15.「なりたい」
◆
キャリエルの言葉が、頭から離れない。
──「今のレイン様は、アンナ様を対等な存在として見ていらっしゃるでしょうか」
僕は椅子の背にもたれ、目を閉じた。
記憶が過去へと遡っていく。
あれは三年前、僕がまだ十五歳の時だった。
父上に連れられて、戦災孤児の施設を訪問した日のこと。
子供たちの瞳には、希望と絶望が混在していた。
「殿下、私たちはこれからどうなるのでしょうか」
小さな少女が震える声で尋ねてきた。
その時の僕は何も答えられなかった。
ただ頭を撫でることしかできない自分が、ひどく無力に思えた。
帰りの馬車の中で、父上は静かに言った。
「レイン、王とは何だと思う」
「国を統治する者です」
僕の答えに、父上は首を振った。
「違う。王とは民の希望となる者だ」
その言葉が、僕の胸に深く刻まれた。
その夜、僕は決意した。
人を大切にする王になろう、と。
一人一人の声に耳を傾け、誰もが希望を持てる国を作ろう、と。
◆
そして二年前、キャリエルとの婚約が決まった。
最初は戸惑った。
政略結婚という言葉の重さに、息が詰まりそうだった。
でも、庭園で初めて二人きりで話した時、彼女の瞳に不安が宿っているのを見た。
月明かりの下、銀髪が淡く輝いていた。
「私、レイン様のお役に立てるでしょうか」
その問いに僕は答えた。
「僕は君に支えられたいんじゃない。共に国を導く伴侶が欲しいんだ」
これはある意味で弱音だ。
僕一人で国を導くというのは重荷に感じる。
僕は隣を歩んでくれる同士が欲しかった。
だがそんな僕の弱音を聞いたキャリエルの顔が、ぱっと明るくなった。
「対等な関係を築きたい」
僕の言葉に、彼女は深く頷いた。
その時の彼女の笑顔を、なぜ忘れていたのだろう。
◆
一年前の、ある会議でのこと。
貴族たちが増税案について激論を交わしていた。
「民衆からもっと搾り取るべきだ」
「いや、これ以上は反乱を招く」
議論は平行線を辿っていた。
僕は立ち上がり、発言した。
「民は搾り取る対象ではない。共に国を支える仲間だ」
会議室が静まり返った。
「増税の前に、我々貴族が範を示すべきではないか」
その提案は最終的に受け入れられた。
会議の後、キャリエルが駆け寄ってきた。
「素晴らしい発言でした、レイン様。私も、レイン様のような考えを持つ人の隣に立てることを誇りに思います」
あの頃の僕たちは、確かに同じ方向を見ていた。
◆
そして現在。
僕は何をしている。
アンナという一人の女性に執着し、婚約者を傷つけ、友人関係にまで干渉している。
「出て行け! もう二度と私の前に現れるな!」
自分が発した言葉が、胸に突き刺さる。
あれは、人を大切にする王の言葉か。
違う。
あれは、ただの暴君の言葉だ。
窓ガラスに映る自分の顔を見つめる。
そこには、醜い執着に囚われた男の顔があった。
これが、僕が目指した王の姿なのか。
◆
アンナのことを考える。
確かに美しい。
確かに心惹かれる。
でも、僕は彼女の何を知っているだろうか。
好きな食べ物も、趣味も、将来の夢も、何一つ知らない。
ただ「美しい」「優しい」という表面的な印象だけ。
それで愛だと言い切った自分が、急に滑稽に思えてきた。
対して、キャリエルのことはどうだ。
十月十五日生まれ。
好物は薔薇のジャムを使った紅茶。
趣味は刺繍と読書。
将来の夢は、子供たちのための図書館を作ること。
知っているじゃないか、たくさんのことを。
なのに、なぜ。
◆
ふと、戦災孤児の少女の顔が浮かんだ。
もし今、あの子が同じ質問をしてきたら。
「殿下、私たちはこれからどうなるのでしょうか」
今の僕なら、何と答えるだろう。
きっと、何も答えられない。
自分の感情すら制御できない男に、国の未来など語れるはずがない。
胸が締め付けられるように痛んだ。
僕は、なんて醜い男になってしまったのだろう。
理想を掲げながら、その真逆を行く。
人を大切にすると言いながら、最も近い人を傷つける。
これが王太子の姿か。
これが、未来の王の姿か。
◆
では、僕が本当になりたい王とは。
目を閉じて、思い描く。
まず、感情に流されない冷静さ。
人の痛みが分かる共感力。
そして自分の過ちを認める勇気。
国のために尽くすのはもちろん、一人一人の幸せを考えられる視野の広さ。
私欲を抑え、公正であること。
約束を守り、信頼される存在であること。
そんな王の姿が、朧げながら見えてきた。
そして気づく。
今の僕は、その理想像から最も遠い場所にいる、と。
◆
でも、まだ遅くはないはずだ。
僕はまだ十八歳。
過ちを認め、正すことができる。
いや、正さなければならない。
このまま堕ちていけば、僕は本当に暴君になってしまう。
民を苦しめ、国を滅ぼす、最悪の王に。
それだけは、絶対に避けなければならない。
父上の言葉が蘇る。
「王とは、民の希望となる者だ」
希望。
今の僕は、誰かの希望になれているだろうか。
いや、むしろ絶望を振りまいているのではないか。
◆
立ち上がり、執務机に向かう。
そこには明日の予定表が置かれていた。
その中に、キャリエルとのお茶会の予定があった。
いつもなら憂鬱になる予定だが、今は違う。
謝罪しなければならない。
そして、もう一度やり直せるなら、やり直したい。
彼女が僕を許してくれるかは分からない。
でも少なくとも誠意を示すことはできる。
それが、王としての、いや人としての最低限の務めだ。
◆
ペンを取り、紙に向かう。
「キャリエルへ」
そう書いて、手が止まった。
何から書けばいいのか。
謝罪の言葉? それとも、自分の愚かさの告白?
いや、まずは感謝から始めるべきだ。
彼女が僕のために努力してくれたことへの、感謝から。
そうして、ゆっくりと言葉を紡ぎ始める。
まだ理想の王にはほど遠い。
でもそこに近づこうとする意志だけは失いたくない。
窓の外では、相変わらず王都の灯りが輝いている。
その一つ一つに、人々の生活がある。
守るべき、大切なものがある。
「僕は、必ず良き王になる」
今はまだ、醜い執着に囚われた愚かな男だ。
でも変わることはできる。
いや、変わらなければならない。
理想の王に少しでも近づくために。
そんな王に、僕は"なりたい"と心から思った。




