第36話 第三の女
とっさに、後ろに飛び退いた私の姿を目にして、男性はなぜか吹き出しそうなのを堪えながら、喋り出しました。
「いや……うん。君、何やっているのかな。こんな夜道を死にそうな顔でぐるぐると。しかも、赤い外套が目立つっていうか。……笑えちゃって、泣きそう」
「ぐるぐる?」
「何処に向かっているのかなって、気になって」
「私はただミノス公爵の別邸に……」
ここまで話すつもりはなかったのですが、あまりのひもじさに、私はつい口を滑らせてしまいました。
男性は詮索するでもなく、簡潔に答えてくれました。
「ああ、だったら、そこの角を右で直進だよ。君、とっくに着いているくらい、迷走しているよ」
「えっ?」
瞬時にセーラの方を向くと、彼女はそっぽを向いていました。
「そんなに近いところを、私はぐるぐる回って……」
『何よ? わたくしがわざと貴方を歩かせたって言っているわけ?』
背後で、セーラが何やら言っていますが……。
(ああ、良かった)
私は、ほっとして胸を撫で下ろしました。
とりあえず、明後日の方向に歩いていたわけではないので、マシかもしれません。
「……で? こんな夜更けに、お嬢さん一人でミノス公爵に何か用でもあるのかな?」
男性は何気ない様子で、鋭く核心をついてきます。
明るい橙色の髪色は、街灯のほのかな光のせいで、一層、華やかに見えました。
「いいえ、私は何も……。ただ、公爵様が普通にしていらっしゃるのなら、私はそれで」
「普通?」
「普通は普通です」
丁度良いですね。
この男性は貴族のようですし、別邸まで忍び込まなくても、彼からエオールの現状を聞きだして、それとなく危機を煽ることが出来たら、今夜の目標は達成じゃないですか。
……ですが、彼は。
「あ―……」
眉間を押さえて、大仰に下を向くと
「確かに、普通……ではないな。ミノス公爵は大変なことになっている」
芝居がかった表情で、急に語り出したのでした。
「いやー。大変だよ。一大事。あの公爵様がさ、最近、ようやく本命の女性が出来たみたいで。あの堅い岩のような頑固な男が……だよ。彼女のところに行きたくてうずうずしているんだ。贈り物は何が良いか真剣に迷ったりしてさ。ようやく公爵様にも春が来たんだって、泣けてくるね。僕は……」
「はっ、はあ?」
これは、一体どういうことでしょう?
私はエオールの状態が知りたかったのに、それがぶっ飛んで、彼の熱愛中の女性の話を聞く羽目になっています。
レイラさんのことなら、私だってよく知っているのですが……。
――しかし。
「正直さ、歌姫のところに通っている彼は、自虐的過ぎて……。見ていて、僕も痛々しかったからさ」
――ん?
「普通に釣り合いの取れる身分で、好きな娘が出来て良かったと思っているよ。だから、ちゃんと結婚式でも挙げて、きちんと責任を取ってあげたら良いって。口を酸っぱくして、僕はミノス公爵に伝えているんだけどね」
「それって?」
エオールの愛する人は、歌姫・レイラではない?
――結婚式?
――責任を取る?
要するに……。
――第三の女……がいる!
私は混乱してしまい、爆発寸前でした。
(待って。ちゃんと状況を整理して……)
――つまり。
エオールは新しい恋人を作って、結婚式を挙げなければならないような大人の関係に発展中ってこと?
(結婚って……)
あらら?
早速、私はお払い箱ってことでしょうか?
エオールが死んで、義父様にいびられるより、そちらの可能性の方が遥かに高そうです。
レイラになら、喜んでエオールの「妻」になって頂きたいと思っておりましたが、見知らぬ女性となると話が違ってきます。
(エオール様って「女たらし」なの?)
レイラという最愛の人がいながら、新しい女性を作るなんて、人でなしじゃないですか。




