16.「神を呪ったのです」
◆
ハイエスト公爵家の中庭は、秋の陽光を受けて金色に輝いていた。
白い鉄製のテーブルには、既に優雅なティーセットが並べられている。
キャリエルは緊張した面持ちで、時間を確認した。
約束の時間まであと五分。
──きっと来ないでしょうね
彼女はそう思っていた。
昨日あれだけの言葉を投げつけられたのだ。
王太子が態度を改めるとは思えない。
「どうせ時間の無駄ですわ」
小さくため息をつき、立ち上がろうとした時──
「キャリエル」
声がして、彼女は顔を上げる。
そこに立っていたのはレインだった。
約束の時間に遅れる事なく来たのだ。
「レイン様……」
キャリエルは目を見開いた。
「本当にいらしてくださったのですね」
レインは申し訳なさそうに頷いた。
「約束だからな」
その声には、昨日のような冷たさがない。
むしろ、どこか不安そうな響きさえ含まれていた。
「お座りください」
キャリエルは優雅に手を示した。
レインは静かに席に着き、向かい合った。
給仕が紅茶を注ぐ間、二人の間に沈黙が流れた。
「キャリエル」
レインが口を開く。
「まず、謝罪をさせてくれ」
キャリエルは紅茶のカップを置いた。
何か違う。
目の前にいるレインから受ける印象が、ここ最近のものとはまるで違っていた。
「私は君に対して許されないことを言った」
レインは真っ直ぐにキャリエルを見つめた。
「『出て行け』だなんて、あんな暴言を」
その瞳に宿っているのは、真摯な後悔の色だった。
「それに、君の気持ちを踏みにじるような態度を取り続けてきた」
キャリエルは黙って聞いていた。
かつてのレイン。
理想を語り、人を大切にすると言っていた頃のレインの姿がそこにあった。
「これを渡したい」
レインは懐から封筒を取り出した。
「昨夜、考えたことを書き留めた。口では中々上手く伝えられないと思ったから……」
キャリエルは震える手で封筒を受け取った。
丁寧に封を切り、中の手紙を取り出す。
そこにはレインの几帳面な文字が並んでいた。
『親愛なるキャリエルへ
まず、君がこれまで私のために払ってくれた努力に心から感謝する。
君は完璧な婚約者であろうと努めてくれた。
私を支えようと懸命に頑張ってくれた。
なのに私はその優しさに気づこうともしなかった。
昨日、君が言ってくれた言葉で私は目が覚めた。
対等な関係を築きたいと言ったのは私自身だったのに、いつの間にかそれを忘れていた。
君を息苦しくさせていたのは、むしろ私の方だったのかもしれない。
期待に応えようと無理をさせてしまった。
本当にすまなかった』
キャリエルの瞳から、涙がこぼれ始めた。
『私は理想の王になりたいと思っていた。
人を大切にし、誰もが希望を持てる国を作りたいと。
でも最近の私は、その理想から最も遠い場所にいた。
感情に振り回され、大切な人を傷つけ、醜い執着に囚われていた。
君の言葉がなければ、私は本当に道を踏み外していたかもしれない。
私を止めてくれてありがとう。
もし君が許してくれるなら、もう一度やり直したい。
今度こそ本当の意味で対等な関係を。
君の本当の姿を知りたい。
完璧な公爵令嬢ではなく、素のキャリエルと向き合いたい。
そして私も、飾らない自分を見せたいと思う。
弱さも、迷いも、全て含めて。
それでも私の隣にいてくれるだろうか。
レイン』
手紙を読み終えたキャリエルは、涙で頬を濡らしていた。
「キャリエル、すまない」
レインが慌てて立ち上がった。
「泣かせるつもりはなかった」
「違います」
キャリエルは首を振った。
「嬉しいんです」
彼女は涙を拭いながら、微笑んだ。
「やっと、レイン様が戻ってきてくださった」
レインは安堵の表情を浮かべ、再び席に着いた。
「許してくれるのか」
「もちろんです」
キャリエルは頷いた。
「私も反省すべき点があります」
彼女は手紙を大切そうに畳みながら続けた。
「完璧であろうとするあまり、本当の自分を見せることを恐れていました」
「私はもっと君の事が知りたいと思っている。教えてくれるか?」
レインが優しく尋ねた。
キャリエルは少し照れたように微笑んだ。
「実は私、そんなに完璧じゃないんです」
「例えば?」
「朝寝坊が大好きで」
キャリエルは恥ずかしそうに言った。
「侍女に起こされなければ、昼まで寝ていたいくらい」
