18.「明日もきっと、素敵な一日になる」
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数週間が過ぎた。
季節は晩秋から初冬へと移ろい、王都の街並みも少しずつ冬支度を始めている。
学園への道のりで見かける街路樹も、すっかり葉を落として寂しげな枝を空に伸ばしていた。
でも私の心は不思議と温かかった。
ラファエル様との勉強会は、今や私の日常に欠かせないものになっていた。
最初は図書館で課題を教え合うだけだったけれど、最近では学園の外でも会うようになった。
カフェで紅茶を飲みながら文学談義をしたり、王都の美術館で東方の美術品を鑑賞したり。
そうして過ごす時間は、とても心地よかった。
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その日の放課後、いつものように図書館で勉強していると、ラファエル様が嬉しそうな表情で声をかけてきた。
「アンナ嬢、今日はお時間ありますか?」
私は顔を上げた。
彼の栗色の瞳が、いつもより輝いている。
「はい、大丈夫ですけど」
「実は、王都の古書店で面白いものを見つけたんです」
ラファエル様は身を乗り出した。
「東方の文化に関する稀覯本があるらしくて。一緒に見に行きませんか?」
私は少し驚いた。
学園の外で会うことは増えたけれど、二人きりで古書店というのは初めてだった。
「もちろん、喜んで」
私は微笑んだ。
彼の誘いを断る理由なんて、どこにもなかった。
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王都の旧市街にあるその古書店は、まるで時間が止まったような場所だった。
『月光書房』という看板が、夕日を受けて金色に輝いている。
扉を開けると、古い紙とインクの匂いが私たちを包み込んだ。
「いらっしゃいませ」
白髪の店主が、読んでいた本から顔を上げて微笑んだ。
「ラファエル様、お待ちしておりました」
「こちらが話していたアンナ嬢です」
ラファエル様が私を紹介する。
店主は優しく頷いた。
「東方の書物は奥の棚にございます。ごゆっくりどうぞ」
私たちは礼を言って、店の奥へと進んだ。
天井まで届く書架の間を歩いていると、まるで知識の迷宮に迷い込んだような気分になる。
「すごい品揃えですね」
私は感嘆の声を上げた。
「ここなら何時間でもいられそう」
「アンナ嬢もそう思われますか」
ラファエル様が嬉しそうに言った。
「私も初めて来た時、閉店時間まで居座ってしまって」
彼は照れたように頭を掻いた。
そんな彼の姿が、なんだか可愛らしく思えた。
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東方の書物が並ぶ一角は、異国情緒に満ちていた。
見慣れない文字で書かれた背表紙が、整然と並んでいる。
「これです」
ラファエル様が一冊の本を手に取った。
「『東方秘報録』の初版本。挿絵も美しいんですよ」
彼がページをめくると、精緻な銅版画が現れた。
異国の風景、珍しい動物、不思議な建築物。
どれも見たことのない世界の断片だった。
「素敵……」
私は思わず呟いた。
「いつか、本当にこんな場所を見てみたいです」
「私も同じことを思いました」
ラファエル様が優しく微笑んだ。
「世界は広いんだなって」
私たちは並んで本を眺めながら、ゆっくりと書架の間を歩いた。
時々立ち止まっては、気になる本を手に取る。
哲学書、歴史書、地理書……どれも興味深いものばかりだった。
「あ、これ見てください」
私は一冊の本を見つけた。
「東方の恋愛詩集みたいです」
革装丁の表紙には、金箔で美しい文様が描かれていた。
そっとページを開くと、流麗な文字が並んでいる。
幸い、隣に翻訳が付いていた。
「月を見上げる恋人たちの詩、ですか」
ラファエル様が隣から覗き込んだ。
彼の肩が、私の肩に軽く触れる。
ドキッとしたけれど、離れることはできなかった。
「『月は知っている、恋人たちの秘密を。銀の光で照らしながら、永遠の誓いを見守る』」
私は詩を読み上げた。
なんだか頬が熱くなってくる。
「ロマンチックですね」
