10.「恐れながら申し上げますと、あるいは出世魚のようなものなのかもしれません」
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王立魔術学院の貴賓サロンは、午後の陽光に包まれていた。
窓から差し込む光が、磨き上げられた大理石の床に金色の模様を描いている。
そんな穏やかな空間で、一組の若い男女が向かい合って座っていた。
エルンスト・フォン・ヴァイスベルクとセシリア・ド・モンフォール。
学園屈指の魔術オタク・カップルである。
二人は真剣な表情で手を繋ぎ、じっと見つめ合っている。
「現在、接触開始から十五分が経過した」
エルンストが静かに報告した。
「心拍数の上昇は安定期に入ったようだ」
「ええ、私も同じです」
セシリアが頷く。
「ただ、手の温度は依然として通常より0.5度高い状態を維持しています」
周囲の令嬢令息たちは、そんな二人を興味深そうに見守っていた。
──「相変わらずね、あの二人」
──「でも、なんだか微笑ましいわ」
エルンストは周囲の声など聞こえていないかのように、分析を続けた。
「興味深いのは、視線の交換による瞳孔の変化だ」
「どのような変化ですか?」
セシリアが身を乗り出す。
「通常の会話時と比較して、瞳孔が平均して12パーセント拡大している」
「それは交感神経の活性化を示唆していますね」
「そうだ。つまり、我々の身体は無意識のうちに──」
エルンストが言いかけた時、銀髪の令嬢が二人に近づいてきた。
キャリエル・ド・ハイエスト公爵令嬢だった。
「失礼します」
キャリエルは優雅に微笑んだ。
「お二人の仲睦まじい様子を拝見していて、つい声をかけたくなりました」
エルンストとセシリアは、手を繋いだまま立ち上がった。
「キャリエル様」
二人は丁寧に頭を下げた。
「仲睦まじい、とおっしゃっていただけるとは光栄です」
セシリアが恭しく答えた。
「私たちは実験の最中なのですが」
「実験でも」
キャリエルは苦笑した。
「はたから見れば、とても親密な恋人同士にしか見えませんわ」
その言葉に、エルンストの顔が輝いた。
「そう見えますでしょうか!」
エルンストは嬉しそうに言う。
「やはり実験の方向性は間違っていないようです。刻一刻と我々の親密さは増しているように思えます」
エルンストはセシリアに向き直った。
「セシリア嬢はどう思う?」
「私も同感です」
セシリアは真面目な表情で頷いた。
「第三者からの客観的評価、それもキャリエル様のような方からのご評価は、我々の主観的な感覚を裏付けるものです」
キャリエルは二人の反応に少し戸惑いながらも、興味深そうに尋ねた。
「お二人も政略結婚でしたよね」
「はい、その通りでございます」
セシリアが答える。
「でも、なぜそのように心を通わせることができるのですか?」
キャリエルの声には、切実な響きがあった。
「私も政略で婚約しましたが、最近は」
言葉を濁す彼女に、エルンストが真剣な表情で向き直った。
「恐れながら、キャリエル様も恋愛関係の構築にお悩みでいらっしゃるのですか」
「悩みというか」
キャリエルは苦笑した。
「むしろ後退しているような気がして」
セシリアが同情的な表情を浮かべた。
「それはお辛いことでしょう」
「ええ、正直なところ」
キャリエルは小さくため息をついた。
「お二人のような関係が羨ましいです」
エルンストは恭しく頭を下げた。
「僭越ながら、我々の経験がキャリエル様のお役に立てるのであれば、喜んでお話しさせていただきます」
「ぜひ聞かせてください」
キャリエルは身を乗り出した。
エルンストは立ち上がった。
セシリアの手を引いて、一緒に立たせる。
「まず第一に、共通の目的意識でございます」
彼は丁寧に説明を始めた。
「我々は『愛の実証的研究』という明確な目標を共有しております」
「目標の共有」
キャリエルは頷いた。
「第二に、相互の尊重です」
セシリアが続けた。
「エルンスト様の理論を私が補強し、私の発見を彼が発展させる。対等な関係性でございます」
