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愛の実証的研究 ~侯爵令息と伯爵令嬢の非科学的な結論~  作者: 埴輪庭


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10/23

10.「恐れながら申し上げますと、あるいは出世魚のようなものなのかもしれません」

 ◆


 王立魔術学院の貴賓サロンは、午後の陽光に包まれていた。


 窓から差し込む光が、磨き上げられた大理石の床に金色の模様を描いている。


 そんな穏やかな空間で、一組の若い男女が向かい合って座っていた。


 エルンスト・フォン・ヴァイスベルクとセシリア・ド・モンフォール。


 学園屈指の魔術オタク・カップルである。


 二人は真剣な表情で手を繋ぎ、じっと見つめ合っている。


「現在、接触開始から十五分が経過した」


 エルンストが静かに報告した。


「心拍数の上昇は安定期に入ったようだ」


「ええ、私も同じです」


 セシリアが頷く。


「ただ、手の温度は依然として通常より0.5度高い状態を維持しています」


 周囲の令嬢令息たちは、そんな二人を興味深そうに見守っていた。


 ──「相変わらずね、あの二人」


 ──「でも、なんだか微笑ましいわ」


 エルンストは周囲の声など聞こえていないかのように、分析を続けた。


「興味深いのは、視線の交換による瞳孔の変化だ」


「どのような変化ですか?」


 セシリアが身を乗り出す。


「通常の会話時と比較して、瞳孔が平均して12パーセント拡大している」


「それは交感神経の活性化を示唆していますね」


「そうだ。つまり、我々の身体は無意識のうちに──」


 エルンストが言いかけた時、銀髪の令嬢が二人に近づいてきた。


 キャリエル・ド・ハイエスト公爵令嬢だった。


「失礼します」


 キャリエルは優雅に微笑んだ。


「お二人の仲睦まじい様子を拝見していて、つい声をかけたくなりました」


 エルンストとセシリアは、手を繋いだまま立ち上がった。


「キャリエル様」


 二人は丁寧に頭を下げた。


「仲睦まじい、とおっしゃっていただけるとは光栄です」


 セシリアが恭しく答えた。


「私たちは実験の最中なのですが」


「実験でも」


 キャリエルは苦笑した。


「はたから見れば、とても親密な恋人同士にしか見えませんわ」


 その言葉に、エルンストの顔が輝いた。


「そう見えますでしょうか!」


 エルンストは嬉しそうに言う。


「やはり実験の方向性は間違っていないようです。刻一刻と我々の親密さは増しているように思えます」


 エルンストはセシリアに向き直った。


「セシリア嬢はどう思う?」


「私も同感です」


 セシリアは真面目な表情で頷いた。


「第三者からの客観的評価、それもキャリエル様のような方からのご評価は、我々の主観的な感覚を裏付けるものです」


 キャリエルは二人の反応に少し戸惑いながらも、興味深そうに尋ねた。


「お二人も政略結婚でしたよね」


「はい、その通りでございます」


 セシリアが答える。


「でも、なぜそのように心を通わせることができるのですか?」


 キャリエルの声には、切実な響きがあった。


「私も政略で婚約しましたが、最近は」


 言葉を濁す彼女に、エルンストが真剣な表情で向き直った。


「恐れながら、キャリエル様も恋愛関係の構築にお悩みでいらっしゃるのですか」


「悩みというか」


 キャリエルは苦笑した。


「むしろ後退しているような気がして」


 セシリアが同情的な表情を浮かべた。


「それはお辛いことでしょう」


「ええ、正直なところ」


 キャリエルは小さくため息をついた。


「お二人のような関係が羨ましいです」


 エルンストは恭しく頭を下げた。


「僭越ながら、我々の経験がキャリエル様のお役に立てるのであれば、喜んでお話しさせていただきます」


「ぜひ聞かせてください」


 キャリエルは身を乗り出した。


 エルンストは立ち上がった。


 セシリアの手を引いて、一緒に立たせる。


「まず第一に、共通の目的意識でございます」


 彼は丁寧に説明を始めた。


「我々は『愛の実証的研究』という明確な目標を共有しております」


「目標の共有」


 キャリエルは頷いた。


「第二に、相互の尊重です」


 セシリアが続けた。


