13.「関係あります」
◆
アンナは噴水のそばのベンチで、ラファエルの話に耳を傾けていた。
「それで、サリヴァン教授が突然『この術式を間違えると爆発する』と言い出したんです」
ラファエルは苦笑しながら語った。
「皆、慌てて術式を確認し始めて」
アンナは小さく笑った。
「サリヴァン教授はジョークがお好きですものね」
「あの人は優れた教授だと思うのですが、人を脅かすことをジョークだと思っている節があります。この前なんて──」
最近、こうしてラファエルと過ごす時間だけが、彼女の心の支えになっていた。
彼だけが、普通の友人として接してくれる。
異常な執着も、冷たい視線もない。
ただ、穏やかな友情だけがそこにあった。
「アンナ様も、その講義を受けていらっしゃいましたよね」
「ええ、後ろの方で」
アンナは頷いた。
「最近は目立たないようにしているので」
ラファエルの表情が少し曇った。
「大変でしょうね」
「慣れました」
アンナは努めて明るく答えた。
しかし、その笑顔は少し寂しげだった。
そんな時、石畳を踏む足音が聞こえてきた。
二人が顔を上げると、そこには金髪碧眼の青年が立っていた。
王太子レイン・アルカディア。
その瞳には、アンナがよく知る「あの光」が宿っていた。
「殿下」
ラファエルがすぐに立ち上がり、恭しく頭を下げた。
アンナも慌てて立ち上がり、深く礼をした。
「モンターニュ子爵令息」
レインの声は冷たかった。
「アンナ嬢と何を話していたのかね」
ラファエルは顔を上げた。
「学院の講義について話しておりました」
「講義について?」
レインの眉が上がった。
「ずいぶん親しげに見えたが」
アンナは震える声で口を開いた。
「殿下、ラファエル様とは友人として」
「友人」
レインはその言葉を噛みしめるように繰り返した。
「そうは見えないが」
ラファエルは困惑した表情を浮かべた。
「殿下、私たちは本当にただの」
「黙れ」
レインの声が鋭くなった。
「私は君に聞いているのではない」
彼はアンナに視線を向けた。
「アンナ嬢、彼との関係を正直に話してもらおうか」
アンナは唇を噛んだ。
レインの瞳に宿る異常な光が、彼女を怖れさせていた。
「本当に、友人なんです」
彼女の声は震えていた。
「それ以上でも以下でもありません」
レインは二人を交互に見つめた。
その視線には、明らかな疑念が浮かんでいる。
「ふむ」
しばらくの沈黙の後、レインは肩をすくめた。
「まあいい。だが、モンターニュ子爵令息」
彼はラファエルに冷たい視線を向けた。
「今後、アンナ嬢にあまり近づかないことだ」
「しかし、殿下」
「これは忠告だ」
レインの声には、有無を言わせない響きがあった。
「理解したね?」
ラファエルが困惑しているとレインは満足そうに頷き、踵を返した。
「では、失礼する」
レインが去った後、重い沈黙が二人の間に流れた。
アンナは力なくベンチに座り込んだ。
「申し訳ありません」
彼女の声は小さかった。
「私のせいで、ラファエル様にまで」
「アンナ様のせいではありません」
ラファエルは優しく言った。
「殿下の様子が、少し尋常ではないように思えます」
アンナは顔を上げた。
「やはり、そう思われますか」
「ええ」
ラファエルは考え込むように言った。
「以前の殿下なら、あのような態度は取られなかったでしょう」
二人はしばらく無言で座っていた。
風が吹き、噴水の水音だけが静かに響いている。
「私、もう学園に来るのをやめようかと」
アンナが呟いた。
「こうして誰かに迷惑をかけ続けるくらいなら」
「それはいけません」
ラファエルが強く言った。
「アンナ様は何も悪くないのですから」
彼は立ち上がった。
「キャリエル様に相談してみます」
「キャリエル様に?」
「はい」
ラファエルは決意を込めて言った。
「殿下の婚約者として、何か力になってくださるかもしれません。何か事情をご存じかもしれませんし」
アンナは不安そうな表情を浮かべたが、頷いた。
「お願いします」
◆
ハイエスト公爵家の別邸にある小さな応接間。
キャリエルは優雅にティーカップを置き、向かいに座るラファエルの話に耳を傾けていた。