ラファエル様の声が、いつもより近い。
彼の吐息が、私の髪を微かに揺らした。
「東方の詩人は、月を恋愛の象徴として詠むことが多いんです」
彼は詩の解説を始めたけれど、私の耳にはあまり入ってこなかった。
ただ、彼の声の響きだけが心地よく響いている。
ふと顔を上げると、ラファエル様も私を見つめていた。
◆
その瞬間、二人の視線が合った。
栗色の瞳が、まっすぐに私を見つめている。
今まで何度も見てきたはずなのに、どうしてこんなに違って見えるのだろう。
友人として過ごしてきた時間が、急に違う色彩を帯び始めた。
心臓が早鐘を打つ。
でも、それは恐怖からではなかった。
何か温かくて、優しくて、でも少し切ないような感情が胸の奥で渦巻いている。
「アンナ嬢……」
ラファエル様が私の名前を呼んだ。
その声には、今まで聞いたことのない響きが含まれていた。
私は詩集を胸に抱きしめた。
何か言わなければと思うのに、言葉が出てこない。
ただ、この瞬間がずっと続けばいいのにと願っていた。
「私……」
ラファエル様が何か言いかけた時、店の奥から店主の声がした。
「申し訳ございません、そろそろ閉店のお時間です」
魔法が解けたように、私たちははっと我に返った。
慌てて一歩離れる。
さっきまでの親密な空気が、急に恥ずかしくなった。
「も、もうこんな時間でしたか」
ラファエル様も動揺しているようだった。
「詩集、お買い上げになりますか?」
私は手の中の本を見つめた。
月と恋人たちの詩。
今の私たちには、あまりにも意味深すぎる。
「いえ、今日は……」
そう言いかけた時、ラファエル様が口を開いた。
「私が買います」
彼は詩集を受け取ると、レジへと向かった。
私は呆然と彼の後ろ姿を見つめていた。
◆
店を出ると、すっかり日が暮れていた。
街灯が灯り始め、王都の夜が始まろうとしている。
「送っていきます」
ラファエル様が静かに言った。
「もう遅いですから」
私は頷いた。
二人で並んで歩き始める。
さっきまでの気まずさは、いつの間にか消えていた。
代わりに、何か新しい感情が芽生え始めている。
「あの詩集、どうして買われたんですか?」
私は思い切って尋ねた。
ラファエル様は少し照れたように微笑んだ。
「いつか、一緒に読めたらいいなと思って」
その言葉に、私の心臓がまた跳ねた。
一緒に、という言葉の意味を考える。
友人として?
それとも……。
「私も、そう思います」
小さく呟いた言葉が、夜の空気に溶けていく。
ラファエル様は優しく微笑んで、何も言わなかった。
ただ、二人の歩調が自然と合っていく。
月が昇り始めていた。
詩集に詠まれていた、恋人たちを見守る月。
私たちは何も言わずに、ゆっくりと歩き続けた。
この道がもう少し長ければいいのに。
そんなことを思いながら。
◆
家の前に着いた時、ラファエル様は立ち止まった。
「今日は楽しかったです」
彼の声は、いつもの穏やかさを取り戻していた。
でも、瞳の奥にはまだ、あの書店で見せた熱さが残っている。
「私も、とても楽しかったです」
別れたくない。
でも、まだその言葉を口にする勇気はなかった。
「また明日、図書館で」
ラファエル様が言った。
「はい、また明日」
私は微笑んだ。
彼は一礼すると、ゆっくりと歩き去っていく。
その後ろ姿を見送りながら、私は胸に手を当てた。
まだ心臓が、いつもより速く鼓動している。
これは一体、どういう感情なのだろう。
友情とは違う、もっと特別な何か。
部屋に戻ってから、私は窓辺に立って月を見上げた。
銀色の光が、静かに世界を照らしている。
月は知っているのだろうか。
私の心に芽生え始めた、この感情の正体を。
明日、ラファエル様に会ったら、どんな顔をすればいいのだろう。
いつも通りに振る舞えるだろうか。
それとも……。
考えれば考えるほど、胸が熱くなっていく。
でも、不思議と不安はなかった。
むしろ、明日が来るのが楽しみで仕方ない。
これが恋の始まりなのだとしたら。
私は初めて、心から誰かを好きになれるのかもしれない。
魔力や祝福とは関係のない、本当の気持ちで。
月明かりの中で、私は小さく微笑んだ。
明日もきっと、素敵な一日になる。
そんな予感がしていた。




