20.「お嬢様、旦那様が書斎でお待ちです」
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ラファエル様からの告白を受けた夜、家に帰ると空気が違っていた。
玄関で迎えた使用人たちの表情が、どこか強張っている。
視線を合わせようとしない。
胸騒ぎがする。
「お嬢様、旦那様が書斎でお待ちです」
執事の声も、心なしか震えているように聞こえた。
ラファエル様との幸せな時間の余韻は、一瞬で冷たい不安に変わった。
書斎への廊下を歩きながら、私は必死に平静を保とうとした。
でも予感は的中していた。
重い扉を開けると、そこには見たこともない表情の父がいた。
◆
書斎の空気はまるで氷のように冷たかった。
父は大きな机の向こうに座り、何枚かの書類を睨みつけている。
その横顔には、抑えきれない怒りが滲んでいた。
「お父様、お呼びでしょうか」
できるだけ平静を装って声をかけた。
父はゆっくりと顔を上げる。
その瞳に宿る光を見て、私は息を呑んだ。
冷たい、計算高い光。
今まで優しい父親の仮面の下に隠されていた、本当の顔がそこにあった。
「座れ」
短い命令に、私は従うしかなかった。
革張りの椅子に腰を下ろすと、父は書類を私の前に投げ出した。
それは、今日の私とラファエル様の行動を記した報告書だった。
モンターニュ子爵邸を訪問したこと。
そして、帰り道での出来事まで。
血の気が引いていく。
私たちは、監視されていたのだ。
「お前は何を考えている」
父の声は、恐ろしいほど静かだった。
嵐の前の静けさのような、不気味な平静さ。
「モンターニュ家の男などと付き合うとは。お前にはもっと素晴らしい運命があるのだ」
運命。
その言葉に、私は震えた。
父が私に何を望んでいたのか、今更ながらに理解する。
「でも、お父様。私は──」
「黙れ!」
突然の怒号に、私は身をすくませた。
父の顔は怒りで真っ赤に染まっている。
「王太子殿下が、お前に心を寄せていたのだぞ!」
父は立ち上がり、机を叩いた。
「なぜそれを無駄にした! なぜモンターニュ如きを選んだ!」
その言葉に、すべてが繋がった。
ペンダントのこと。
父の真の狙い。
私は、ただの駒だったのだ。
「お父様は、最初から」
震える声で問いかける。
「私を王太子妃にするつもりだったのですね」
父は一瞬黙り、そして冷たく笑った。
「当然だ。そのために、どれほどの投資をしたと思っている」
投資。
私の存在は、父にとって投資対象でしかなかった。
涙が頬を伝い始める。
「私の幸せは、どうでもよかったのですか」
「幸せ?」
父は鼻で笑った。
「王太子妃になることが、最高の幸せではないのか」
違う。
それは父の野望であって、私の幸せではない。
でも、そんな言葉を口にする勇気はなかった。
◆
「もう遅い」
父は椅子に座り直し、冷たい目で私を見つめた。
「お前がモンターニュ家と関係を深めたことで、すべての計画が台無しになった」
彼は書類をまとめ始める。
「これだけの準備をしたのに。協力者も雇い、公爵令嬢の失脚も画策した」
私は愕然とした。
父は、そこまでしていたのか。
「なぜ、そんなことを」
「成り上がり者が生き残るには、力が必要だ」
父の声には、商人時代の執念が滲んでいた。
「男爵位など、所詮は最下級の爵位。だが、王家と繋がれば話は別だ」
そして、父は立ち上がった。
「お前は暫く自室で頭を冷やせ」
有無を言わせない口調だった。
「外出は一切禁じる。モンターニュ家との交流も、今日限りだ」
「そんな!」
私は立ち上がった。
「お父様、お願いです。ラファエル様は——」
「その名を口にするな!」
父の怒号が書斎に響く。
「お前には分からんのか。我が家の未来がかかっているのだ」
私は必死に訴えた。
ラファエル様との出会い。
共に過ごした時間。
そして、今日交わした想い。
でも父の表情は変わらなかった。
むしろ、ますます硬くなっていく。
「甘い夢は終わりだ」
父は使用人を呼んだ。
「アンナを部屋へ。そして、窓には鉄格子を。誰も近づけるな」
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自室へと連行される間、私の頭は真っ白だった。
つい数時間前まで、あんなに幸せだったのに。
ラファエル様の優しい笑顔。
温かい手の感触。
月明かりの下で交わした言葉。
すべてが、遠い夢のように思えた。
部屋に入ると、すぐに鍵の音が響いた。
振り返ると、使用人たちが申し訳なさそうな顔で立っている。
「お嬢様、申し訳ございません」
年配の侍女が涙を浮かべていた。
「でも、旦那様のご命令ですので」
私は力なく頷いた。
彼女たちを責めても仕方がない。
窓に近づくと、既に職人が鉄格子を取り付けている最中だった。
かつて自由に開け放っていた窓が、牢獄の窓に変わっていく。
外の世界との繋がりが、一つずつ断たれていく。
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ベッドに座り込み、震える手でペンダントを握りしめた。
もう祝福の力はない、ただの装飾品。
でも、これだけが今の私の拠り所だった。
セシリア様が浄化してくださった時のことを思い出す。
エルンスト様の冷静な分析。
二人の優しさ。
きっと、助けを求めれば力になってくれるはず。
でも、どうやって?
