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愛の実証的研究 ~侯爵令息と伯爵令嬢の非科学的な結論~  作者: 埴輪庭


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18/23

18.「明日もきっと、素敵な一日になる」

 ◆


 数週間が過ぎた。


 季節は晩秋から初冬へと移ろい、王都の街並みも少しずつ冬支度を始めている。


 学園への道のりで見かける街路樹も、すっかり葉を落として寂しげな枝を空に伸ばしていた。


 でも私の心は不思議と温かかった。


 ラファエル様との勉強会は、今や私の日常に欠かせないものになっていた。


 最初は図書館で課題を教え合うだけだったけれど、最近では学園の外でも会うようになった。


 カフェで紅茶を飲みながら文学談義をしたり、王都の美術館で東方の美術品を鑑賞したり。


 そうして過ごす時間は、とても心地よかった。


 ◆


 その日の放課後、いつものように図書館で勉強していると、ラファエル様が嬉しそうな表情で声をかけてきた。


「アンナ嬢、今日はお時間ありますか?」


 私は顔を上げた。


 彼の栗色の瞳が、いつもより輝いている。


「はい、大丈夫ですけど」


「実は、王都の古書店で面白いものを見つけたんです」


 ラファエル様は身を乗り出した。


「東方の文化に関する稀覯本があるらしくて。一緒に見に行きませんか?」


 私は少し驚いた。


 学園の外で会うことは増えたけれど、二人きりで古書店というのは初めてだった。


「もちろん、喜んで」


 私は微笑んだ。


 彼の誘いを断る理由なんて、どこにもなかった。


 ◆


 王都の旧市街にあるその古書店は、まるで時間が止まったような場所だった。


 『月光書房』という看板が、夕日を受けて金色に輝いている。


 扉を開けると、古い紙とインクの匂いが私たちを包み込んだ。


「いらっしゃいませ」


 白髪の店主が、読んでいた本から顔を上げて微笑んだ。


「ラファエル様、お待ちしておりました」


「こちらが話していたアンナ嬢です」


 ラファエル様が私を紹介する。


 店主は優しく頷いた。


「東方の書物は奥の棚にございます。ごゆっくりどうぞ」


 私たちは礼を言って、店の奥へと進んだ。


 天井まで届く書架の間を歩いていると、まるで知識の迷宮に迷い込んだような気分になる。


「すごい品揃えですね」


 私は感嘆の声を上げた。


「ここなら何時間でもいられそう」


「アンナ嬢もそう思われますか」


 ラファエル様が嬉しそうに言った。


「私も初めて来た時、閉店時間まで居座ってしまって」


 彼は照れたように頭を掻いた。


 そんな彼の姿が、なんだか可愛らしく思えた。


 ◆


 東方の書物が並ぶ一角は、異国情緒に満ちていた。


 見慣れない文字で書かれた背表紙が、整然と並んでいる。


「これです」


 ラファエル様が一冊の本を手に取った。


「『東方秘報録』の初版本。挿絵も美しいんですよ」


 彼がページをめくると、精緻な銅版画が現れた。


 異国の風景、珍しい動物、不思議な建築物。


 どれも見たことのない世界の断片だった。


「素敵……」


 私は思わず呟いた。


「いつか、本当にこんな場所を見てみたいです」


「私も同じことを思いました」


 ラファエル様が優しく微笑んだ。


「世界は広いんだなって」


 私たちは並んで本を眺めながら、ゆっくりと書架の間を歩いた。


 時々立ち止まっては、気になる本を手に取る。


 哲学書、歴史書、地理書……どれも興味深いものばかりだった。


「あ、これ見てください」


 私は一冊の本を見つけた。


「東方の恋愛詩集みたいです」


 革装丁の表紙には、金箔で美しい文様が描かれていた。


 そっとページを開くと、流麗な文字が並んでいる。


 幸い、隣に翻訳が付いていた。


「月を見上げる恋人たちの詩、ですか」


 ラファエル様が隣から覗き込んだ。


 彼の肩が、私の肩に軽く触れる。


 ドキッとしたけれど、離れることはできなかった。


「『月は知っている、恋人たちの秘密を。銀の光で照らしながら、永遠の誓いを見守る』」


 私は詩を読み上げた。


 なんだか頬が熱くなってくる。


「ロマンチックですね」


 ラファエル様の声が、いつもより近い。


 彼の吐息が、私の髪を微かに揺らした。


「東方の詩人は、月を恋愛の象徴として詠むことが多いんです」