「エルンスト様の理論を私が補強し、私の発見を彼が発展させる。対等な関係性でございます」


「なるほど」


「そして第三に」


 エルンストは一呼吸置いた。


「段階的な発展でございます」


 キャリエルが首を傾げる。


「段階的、ですか?」


「はい、愛というものは」


 エルンストは急に真剣な表情になった。


「恐れながら申し上げますと、あるいは出世魚のようなものなのかもしれません」


 サロンに一瞬の沈黙が流れた。


「出世魚?」


 キャリエルが困惑した声を上げる。


 周囲で聞いていた令嬢令息たちも、顔を見合わせた。


「どういう意味ですか?」


 セシリアでさえ、少し戸惑っているようだった。


 エルンストは恐縮しながらも説明を始めた。


「お聞き苦しい例えで恐縮ですが、出世魚というのは、成長と共に名前が変わる魚のことでございます」


 彼は空中に指で図を描きながら続けた。


「最初は小さく、ありふれた名前で呼ばれます」


「はあ」


「しかし成長するにつれ、より立派な名前に変わっていきます」


 エルンストの目が輝いた。


「最終的には、最初とは全く違う、威厳ある名前で呼ばれるようになるのです」


 キャリエルは理解しようと努めた。


「それが愛と、どう関係が?」


「つまりですね」


 エルンストは慎重に言葉を選んだ。


「愛もまた、段階を経て成長し、その都度違う名前で呼ばれるのではないかと」


 セシリアが目を見開いた。


「ああ、なるほど!」


 彼女は控えめに手を打った。


「最初は『好意』という小さな感情から始まり」


「その通りです!」


 エルンストが頷く。


「それが『親愛』に成長し、やがて『恋情』となり」


「最終的には『愛』という最も崇高な名前に至る」


 セシリアが締めくくった。


 周囲の令嬢令息たちから、感嘆の声が漏れた。


「なるほど、確かに」


「出世魚とは、面白い例えね」


「段階的に成長するという意味では、的確かも」


 キャリエルも納得したような表情を浮かべた。


「つまり、焦ってはいけないということですね」


「恐れながら、その通りでございます」


 エルンストは頷いた。


「小魚にいきなり大魚の名前をつけても、それは偽りでしかありません」


「自然な成長を待つ必要があるのですね」


 セシリアが付け加えた。


 キャリエルは考え込んだ。


「私とレイン様の関係は」


 彼女は呟いた。


「もしかしたら、まだ『好意』の段階なのかもしれません」


「それなら希望がございます」


 エルンストは慎重に言った。


「適切な環境と栄養を与えれば、必ず成長いたします」


「環境と栄養」


 キャリエルが繰り返す。


「愛における栄養とは?」


 今度はセシリアが答えた。


「共有する時間、会話、経験」


 彼女は指を折りながら数えた。


「そして何より、相手を知ろうとする努力でございます」


 エルンストが頷く。


「我々も日々、お互いについて新しい発見をしております」


「例えば?」


 キャリエルが興味深そうに尋ねた。


 エルンストとセシリアは顔を見合わせた。


「セシリア嬢は、考え事をする時に髪を触る癖がある」


「エルンスト様は、嬉しい時に右眉が少し上がります」


「君は紅茶に蜂蜜を二杯入れる」


「あなたは本を読む時、気に入った箇所で微笑みます」


 二人の間に、温かな空気が流れた。


 キャリエルは、その様子を羨ましそうに見つめた。


「素敵ですね」


 彼女の声には憧れが滲んでいた。


「私も、レイン様のそういった小さな癖を見つけたいです」


「きっと見つかります」


 セシリアが優しく言った。


「ただし、観察には客観性が必要でございます」


「客観性?」


「感情に流されすぎると、相手の本当の姿が見えなくなります」


 セシリアは真面目な表情で続けた。


「だからこそ、我々は実験という形を取っているのです」


 エルンストが補足した。


「データを取ることで、主観的な思い込みを排除できます」


「なるほど」


 キャリエルは感心したように頷いた。


「でも、それでは冷たい関係になりませんか?」


 その質問に、エルンストとセシリアは同時に首を振った。


「恐れながら、むしろ逆でございます」


 エルンストが言った。


「相手を正確に理解することで、より深い愛情が生まれます」