この部屋から、どうやって連絡を取れというのか。
涙が止まらなかった。
せっかく掴んだ幸せが、父の野望によって引き裂かれていく。
ラファエル様は、私がいなくなったことをどう思うだろう。
心配してくれるだろうか。
それとも、私が彼を裏切ったと思うだろうか。
考えれば考えるほど、胸が締め付けられる。
◆
翌朝、朝食は部屋に運ばれてきた。
銀の盆に載せられた豪華な食事。
でも、何も喉を通らない。
「お嬢様、少しでもお召し上がりください」
侍女が心配そうに声をかける。
私は首を振った。
「手紙を、出すことはできませんか」
小さな声で尋ねる。
侍女の顔が曇った。
「申し訳ございません。旦那様が、一切の通信を禁じておられます」
最後の希望も断たれた。
私は窓辺に立ち、鉄格子越しに外を眺めた。
いつもと変わらない王都の朝。
人々が行き交い、鳥が飛び、太陽が昇っていく。
でも私だけが、この檻の中に閉じ込められている。
ふと、庭を見下ろすと、見慣れない男たちが立っていた。
明らかに、監視の為に雇われた者たち。
逃げ道は、完全に塞がれていた。
◆
数日が過ぎた。
毎日が同じことの繰り返し。
朝食、昼食、夕食。
そして、ただ待つだけの時間。
本を読もうとしても、文字が頭に入ってこない。
刺繍をしようとしても、手が震えて針が持てない。
ただ、ラファエル様のことを考えて過ごす日々。
彼は今、何をしているだろう。
きっと心配しているに違いない。
でも、どうすることもできない。
ある日の午後、廊下から足音が聞こえてきた。
いつもの使用人とは違う、重い足音。
扉が開き、父が入ってきた。
「気は変わったか」
冷たい声で問いかける。
私は黙って首を振った。
「強情な娘だ」
父は溜息をついた。
「お前の母も、同じように強情だった」
母の話が出るのは、久しぶりだった。
私が幼い頃に亡くなった母。
優しくて、いつも私の味方でいてくれた人。
「母なら、きっと私の気持ちを分かってくれたはずです」
その言葉に、父の顔が歪んだ。
「だから早死にしたのだ」
冷酷な言葉に、私は息を呑んだ。
「現実を見ろ、アンナ。この世界は力がすべてだ」
父は窓の外を見つめた。
「商人時代、どれほど蔑まれたか。金があっても、地位がなければ虫けらも同然だった」
そして、振り返る。
「だが、お前が王太子妃になれば、すべてが変わる」
その瞳には、狂気じみた執念が宿っていた。
私は恐ろしくなった。
これが、本当の父の姿なのか。
◆
父が去った後、私は決意を固めた。
このままでは、本当に一生檻の中で過ごすことになる。
何か、方法があるはずだ。
窓の鉄格子を調べてみる。
頑丈で、とても外せそうにない。
扉も同様に、内側からは開けられない。
でも、諦めるわけにはいかない。
ラファエル様との約束がある。
また図書館で会う約束。
東方の詩集を一緒に読む約束。
そして、これからもずっと一緒にいるという約束。
夜になって、私はある計画を思いついた。
危険だけれど、試してみる価値はある。
明日の朝食の時、侍女が部屋に入ってくる瞬間。
その一瞬の隙を狙って──
でも、本当にできるだろうか。
使用人たちに迷惑をかけることになる。
父の怒りは彼女たちにも向かうだろう。
そう思うとできなかった。
葛藤に苛まれながら、私は眠れない夜を過ごした。
月が窓から差し込んでいる。
あの夜と同じ月。
でも今は、鉄格子に遮られて、その光も檻のように見えた。
私は小さく呟いた。
「ラファエル様、助けて」