「なるほど」
彼女の青い瞳に、憂いが浮かんだ。
「レイン様がそのような態度を」
「はい」
ラファエルは頷いた。
「正直なところ、少し常軌を逸しているように思えました」
キャリエルは窓の外を見つめた。
銀髪が午後の光を受けて、淡く輝いている。
「ラファエル様」
彼女は静かに言った。
「わざわざ知らせてくださって、ありがとうございます」
「いえ、当然のことです」
ラファエルは恐縮したように言った。
「アンナ様も大変お困りのようでしたし」
キャリエルは深く息を吸った。
「私が、レイン様と話をしてみます。このままでは誰も幸せになりませんから」
◆
翌日、貴賓サロン。
キャリエルは真っ直ぐな足取りで、窓際に座るレインに近づいた。
「レイン様、お話があります」
レインは書類から顔を上げた。
霜がおりたかのような冷たい視線。
「キャリエル? 何の用だ」
「アンナ様のことです」
キャリエルは単刀直入に切り出した。
レインの表情が一変した。
「アンナ嬢がどうかしたのか」
その声には、明らかな関心が含まれていた。
「レイン様」
キャリエルは真っ直ぐにレインを見つめた。
「昨日の件について、お聞きしたいことがあります」
レインの眉が上がった。
「君には関係ないだろう」
「関係あります」
キャリエルは譲らなかった。
「私はレイン様の婚約者です」
「だから何だ」
レインの声が冷たくなった。
「私が誰と話そうが、君の知ったことではない」
キャリエルは唇を噛んだ。
しかし、引き下がるわけにはいかなかった。
「レイン様は変わってしまわれました」
彼女の声が震えた。
「以前のレイン様なら、あのような振る舞いはなさらなかったはずです」
「変わった?」
レインは鼻で笑った。
「むしろ、今の私の方が正直なのだよ」
彼は立ち上がり、キャリエルに近づいた。
「君こそ、なぜアンナ嬢のことにそこまで首を突っ込む?」
「それは」
「まさか、嫉妬か?」
レインの声には嘲りが含まれていた。
キャリエルの顔が屈辱で青ざめた。
「違います」
「では何だ」
レインは詰め寄った。
「なぜ、私がアンナ嬢に会うことを邪魔する」
「邪魔などしていません」
キャリエルも声を荒げた。
「ただ、レイン様の行動が」
「私の行動がどうした」
二人の声は次第に大きくなっていった。
サロンにいた他の学生たちが、心配そうに視線を向けている。
「王太子として相応しくありません」
キャリエルが言い放った。
「他の女性に執着するなど」
「執着?」
レインの顔が怒りで歪んだ。
「私はただ、素直な気持ちに従っているだけだ」
「素直な気持ち?」
キャリエルの声も震えていた。
「では、私との婚約はどうなるのですか」
「それは」
レインは一瞬言葉に詰まった。
しかし、すぐに開き直ったように言った。
「政略結婚だろう。感情など関係ない」
その言葉が、キャリエルの胸に突き刺さった。
「そうですか」
彼女の声が急に静かになった。
「レイン様にとって、私との婚約はその程度のものなのですね。ただ、一つだけ」
キャリエルは顔を上げた。
青い瞳に、決意が宿っている。
「レイン様は、本当にアンナ様を愛していらっしゃるのですか」
「当然だ」
レインは即答した。
「彼女は素晴らしい。美しく、優しく、そして」
「そして?」
「私の心を満たしてくれる」
レインの声は熱っぽかった。
キャリエルは悲しそうに微笑んだ。
「でも、レイン様はアンナ様のことを何も知らないでしょう」
「何だと」
「彼女の好きな食べ物は? 趣味は? 将来の夢は?」
キャリエルは静かに問いかけた。
レインは答えられない。
「それでも愛だと言えるのですか」
「黙れ!」
レインは顔を真っ赤にして叫んだ。
「君に私の気持ちが分かるものか!」
キャリエルは黙って立っていた。
「もううんざりだ」
レインは怒りに震えながら言った。
「君の説教も、君の存在も」
その言葉に、周囲がざわめいた。
「出て行け!」
レインが怒鳴った。
「もう二度と私の前に現れるな!」
キャリエルは一瞬、息を呑んだ。
しかし、すぐに優雅に一礼した。
「承知いたしました」
彼女の声は静かだった。
静かすぎて、かえって悲しみが伝わってきた。