レインは意外そうに、そして嬉しそうに笑った。
「私もだ。政務がなければ、一日中寝ていたいくらいだ」
「本当ですか?」
「ああ。それに、実は甘いものが大好きでな」
レインも打ち明けた。
「でも王太子らしくないから、隠していた」
二人は顔を見合わせて、くすりと笑った。
「他には?」
キャリエルが尋ねる。
「そうだな……実は剣術が苦手なんだ」
レインは苦笑した。
「王太子たるもの武芸に秀でるべきと言われるが、どうも向いていない。そもそも臣下を信じるのが王の仕事だろう? 私を守ってくれる臣下を信じて、剣術の稽古などサボってしまいたい」
「私は数学が苦手です」
キャリエルも告白した。
「家庭教師の先生には申し訳ないけれど、数式を見ると眠くなってしまって」
話しているうちに、二人の間の空気が和らいでいく。
飾らない素の会話が、心地よく続いていく。
「なあ、キャリエル」
レインが真剣な表情で言った。
「アンナ嬢のことなんだが」
キャリエルの表情が少し曇った。
「私はもう彼女への執着から完全に解放された」
レインは静かに言った。
「昨夜、じっくり考えて分かったんだ。あれは本物の感情じゃなかった」
「本当にそう思われるのですか?」
「ああ」
レインは断言した。
「まるで悪い夢から覚めたような気分だ。なぜあんなに執着していたのか、今では理解できない」
彼は続けた。
「彼女が何をしたというわけでもないのだが──なぜ私はあれほどまでに……。彼女の事など何一つ知らないのにな」
レインは深く息を吸った。
「それに比べて、君のことはたくさん知っている」
「例えば?」
「薔薇のジャムを使った紅茶が好きなこと」
レインは指を折りながら数えた。
「刺繍が得意で、特に花の模様が上手なこと」
キャリエルの頬が赤く染まっていく。
「子供たちのための図書館を作りたいという夢」
「覚えていてくださったんですね」
「当然だ」
レインは優しく微笑んだ。
「大切な人のことだからな」
二人の間に、温かな沈黙が流れた。
庭園の薔薇が風に揺れ、甘い香りを運んでくる。
◆
その頃、王立魔術学院の空き教室では別の重要な会話が行われていた。
エルンストとセシリアは、アンナと向かい合って座っていた。
アンナは不安そうに二人を見つめている。
「お呼び立てして申し訳ありません」
セシリアが穏やかに切り出した。
「でも、どうしてもお話ししたいことがありまして」
「私に、ですか」
アンナの声は緊張していた。
「君の『体質』についてだ」
エルンストが単刀直入に言った。
アンナの顔が青ざめた。
「やはり、お気づきだったのですね」
「我々だけではない」
エルンストは続けた。
「多くの者が異常に気づいている」
セシリアが優しく付け加えた。
「でもアンナ様を責めているわけではありません」
「むしろ君も被害者なのではないかと考えている」
エルンストの言葉に、アンナの瞳に涙が浮かんだ。
「私も……苦しいんです」
震える声で、アンナは語り始めた。
「誰も私を普通に見てくれない。男性は異常に執着し、女性は私を憎む」
セシリアが同情的な表情を浮かべた。
「父が、これは神の祝福だと──」
エルンストとセシリアは顔を見合わせた。
「祝福か。そういった事例は確かにある。しかしそれも些細な効果でしかないのだが……」
エルンストが興味深そうに言う。
セシリアが身を乗り出した。
「アンナ様、そのペンダントを見せていただけますか?」
アンナは少し躊躇する。
「あの、父は外してはいけないと──」
「ほんの少しだけです。調べたいことがあるのです。アンナ様の体質をどうにかできるかもしれません」
セシリアの言葉に負けて、アンナはペンダントを外して差し出した。
「父が東方から取り寄せた解呪のお守りだと」
セシリアは慎重にペンダントを手に取った。
銀の鎖に通された水晶は、一見何の変哲もないように見える。
「エルンスト様」
セシリアがペンダントを彼に渡した。
エルンストは真剣な表情で観察を始めた。
特に異常なものは感じられない。
「普通の水晶のようだが」
しかし、セシリアが何かに気づいた。
「待ってください」
彼女はペンダントを光にかざした。
「この意匠……」
水晶の中に、微細な彫刻が施されている。
それは星座を模したもののようだった。
「ルミナリス……」
セシリアが呟く。
