ち着かない様子で二人の令嬢を迎えた。
「マリアンヌ、それにモンフォール伯爵令嬢も。朝早くから、どうされたのですか」
栗色の髪の青年は、婚約者に向ける視線に困惑を滲ませていた。
「アルベルト様、お話があって参りました」
マリアンヌの声は震えていたが、セシリアの存在が彼女を支えていた。
「私も同席させていただいてよろしいでしょうか」
セシリアは穏やかに微笑んだ。
「マリアンヌの親友として、お二人のお力になれればと思いまして」
アルベルトは一瞬戸惑ったが、頷いた。
「もちろんです。どうぞお座りください」
三人が席に着くと使用人が紅茶を運んできた。
香り高い茶葉の匂いが緊張した空気を和らげる。
「アルベルト様」
マリアンヌが口を開いた。
「最近のあなたの様子について、心配しているのです」
「私の様子?」
青年は首を傾げた。
「何か問題でも?」
「先週の舞踏会以来、あなたは変わってしまった」
マリアンヌの瞳に涙が浮かんだ。
「口を開けばアンナ様のことばかりで……」
その名前を聞いた途端、アルベルトの表情が一変した。
まるで魔法にかかったように、瞳が輝き始める。
「ああ、アンナ様! 彼女は素晴らしい方です」
「どのように素晴らしいのですか?」
セシリアが静かに問いかけた。
「それは……」
アルベルトは言葉を探すように宙を見つめた。
「彼女の笑顔は太陽のようで、声は銀の鈴のよう」
セシリアとマリアンヌは視線を交わした。
「なるほど」
セシリアは手帳を取り出した。
「他には?」
「彼女といると心が安らぎ、時間を忘れてしまうのです」
アルベルトは夢見るような表情で続けた。
セシリアはペンを走らせながら、鋭い質問を投げかけた。
「アルベルト様、アンナ様とは何について話されたのですか?」
「え?」
「舞踏会で踊られた時、どんな会話を?」
アルベルトは考え込んだ。
「それは……天気の話や、音楽の話を……」
「具体的には?」
「具体的に……」
彼の表情に困惑が浮かんだ。
「覚えていないのです。ただ、素晴らしい時間だったことだけは」
セシリアの青い瞳が、学者特有の輝きを帯び始めた。
彼女は、今まさに古代から伝わる魔術解体理論の実践を目の当たりにしていることを理解していた。
「これは実に興味深い現象ですね」
彼女は立ち上がり、まるで講義でもするかのように歩き始めた。
「第四魔術理論によれば、すべての感情には『発生点』と『展開過程』、そして『定着機序』があります」
アルベルトとマリアンヌは、突然始まった講義に戸惑った。
「セシリア?」
「ああ、失礼」
セシリアは振り返ったが、その瞳は爛々と輝いている。
根っからの魔術オタクである彼女は、こういった話をさせれば何時間だって話す事が出来るのだ。
「つまりですね、真の感情には必ず具体的な記憶が伴うのです」
彼女は指を立てて説明を続けた。
「例えば、マリアンヌ様への愛情を思い出してください」
「はい……」
「図書館での出会い、最初の会話、共に過ごした時間」
セシリアは熱弁を振るった。
「これらの記憶が感情の『根』となり、樹木のように成長していく」
「なるほど……?」
アルベルトは理解しようと努めた。
「しかし!」
セシリアは急に声を大きくした。
二人がびくりと身を震わせる。
「アンナ様への感情には、その『根』が存在しない」
彼女は手帳にさらさらと図を描き始めた。
「これは第十三世紀の魔術師ヘルメティウスが提唱した『感情樹理論』でも説明できます」
「感情樹……理論……」
マリアンヌは友人の変貌に困惑していた。
「根のない樹は枯れる運命にある」
セシリアは断言した。
「では、なぜアルベルト様の感情は持続しているのか?」
彼女は目を輝かせた。
「これこそが今回の現象の特異性です!」
アルベルトは恐る恐る口を開いた。
「あの、モンフォール伯爵令嬢……」
「セシリアで結構です」
彼女は微笑んだが、すぐに真剣な表情に戻った。
「さて、私の仮説はこうです」
また講義が始まった。
「何らかの外的要因により、既存の微細な好意が異常増幅されている」
「微細な好意?」
「そうです。例えば『綺麗な人だな』程度の印象」
セシリアは立ち上がり、身振り手振りを交えて説明した。
「それが通常の千倍、いや万倍に増幅されているとしたら!?」
マリアンヌが小声で呟いた。
「セシリア、少し落ち着いて……」
「ああ! そうだ!」
セシリアは突然叫んだ。
「魔術根源解体理論を応用すれば!」
彼女は興奮のあまり、アルベルトの両肩を掴んだ。
「アルベルト様、今から実験をさせてください」
「実験!?」
「はい、とても簡単な実験です。正直効果があるかはわかりませんが、簡単な魔術解体の手順を取ってみましょう」
セシリアは一歩下がり、深呼吸をした。
古代の魔術師たちは、あらゆる魔術には「認識の土台」があることを発見していた。
術者が対象に植え付けた認識が、魔術効果を維持する基盤となる。
しかしその認識に矛盾が生じた時、魔術は内部から崩壊を始めるのだ。
要するに、中身が入っていない水差しに「水」というラベルを貼りつければ、多くのものがその中に水があると思い込むだろう。
本当は水がないにも関わらずだ。
これが魔術である。
しかし、何かの拍子で水差しが床に落ちて割れたとする。
もちろん水がこぼれたりはしない──そもそも水はないのだから。
すると多くの者が水は入っていなかったのだと気付くだろう。
これが魔術の根源崩壊である。
魔術とは言ってしまえば、“世界”を騙す事なのだから、その虚偽のヴェールをはぎとってしまえば魔術は形を成さなくなる。