「なるほど」
「そして第三に」
エルンストは一呼吸置いた。
「段階的な発展でございます」
キャリエルが首を傾げる。
「段階的、ですか?」
「はい、愛というものは」
エルンストは急に真剣な表情になった。
「恐れながら申し上げますと、あるいは出世魚のようなものなのかもしれません」
サロンに一瞬の沈黙が流れた。
「出世魚?」
キャリエルが困惑した声を上げる。
周囲で聞いていた令嬢令息たちも、顔を見合わせた。
「どういう意味ですか?」
セシリアでさえ、少し戸惑っているようだった。
エルンストは恐縮しながらも説明を始めた。
「お聞き苦しい例えで恐縮ですが、出世魚というのは、成長と共に名前が変わる魚のことでございます」
彼は空中に指で図を描きながら続けた。
「最初は小さく、ありふれた名前で呼ばれます」
「はあ」
「しかし成長するにつれ、より立派な名前に変わっていきます」
エルンストの目が輝いた。
「最終的には、最初とは全く違う、威厳ある名前で呼ばれるようになるのです」
キャリエルは理解しようと努めた。
「それが愛と、どう関係が?」
「つまりですね」
エルンストは慎重に言葉を選んだ。
「愛もまた、段階を経て成長し、その都度違う名前で呼ばれるのではないかと」
セシリアが目を見開いた。
「ああ、なるほど!」
彼女は控えめに手を打った。
「最初は『好意』という小さな感情から始まり」
「その通りです!」
エルンストが頷く。
「それが『親愛』に成長し、やがて『恋情』となり」
「最終的には『愛』という最も崇高な名前に至る」
セシリアが締めくくった。
周囲の令嬢令息たちから、感嘆の声が漏れた。
「なるほど、確かに」
「出世魚とは、面白い例えね」
「段階的に成長するという意味では、的確かも」
キャリエルも納得したような表情を浮かべた。
「つまり、焦ってはいけないということですね」
「恐れながら、その通りでございます」
エルンストは頷いた。
「小魚にいきなり大魚の名前をつけても、それは偽りでしかありません」
「自然な成長を待つ必要があるのですね」
セシリアが付け加えた。
キャリエルは考え込んだ。
「私とレイン様の関係は」
彼女は呟いた。
「もしかしたら、まだ『好意』の段階なのかもしれません」
「それなら希望がございます」
エルンストは慎重に言った。
「適切な環境と栄養を与えれば、必ず成長いたします」
「環境と栄養」
キャリエルが繰り返す。
「愛における栄養とは?」
今度はセシリアが答えた。
「共有する時間、会話、経験」
彼女は指を折りながら数えた。
「そして何より、相手を知ろうとする努力でございます」
エルンストが頷く。
「我々も日々、お互いについて新しい発見をしております」
「例えば?」
キャリエルが興味深そうに尋ねた。
エルンストとセシリアは顔を見合わせた。
「セシリア嬢は、考え事をする時に髪を触る癖がある」
「エルンスト様は、嬉しい時に右眉が少し上がります」
「君は紅茶に蜂蜜を二杯入れる」
「あなたは本を読む時、気に入った箇所で微笑みます」
二人の間に、温かな空気が流れた。
キャリエルは、その様子を羨ましそうに見つめた。
「素敵ですね」
彼女の声には憧れが滲んでいた。
「私も、レイン様のそういった小さな癖を見つけたいです」
「きっと見つかります」
セシリアが優しく言った。
「ただし、観察には客観性が必要でございます」
「客観性?」
「感情に流されすぎると、相手の本当の姿が見えなくなります」
セシリアは真面目な表情で続けた。
「だからこそ、我々は実験という形を取っているのです」
エルンストが補足した。
「データを取ることで、主観的な思い込みを排除できます」
「なるほど」
キャリエルは感心したように頷いた。
「でも、それでは冷たい関係になりませんか?」
その質問に、エルンストとセシリアは同時に首を振った。
「恐れながら、むしろ逆でございます」
エルンストが言った。
「相手を正確に理解することで、より深い愛情が生まれます」