「ルミナリス?」
アンナが首を傾げる。
「東方の天文学で『炎の矢』と呼ばれる星座の先端に位置する黄金色の星ですね」
セシリアは説明を始めた。
「『神に愛される』という意味の星言葉があります」
エルンストが驚いたような顔をした。
「まさか」
「呪術の領域では」
セシリアは慎重に言葉を選んだ。
「この星を模して造られた呪具は、祝福や呪いを増幅させる事に使われたりします」
アンナの顔が蒼白になった。
「増幅……?」
「つまり」
エルンストが結論を述べた。
「このペンダントは解呪のお守りではなく、君の『祝福』を強化しているということだ」
アンナは震える手で口を覆った。
「そんな……父が、なぜ」
涙がこぼれ始める。
「信じていたのに」
セシリアがそっとアンナの手を握った。
「お辛いでしょうね。……アンナ様、今から少し試したい事があります。少々ペンダントをお借りいたしますね」」
「え?」
「エルンスト様」
セシリアが振り向いた。
「ナイフをお持ちですか?」
エルンストは少し驚いたが、懐から折り畳み式のナイフを取り出した。
「これでいいか?」
「ええ、十分です」
セシリアはナイフを受け取ると、エルンストに向き直った。
「エルンスト様、お願いがあります」
「何だ?」
「他の女性を褒め称えるようなことを言ってください」
エルンストは怪訝な表情を浮かべた。
「他の女性を? なぜそんなことを」
「呪術の準備です。お願いします」
セシリアの真剣な表情に、エルンストは渋々頷いた。
「分かった。えー……キャリエル様は実に美しい銀髪をお持ちだ。まるで月光を紡いだような輝きで、風になびく様子など芸術品のようだ」
その瞬間、セシリアの雰囲気が硬くなった。
空気が冷たくなったような錯覚を覚える。
「君が言えと言ったのに」
エルンストが慌てた。
「続けてください」
セシリアの声は静かだが、どこか恐ろしい響きがあった。
エルンストは困惑しながらも続けた。
「そうだな、マリアンヌ嬢も実に優雅で素晴らしい令嬢だ。栗色の髪は秋の実りを思わせるし、その所作の一つ一つが洗練されている。読書を愛する知的な横顔も魅力的だし……」
セシリアの表情がますます硬くなる。
なにやら理不尽なものを感じながらも、エルンストは続けた。
「それにアンナ嬢も蜂蜜色の髪が陽光のようで美しいし、翡翠の瞳は森の宝石を思わせる。その儚げな雰囲気は保護欲をかき立てるというか……」
セシリアは表情を変えないまま、ナイフで自分の指先を傷つけた。
赤い血が滲み出る。
「セシリア!」
エルンストが驚いて立ち上がった。
しかしセシリアは平然とした様子で、血をペンダントに垂らした。
その瞬間、エルンストの目に恐ろしい光景が映った。
幻視だ。
セシリアの周囲に無数の蛇が現れ、うねり、絡み合っている。
瘴気にも似たドロドロとした黒い魔力が、ペンダントを包み込んでいく。
蛇たちの赤い目が、ペンダントに向けられている。
それは一瞬の幻視だったが、エルンストの背筋を凍らせるのに十分だった。
「祝福を穢しました」
セシリアは涼しい顔で言う。
「呪術の基本です。聖なるものは不浄によって力を失う」
アンナは震えながら二人を見つめていた。
「でも、それは……」
「神を呪ったのです」
セシリアはあっけらかんと言った。
「正確には、神の祝福に人の怨念をぶつけることで中和したのですが」
「怨念、って……」
アンナは完全に引いてしまった様だった。
優しそうな令嬢が平然と自分の血を使って呪術を行う姿は、確かに恐ろしい。
セシリアは手巾でペンダントを丁寧に拭き取り、アンナに差し出した。
「はい、どうぞ。もうただのペンダントになりましたよ」
「本当に……ですか?」
「ええ。もう祝福を増幅する力はありません」
セシリアは傷ついた指に手巾を巻きながら説明した。
「ただし、元々のアンナ様の体質は残っているはずです」
エルンストが付け加えた。
「だが、それは君が生まれ持ったものだ。ペンダントによる異常な増幅がなければ、日常生活に支障はないはずだ」
アンナは震える手でペンダントを受け取った。
「ありがとうございます」
アンナは深く頭を下げた。
「セシリア嬢、指は……」
心配そうなエルンストにセシリアは笑顔を浮かべて答える。
「この程度、すぐに治ります。それより、これで少しは楽になるはずです」