「まず、アンナ様への気持ちを数値化してみましょう」
「数値化……」
「1から10までで表現してください」
アルベルトは困惑しながらも答えた。
「それは……10です」
「素晴らしい! では次に」
セシリアは嬉しそうに手を叩いた。
「その10という数字の根拠を、一つずつ挙げてください」
「根拠?」
「そうです。なぜ10なのか、理由を10個」
アルベルトは考え込んだ。
「笑顔が太陽のよう……声が銀の鈴……」
「それで2つです。あと8つ」
セシリアは容赦なく迫った。
彼女が今行っているのは、魔術の根源に対する「論理的圧迫」だった。
人工的に作られた感情は、その構造が単純であるがゆえに、詳細な検証に耐えられない。
質問を重ねることで、魔術的に構築された認識の脆弱性が露呈していく。
「えっと……美しい……優しい……」
「具体的にどう優しいのですか?」
「それは……」
アルベルトは言葉に詰まった。
セシリアは勝ち誇ったような顔をした。
「ほら! 10の根拠が4つしか出てこない」
彼女はくるりと回って、窓の外を指差した。
「これこそが、人工的に作られた感情の証拠です!」
マリアンヌはため息をついた。
「セシリア、あなた楽しんでるでしょう」
「いえいえ、これは純粋に学術的な興味から……」
セシリアは咳払いをした。
「さて、本題に戻りましょう」
彼女は再びアルベルトに向き直った。
「今度はマリアンヌ様への気持ちを数値化してください」
アルベルトはマリアンヌを見つめた。
「それは……測れません」
「測れない?」
「数字では表せないんです」
彼の声は確かだった。
「彼女の存在は、私の人生の一部だから」
セシリアの表情が真剣になった。
「それです」
「それ?」
「真の感情は数値化できない」
彼女は静かに言った。
「逆に言えば、簡単に数値化できる感情は……」
「人工的なもの」
アルベルトが理解し始めた。
この瞬間、彼の中で魔術的な影響が揺らぎ始めていた。
論理的な矛盾の自覚は、魔術の「認識の土台」に亀裂を生じさせる。
それはまるで、精巧に組み上げられた積み木から、最下段の一つを抜き取るようなものだった。
セシリアは頷いた。
「では、解体作業を始めましょう」
「解体作業?」
マリアンヌが不安そうに尋ねた。
「大丈夫です、痛くありません」
セシリアは微笑んだ。
「ただ、質問に答えていただくだけです」
彼女は椅子に座り直した。
「アルベルト様、アンナ様の誕生日はいつですか?」
「え? それは……」
「好きな食べ物は?」
「……」
「趣味は? 家族構成は? 将来の夢は?」
矢継ぎ早の質問に、アルベルトは一つも答えられなかった。
セシリアの質問は、単なる情報収集ではなかった。
魔術によって植え付けられた「愛情」という概念と、その実体の乖離を明確にすることで、魔術の構造そのものを崩壊させていく。
知識の欠如は、感情の虚構性を暴露する最も効果的な手段だった。
「でも、マリアンヌ様については?」
セシリアが促すと、アルベルトは淀みなく答え始めた。
「10月15日生まれ、好物は苺のタルト、趣味は読書と乗馬」
彼は愛おしそうに婚約者を見つめた。
「三人兄妹の長女で、将来は魔術図書館を作りたいと」
マリアンヌの頬が赤く染まった。
「全部覚えていてくれたのね」
セシリアは満足そうに頷いた。
「これが真の愛情です」
彼女は立ち上がった。
「相手を知りたいという欲求、知識の蓄積、そして共有された記憶」
「なるほど……」
アルベルトの表情から、夢見るような曖昧さが消えていく。
魔術の解体は、今まさに完了しつつあった。
対比によって明確になった「本物」と「偽物」の違いは、もはや否定しようのない事実として彼の意識に刻まれた。
認識の土台が完全に崩壊した今、魔術的な影響を維持することは不可能だった。
「私は一体、何に夢中になっていたのでしょう」
「それは今後の研究課題ですね」
セシリアは手帳にメモを取り始めた。
「この現象、論文にまとめたら学会で大騒ぎになりそう……」
「セシリア」
マリアンヌが苦笑した。
「今は学術的興味より、アルベルトのことを」
「ああ、そうでした」
セシリアは我に返った。
「アルベルト様、完全に回復するには時間がかかるかもしれません」
彼女は真面目な顔で続けた。
「でも、矛盾を自覚した今、もう後戻りはしないでしょう」
アルベルトは深く頷いた。
「マリアンヌ、本当に申し訳なかった」
「いいえ」
マリアンヌは優しく微笑んだ。
「あなたのせいではないわ」
二人が見つめ合う中、セシリアは思考に没頭していた。
「感情を人工的に増幅させる能力……」
彼女は呟いた。
「これは王国にとって重大な脅威かもしれない」
しかし、その考察は、親友の幸せな姿を見て一旦棚上げされた。
「さて、私は失礼します」
セシリアは立ち上がった。
「エルンスト様との実験が……」
「セシリア」
マリアンヌが呼び止めた。
「ありがとう」
「当然のことをしたまでよ」
セシリアは微笑んだ。
「それに、素晴らしい研究材料を得られたし」
アルベルトが苦笑した。
「我々は実験材料ですか」
「いえいえ、貴重な症例です」
セシリアは真顔で訂正した。
三人は顔を見合わせて、笑い出した。
窓の外では、王都の昼下がりが平和に流れている。
しかし、セシリアの胸には新たな疑問が生まれていた。
アンナ・ド・リーベンシュタインとは、一体何者なのか。
そして、なぜこのような能力を持っているのか。