 彼は詩の解説を始めたけれど、私の耳にはあまり入ってこなかった。


 ただ、彼の声の響きだけが心地よく響いている。


 ふと顔を上げると、ラファエル様も私を見つめていた。


 ◆


 その瞬間、二人の視線が合った。


 栗色の瞳が、まっすぐに私を見つめている。


 今まで何度も見てきたはずなのに、どうしてこんなに違って見えるのだろう。


 友人として過ごしてきた時間が、急に違う色彩を帯び始めた。


 心臓が早鐘を打つ。


 でも、それは恐怖からではなかった。


 何か温かくて、優しくて、でも少し切ないような感情が胸の奥で渦巻いている。


「アンナ嬢……」


 ラファエル様が私の名前を呼んだ。


 その声には、今まで聞いたことのない響きが含まれていた。


 私は詩集を胸に抱きしめた。


 何か言わなければと思うのに、言葉が出てこない。


 ただ、この瞬間がずっと続けばいいのにと願っていた。


「私……」


 ラファエル様が何か言いかけた時、店の奥から店主の声がした。


「申し訳ございません、そろそろ閉店のお時間です」


 魔法が解けたように、私たちははっと我に返った。


 慌てて一歩離れる。


 さっきまでの親密な空気が、急に恥ずかしくなった。


「も、もうこんな時間でしたか」


 ラファエル様も動揺しているようだった。


「詩集、お買い上げになりますか?」


 私は手の中の本を見つめた。


 月と恋人たちの詩。


 今の私たちには、あまりにも意味深すぎる。


「いえ、今日は……」


 そう言いかけた時、ラファエル様が口を開いた。


「私が買います」


 彼は詩集を受け取ると、レジへと向かった。


 私は呆然と彼の後ろ姿を見つめていた。


 ◆


 店を出ると、すっかり日が暮れていた。


 街灯が灯り始め、王都の夜が始まろうとしている。


「送っていきます」


 ラファエル様が静かに言った。


「もう遅いですから」


 私は頷いた。


 二人で並んで歩き始める。


 さっきまでの気まずさは、いつの間にか消えていた。


 代わりに、何か新しい感情が芽生え始めている。


「あの詩集、どうして買われたんですか?」


 私は思い切って尋ねた。


 ラファエル様は少し照れたように微笑んだ。


「いつか、一緒に読めたらいいなと思って」


 その言葉に、私の心臓がまた跳ねた。


 一緒に、という言葉の意味を考える。


 友人として?


 それとも……。


「私も、そう思います」


 小さく呟いた言葉が、夜の空気に溶けていく。


 ラファエル様は優しく微笑んで、何も言わなかった。


 ただ、二人の歩調が自然と合っていく。


 月が昇り始めていた。


 詩集に詠まれていた、恋人たちを見守る月。


 私たちは何も言わずに、ゆっくりと歩き続けた。


 この道がもう少し長ければいいのに。


 そんなことを思いながら。


 ◆


 家の前に着いた時、ラファエル様は立ち止まった。


「今日は楽しかったです」


 彼の声は、いつもの穏やかさを取り戻していた。


 でも、瞳の奥にはまだ、あの書店で見せた熱さが残っている。


「私も、とても楽しかったです」


 別れたくない。


 でも、まだその言葉を口にする勇気はなかった。


「また明日、図書館で」


 ラファエル様が言った。


「はい、また明日」


 私は微笑んだ。


 彼は一礼すると、ゆっくりと歩き去っていく。


 その後ろ姿を見送りながら、私は胸に手を当てた。


 まだ心臓が、いつもより速く鼓動している。


 これは一体、どういう感情なのだろう。


 友情とは違う、もっと特別な何か。


 部屋に戻ってから、私は窓辺に立って月を見上げた。


 銀色の光が、静かに世界を照らしている。


 月は知っているのだろうか。


 私の心に芽生え始めた、この感情の正体を。


 明日、ラファエル様に会ったら、どんな顔をすればいいのだろう。


 いつも通りに振る舞えるだろうか。


 それとも……。


 考えれば考えるほど、胸が熱くなっていく。


 でも、不思議と不安はなかった。


 むしろ、明日が来るのが楽しみで仕方ない。


 これが恋の始まりなのだとしたら。


 私は初めて、心から誰かを好きになれるのかもしれない。


 魔力や祝福とは関係のない、本当の気持ちで。


 月明かりの中で、私は小さく微笑んだ。


 明日もきっと、素敵な一日になる。


 そんな予感がしていた。

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