エルンストが咳払いをした。
「セシリア嬢、次からは事前に説明してくれ」
「すみません」
セシリアは悪戯っぽく微笑んだ。
「でも、嫉妬の感情が必要だったので」
「嫉妬?」
「ええ。呪術には感情が重要なんです」
セシリアは当たり前のように言った。
「特に愛情に関する祝福を打ち消すには、その対極にある感情が効果的です」
アンナは改めて二人を見つめた。
「本当に、ありがとうございました」
「礼には及びません」
セシリアが言った。
「ただし、君の父親の件は別だ」
エルンストは真剣な表情でアンナを見つめながら言う。
「アンナ嬢、一つ忠告がある」
「はい」
「父親と二人きりで対峙するのは避けた方がいい。なぜ君にこんなことをしたのか、その理由を問い詰めたい気持ちは分かる。だが危険だ」」
「でも、真実を知りたいのです」
アンナの声は震えていた。
「もちろん、それは当然の気持ちです」
セシリアが優しく言った。
「ですが、まずは安全を確保してから。私たちも協力します」
「君一人で背負う必要はない」
エルンストが付け加えた。
「我々は既に関わってしまった。最後まで付き合うつもりだ」
アンナの瞳に涙が浮かんだ。
「本当にありがとうございます」
「では、しばらくは普通に振る舞ってくれ」
エルンストが指示した。
「父親に悟られないように。そして何か異変があれば、すぐに我々に連絡を」
「はい、分かりました」
アンナは頷いた。
三人は立ち上がった。
窓の外では、午後の日が傾き始めている。
「何かあれば、いつでも相談してください」
セシリアが優しく言った。
「はい、本当にありがとうございました」
アンナは何度も頭を下げながら、教室を後にした。
◆
教室に二人きりになると、エルンストは気づいた。
セシリアの雰囲気がまだ若干硬い。
いつもの柔らかな空気が、どこか張り詰めている。
「セシリア嬢、どうした?」
エルンストが恐る恐る尋ねた。
セシリアは少しそっぽを向いた。
「別に、何でもありません」
しかし、その声には明らかに不満が含まれている。
「いや、明らかに何かある」
エルンストは困惑した。
「私が何か失礼なことでも……」
「あんなに詳しく話さなくてもよかったのに」
セシリアが小さく呟いた。
「え?」
「他の令嬢の美しさについて」
セシリアは頬を膨らませた。
「月光を紡いだような髪だとか、森の宝石のような瞳だとか」
その様子を見て、エルンストはようやく理解した。
「ああ、それは」
彼は慌てて手を振った。
「君が言えと言ったから、その、仕方なく」
「そうですか」
セシリアの声が少し冷たくなった。
「いや、違う! 本心じゃない」
エルンストは必死に弁解した。
「ただ呪術に必要だと言われたから、適当に思いついたことを」
「適当にしては、ずいぶん詩的でしたね」
セシリアはまだふくれている。
エルンストは頭を掻いた。
こういう時、どう対処すればいいのか分からない。
魔術理論なら完璧に説明できるのに、感情の機微となると途端に不器用になる。
「その、つまり」
エルンストは言葉を探した。
「客観的な美の評価と、主観的な感情は別物だ」
「はい?」
「他の令嬢が美しいのは客観的事実かもしれない。だが」
エルンストは真剣な表情でセシリアを見つめた。
「私にとって最も美しく、魅力的なのは君だ」
セシリアの頬が少し赤くなった。
「本当ですか?」
「当然だ。データが証明している」
エルンストは自信を持って言った。
「君といる時の私の心拍数上昇率は、他の誰といる時よりも高い」
セシリアは呆れたような、でも嬉しそうな表情を浮かべた。
「相変わらずですね」
「そうだ」
エルンストは急に思いついたように言った。
「街に蜂蜜菓子を食べに行かないか?」
「蜂蜜菓子?」
「君の好物だろう」
エルンストは少し照れたように続けた。
「それに、私も甘いものが食べたい気分だ」
セシリアの表情が明るくなった。
「いいですね」
「では、行こう」
エルンストが立ち上がり、手を差し出した。
セシリアはその手を取って立ち上がる。
「でも、エルンスト様」
セシリアが悪戯っぽく言った。
「次に他の女性を褒める時は、もう少し控えめにお願いします」
「了解した」
エルンストは苦笑する。
君がそもそも言い出した事なのに、などと言わないだけの賢明さがエルンストにはあった。