「誤解や幻想に基づく感情は、脆いものです」


 セシリアが付け加えた。


「真実に基づく感情こそが、永続的なものとなります」


 キャリエルは深く息を吸った。


「つまり、私はレイン様を」


 彼女は決意を込めて言った。


「もっとよく観察し、理解する必要があるということですね」


「そして」


 エルンストが恐縮しながら付け加えた。


「失礼を承知で申し上げますが、キャリエル様ご自身も、素直にご自分をさらけ出される必要があるかと」


 キャリエルが驚いたような顔をした。


「自分を?」


「はい」


 エルンストは慎重に続けた。


「愛は相互作用でございます。一方通行では成立いたしません」


 セシリアが優しく微笑んだ。


「完璧な公爵令嬢を演じるのではなく」


 彼女は言った。


「ありのままのご自分を見せることも大切かと存じます」


 キャリエルは考え込んだ。


 確かに、自分は常に完璧であろうとしていた。


 王太子の婚約者として恥ずかしくない振る舞いを心がけ、常に優雅で、知的で、美しくあろうとした。


 でも、それは本当の自分なのだろうか。


「私は」


 キャリエルは小さく呟いた。


「本当の自分を、レイン様に見せたことがあるでしょうか」


 その問いに、誰も答えなかった。


 答えは、彼女自身が見つけるべきものだったから。


 しばらくの沈黙の後、キャリエルは顔を上げた。


「ありがとうございます」


 彼女の声には、新たな決意が宿っていた。


「お二人のお話を聞いて、希望が見えてきました」


「恐れ多いことです」


 セシリアが頭を下げた。


「キャリエル様のお役に立てたのであれば、光栄の至りでございます」


「ところで」


 エルンストが急に思い出したように言った。


「出世魚の例えで言えば、我々の関係は今どの段階だろうか」


 セシリアは考え込んだ。


「難しいですね」


 彼女は首を傾げた。


「『好意』は確実に超えていますが」


「『親愛』も通過したと思われる」


 エルンストが続けた。


「では『恋情』?」


「恋情」


 セシリアは手を繋いだままのエルンストを見つめた。


「これがそうなのでしょうか」


「分からない」


 エルンストも素直に認めた。


「文献によれば、恋情とは胸が高鳴り、相手のことが頭から離れない状態らしいが」


「それなら当てはまりますね」


 セシリアが頷いた。


「私は最近、エルンスト様の理論のことばかり考えています」


「私も君の古代文献解釈が気になって仕方ない」


 周囲の令嬢たちが、くすくすと笑い始めた。


 ──「それは恋情とは少し違うような」


 ──「でも、ある意味では正しいかも」」


 キャリエルも微笑んでいた。


 二人の関係は確かに特殊だが、そこには確かな絆があることが分かる。


「私も」


 キャリエルは呟いた。


「レイン様と、そんな風に夢中になれる何かを共有したいです」


「必ず見つかります」


 エルンストが励ました。


「愛の形は人それぞれでございます。我々のような形もあれば、もっと情熱的な形もあるでしょう」


「大切なのは」


 セシリアが続けた。


「お二人に合った形を見つけることでございます」


 キャリエルは深く頷いた。


「はい、頑張ってみます」


 彼女は立ち上がった。


「貴重なお話をありがとうございました」


「とんでもございません」


 エルンストが恭しく頭を下げた。


「もしまたお悩みがございましたら、いつでもご相談ください。我々の実験データも、必要でしたら共有させていただきます」


「それは心強いです」


 キャリエルは優雅に一礼した。


「では、失礼いたします」


 彼女が去った後、エルンストとセシリアは再び向かい合った。


「良い分析ができたな」


 エルンストが満足そうに言った。


「はい」


 セシリアも頷いた。


「出世魚の例えは秀逸でした」


「思いつきだったが、意外に的確だった」


 二人はまだ手を繋いだままだった。


「そろそろ一時間になりますね」


 セシリアが懐中時計を確認した。


「手を離しますか?」


「いや」


 エルンストは首を振った。


「もう少しデータを取りたい」


「私も同感です」


 セシリアは微笑んだ。



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