14.「それがアルカディアの血さ」
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ヴァイスベルク侯爵邸の執務室。
午後の陽光が大きな窓から差し込み、室内を黄金色に染めている。
そんな穏やかな時間に似つかわしくない不機嫌な表情で、ゲオルク・フォン・ヴァイスベルクは書類を睨みつけていた。
銀髪の侯爵が発する重苦しい雰囲気に、執務室の空気まで重くなっているようだった。
「あら、どうしたの?」
扉から顔を覗かせたマルガレーテが、夫の様子を見て首を傾げた。
蜂蜜色の髪を緩やかに結い上げた侯爵夫人は、いつも通りののんびりとした雰囲気を纏っている。
「そんな怖い顔をして、書類が悪さでもしたのかしら」
ゲオルクは溜息をついて、手にしていた羽ペンを置いた。
「また例の連中が接触してきたんだ」
「例の連中?」
マルガレーテは執務室に入り、夫の向かいの椅子に腰を下ろした。
優雅な動作だが、どこかのんびりとしている。
「第二王子派だよ」
ゲオルクは不愉快そうに言った。
「今度は子爵を使いに寄越してきた。丁重な言葉で包んではいたが、要は我が家も第二王子殿下を支持しろということだ」
マルガレーテは苦笑を浮かべた。
「まあ、彼らも懲りないわね」
彼女は紅茶のポットを手に取り、二人分のカップに注ぎ始めた。
「前にも断ったでしょうに」
「そうなんだが、向こうも必死なんだろう」
ゲオルクは疲れたように額に手を当てた。
「ヴァイスベルク侯爵家の支持は、それなり以上に重みがあるからね」
マルガレーテは夫に紅茶を差し出した。
「でも、あなたの答えは変わらないんでしょう?」
「当然だ」
ゲオルクは紅茶を一口飲んで、少し表情を和らげた。
「私は王太子レイン殿下を支持する。その立場を変えるつもりはない」
マルガレーテは夫の横顔を見つめた。
「理由を聞いてもいい?」
彼女の声は穏やかだが、真剣な響きを含んでいた。
「もちろん、私もあなたの判断を支持しているけれど」
ゲオルクは椅子の背にもたれ、天井を見上げた。
「レイン殿下には、アルカディアの血が特に濃く流れている」
「アルカディアの血?」
「そう。王家の血統は、ただの尊き血筋じゃない」
ゲオルクは身を起こし、妻を見つめた。
「彼らは、ある意味で魔術の極点を体現している存在なんだ」
マルガレーテは興味深そうに耳を傾けた。
「どういうこと?」
「これは門外不出だぞ。決して外には漏らしてはならない。多くの貴族は知らない事だからな」
「ええ」
「アルカディア王家の者たちは、特殊な魔術の使い手なんだよ」
ゲオルクは説明を始めた。
「自身の願いを叶えるというシンプルかつ強力な魔術だ」
マルガレーテの目が少し見開かれた。
「願いを叶える魔術?」
「ああ。ただし、普通の魔術とは違う」
ゲオルクは紅茶を飲みながら続けた。
「通常の魔術は、術式を組み、魔力を練り、現象を引き起こす。でも、王家の魔術は違う」
彼は一呼吸置いた。
「彼らはまるで物語の主人公のように、望む未来を引き寄せる力がある」
マルガレーテは考え込むような表情を浮かべた。
「それは……すごい力ね」
「そうだ。そして、レイン殿下は王家の中でも特にその力が強い」
ゲオルクの声に確信が宿った。
「私が実際に謁見した時、それを肌で感じた。あの方の周りでは、世界が彼の意志に従って動いているような感覚があった」
マルガレーテは夫の言葉を静かに聞いていた。
普段はのんびりとした彼女だが、重要な話の時は真剣に耳を傾ける。
「第二王子殿下はどうなの?」
「ああ、第二王子殿下にも確かにその力は備わっている」
ゲオルクは頷いた。
「だが、極々僅かなものだ。レイン殿下には及ぶべくもない」
ゲオルクは窓の外を見つめた。
庭園では秋薔薇が最後の輝きを放っている。
「我々貴族が王家に忠実なのは、単に伝統や権威のためじゃない」
ゲオルクの声が深くなった。
「彼らが持つその力こそが、王国を導く原動力となってきたからだ」
マルガレーテは静かに頷いた。
「なるほど。だから第二王子派の誘いには乗れないのね」
「そういうことだ」
ゲオルクは苦笑した。
「それに、レイン殿下はよほどのことをやらかしても、その力の強さゆえにまず廃嫡されることはない」
マルガレーテが首を傾げた。
「よほどのこと?」
「例えば、国を滅ぼすような大罪を犯すとか」
ゲオルクは肩をすくめた。
「でも、そんなことは起こらないだろう。レイン殿下は基本的に善良な方だからね」
二人はしばらく紅茶を飲みながら、静かな時間を過ごした。
執務室に流れる穏やかな空気は、先ほどまでの重苦しさとは対照的だった。
「でも」
マルガレーテが口を開いた。
「その力も、際限なく何でも叶えられるわけではないんでしょう?」
「その通りだ」
ゲオルクは頷いた。
「願いを叶える力といっても、限界はある。世界の理を完全に無視することはできない」
彼は例を挙げた。
「死者を蘇らせたり、時を巻き戻したり、そういった根源的な法則に反することは不可能だ」
「それでも、十分にすごい力よね」
マルガレーテは感心したように言った。
「ああ。だからこそ、今後の王国にはレイン殿下が必要なんだ」
ゲオルクの表情が真剣になった。
「周辺国との緊張も高まっている。内政も複雑化している。そんな時代に、強い意志で国を導ける指導者が必要だ。レイン殿下はその気になればなりたい自分になれる。これは精神論ではない、本当にその様な自分になれるのだ。それがアルカディアの血さ」
マルガレーテは夫の手を優しく握った。
「あなたの判断を信じるわ」
温かな手の感触に、ゲオルクの表情が和らいだ。
「ありがとう」
しばらくの沈黙の後、マルガレーテが悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「ところで、最近のエルンストの様子はどう思う?」
ゲオルクも苦笑を浮かべた。
「ああ、セシリア嬢との『実験』のことか」
「そう、それよ」
マルガレーテはくすくすと笑った。
「愛を実証的に研究するなんて、あの子らしいわね」
ゲオルクも笑みを深めた。
「まったくだ。データを取って、分析して、法則を見つけようなんて」
彼は首を振った。
「普通の若者なら、もっと感情的になるものなのに」
「でも、見ていて微笑ましいわ」
マルガレーテは優しい表情で言った。
「二人とも自分たちなりに真剣に向き合っているもの」
ゲオルクは考え込むような顔をした。
「確かにあの二人は相性がいい。魔術の話になると時間を忘れて議論している」
「それに」
マルガレーテが付け加えた。
「最近は手を繋いで歩いているのを見かけたわ」
ゲオルクの眉が上がった。
「ほう、それは進展があったということか」
「きっと『実験の一環』なんでしょうけどね」
マルガレーテは楽しそうに言った。
「でも、二人の表情は幸せそうだった」
ゲオルクは窓の外を見つめながら呟いた。
「我々の時代とはずいぶん違うな」
「そうね」
マルガレーテも懐かしそうに微笑んだ。
「私たちの時はもっと形式的だったわ」
彼女は夫を見つめた。
「でも、結果的には上手くいったでしょう?」
ゲオルクは妻の手を握り返した。
「ああ、最高の結果だった」
二人は顔を見合わせて、優しく微笑み合った。