キャリエルは踵を返し、サロンを出て行った。
残されたレインは、荒い息をついていた。
周囲の視線を感じ、苛立ったように席に戻る。
◆
学院の廊下を歩きながら、キャリエルの心は虚無感に包まれていた。
結局、自分はレインにとってその程度の存在でしかなかったのだ。
政略結婚の相手。
感情など関係ない、ただの契約。
涙が頬を伝い始めた。
ふと数日前のエルンストとセシリアとの会話が蘇る。
──「ありのままのご自分を見せることも大切かと存じます」
セシリアの優しい声が、記憶の中で響く。
キャリエルは立ち止まった。
これまで自分は、完璧な婚約者を演じようとしてきた。
レインの理想に合わせ、王太子妃に相応しい振る舞いを心がけてきた。
でも、本当の自分を見せたことがあっただろうか。
「どうせなら」
キャリエルは呟いた。
「最後に本当の気持ちを伝えよう」
そうして踵を返し、サロンへと戻り始めた。
◆
サロンに戻ると、レインはまだ同じ席に座っていた。
書類を睨みつけているが、明らかに集中できていない様子だった。
「レイン様」
キャリエルの声に、レインは顔を上げた。
「まだいたのか」
苛立った声。
「出て行けと言っただろう」
「その前に、一つだけ」
キャリエルは真っ直ぐにレインを見つめた。
「私の本心を、お伝えしたいのです」
レインは顔をしかめた。
「今更何を」
「私は」
キャリエルは深呼吸をした。
「レイン様のことが好きでした」
レインの表情が変わった。
「何?」
「政略結婚だということは分かっています」
キャリエルは続けた。
「でも、婚約してからの日々の中で、私は本当にレイン様を好きになりました」
彼女の声は震えていたが、はっきりとしていた。
「優しくて、真面目で、国のことを真剣に考えている」
キャリエルは微笑んだ。
「“国とは人の集まりだ。私は人を大切にする王となりたい”──そうおっしゃっていましたね。私はそんなレイン様が大好きでした」
レインは言葉を失っていた。
「レイン様を支えたいとおもいました。そして可能な限り完璧に、と」
キャリエルは自嘲的に笑った。
「結果、レイン様を息苦しくさせてしまったのでしょうね」
「キャリエル、それは」
「でも」
キャリエルはレインの言葉を遮った。
「一つだけ聞かせてください」
青い瞳が、真っ直ぐにレインを見つめた。
「レイン様は、私のことをどう思っていらっしゃったのですか」
「それは」
レインは明らかにうろたえていた。
「今更そんなことを言っても」
彼の脳裏に、これまでのキャリエルの姿が蘇ってきた。
いつも完璧で、優雅で、隙のない公爵令嬢。
でも、今目の前にいるキャリエルは違った。
涙を堪え、震えながらも、真っ直ぐに自分を見つめている。
初めて見る、素のキャリエル。
息苦しいと感じていた姿が、実は自分の為に努力していた姿だったと知った時──レインは混乱した。
「私は」
レインは言葉を探した。
しかし何を言えばいいのか分からない。
キャリエルは、そんなレインを静かに見つめながら言う。
「レイン様は仰っておりました。"私を支えようなどとは考えないで欲しい。君は共に国を導く伴侶だ。だから僕は、君と対等な関係を築きたい"と」
レインの顔が青ざめた。
「それは……」
「覚えていらっしゃいますか」
キャリエルは微笑んだ。
「婚約が決まった夜、庭園で二人きりになった時のことを」
レインの記憶が呼び覚まされる。
月明かりの下、緊張した面持ちで向かい合った二人。
政略結婚への不安を隠せない若い二人が、それでも前を向こうとしていた夜。
「私は嬉しかったんです」
キャリエルは続けた。
「ただの飾り物ではなく、対等な存在として見てくださると」
キャリエルの声が震えた。
「だから私はその期待に応えようと必死でした」
レインは何も言えなかった。
胸の奥で何かが軋んでいる。
「でも、今のレイン様は」
キャリエルは首を振った。
「アンナ様を対等な存在として見ていらっしゃるでしょうか」
その問いかけに、レインは反射的に答えようとした。
しかし言葉が出ない。
「……よく考えていただきたいのです」
そう言ってキャリエルは去っていった。