「誤解や幻想に基づく感情は、脆いものです」
セシリアが付け加えた。
「真実に基づく感情こそが、永続的なものとなります」
キャリエルは深く息を吸った。
「つまり、私はレイン様を」
彼女は決意を込めて言った。
「もっとよく観察し、理解する必要があるということですね」
「そして」
エルンストが恐縮しながら付け加えた。
「失礼を承知で申し上げますが、キャリエル様ご自身も、素直にご自分をさらけ出される必要があるかと」
キャリエルが驚いたような顔をした。
「自分を?」
「はい」
エルンストは慎重に続けた。
「愛は相互作用でございます。一方通行では成立いたしません」
セシリアが優しく微笑んだ。
「完璧な公爵令嬢を演じるのではなく」
彼女は言った。
「ありのままのご自分を見せることも大切かと存じます」
キャリエルは考え込んだ。
確かに、自分は常に完璧であろうとしていた。
王太子の婚約者として恥ずかしくない振る舞いを心がけ、常に優雅で、知的で、美しくあろうとした。
でも、それは本当の自分なのだろうか。
「私は」
キャリエルは小さく呟いた。
「本当の自分を、レイン様に見せたことがあるでしょうか」
その問いに、誰も答えなかった。
答えは、彼女自身が見つけるべきものだったから。
しばらくの沈黙の後、キャリエルは顔を上げた。
「ありがとうございます」
彼女の声には、新たな決意が宿っていた。
「お二人のお話を聞いて、希望が見えてきました」
「恐れ多いことです」
セシリアが頭を下げた。
「キャリエル様のお役に立てたのであれば、光栄の至りでございます」
「ところで」
エルンストが急に思い出したように言った。
「出世魚の例えで言えば、我々の関係は今どの段階だろうか」
セシリアは考え込んだ。
「難しいですね」
彼女は首を傾げた。
「『好意』は確実に超えていますが」
「『親愛』も通過したと思われる」
エルンストが続けた。
「では『恋情』?」
「恋情」
セシリアは手を繋いだままのエルンストを見つめた。
「これがそうなのでしょうか」
「分からない」
エルンストも素直に認めた。
「文献によれば、恋情とは胸が高鳴り、相手のことが頭から離れない状態らしいが」
「それなら当てはまりますね」
セシリアが頷いた。
「私は最近、エルンスト様の理論のことばかり考えています」
「私も君の古代文献解釈が気になって仕方ない」
周囲の令嬢たちが、くすくすと笑い始めた。
──「それは恋情とは少し違うような」
──「でも、ある意味では正しいかも」」
キャリエルも微笑んでいた。
二人の関係は確かに特殊だが、そこには確かな絆があることが分かる。
「私も」
キャリエルは呟いた。
「レイン様と、そんな風に夢中になれる何かを共有したいです」
「必ず見つかります」
エルンストが励ました。
「愛の形は人それぞれでございます。我々のような形もあれば、もっと情熱的な形もあるでしょう」
「大切なのは」
セシリアが続けた。
「お二人に合った形を見つけることでございます」
キャリエルは深く頷いた。
「はい、頑張ってみます」
彼女は立ち上がった。
「貴重なお話をありがとうございました」
「とんでもございません」
エルンストが恭しく頭を下げた。
「もしまたお悩みがございましたら、いつでもご相談ください。我々の実験データも、必要でしたら共有させていただきます」
「それは心強いです」
キャリエルは優雅に一礼した。
「では、失礼いたします」
彼女が去った後、エルンストとセシリアは再び向かい合った。
「良い分析ができたな」
エルンストが満足そうに言った。
「はい」
セシリアも頷いた。
「出世魚の例えは秀逸でした」
「思いつきだったが、意外に的確だった」
二人はまだ手を繋いだままだった。
「そろそろ一時間になりますね」
セシリアが懐中時計を確認した。
「手を離しますか?」
「いや」
エルンストは首を振った。
「もう少しデータを取りたい」
「私も同感です」
セシリアは微笑んだ。




