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婚約破棄を告げられそうだったので先手を打って婚約破棄を宣言した令嬢のお話

「ハルトバート様! あ、あなたとの婚約を! 破棄させていただきます!」


 夜も更け始めたころ。貴族たちの通う学園で執り行われていた夜会。その穏やかで落ち着いた雰囲気を打ち壊す叫びに、参席した生徒たちの注目が集まった。

 生徒たちの視線の先には三人の男女の姿があった。

 

 婚約破棄の宣言を発したのは子爵令嬢リトランジェ・フラーブリスト。

 小柄な少女だった。周囲の生徒たちより頭一つ分は低い。身体も細く、胸も慎ましい。その顔立ちは整っているが、大粒の水色の瞳に丸みを帯びたふっくらした頬は、美しさよりかわいらしさが勝る。

 丁寧に結い上げられたシニヨンの髪は、鮮やかな金色。纏うのは落ち着いたデザインの深い青のドレス。その整った装いは、淑女として申し分ないものだった。

 その小柄さゆえに幼く見られがちなリトランジェだったが、学業のおいては常に学年上位にあり、魔法の扱いにも長けている才女だ。

 

 婚約破棄の宣言を受けたのは、伯爵子息ハルトバート・ディレクソート。子爵令嬢リトランジェの婚約者だ。

 暗めのブロンドの髪に、髪と同じ色の太めの眉。その下で凛と輝く瞳の色は緑。上背は高くがっしりとした体つきをしている。騎士を思わせる精悍な青年だ。

 その外見の印象を裏切ることなく、ハルトバートは剣の扱いに長けている。彼は小細工は弄さない正面からの攻めを得意とする。その斬撃を防げる者は学園でもほとんどいない。その堂々とした戦い方と清廉潔白な人柄で知られる好青年だ。

 

 小柄で華奢な子爵令嬢リトランジェと、大柄でたくましい伯爵子息ハルトバート。二人は学園に入学した時から婚約者だった。まったく正反対な二人だったが、不仲ということはなく、婚約者として慎ましく穏やかに仲を育んでいた。足早に歩くリトランジェに、ゆったりとした動きで歩みを合わせるハルトバート。二人の姿は見ていて和むと、学園の生徒たちの間で評判となるほどだった。

 そんな二人が婚約破棄するなど、誰もが予想しない異常事態だった。

 

 予想外のことに困惑する生徒たちだったが、しかし、伯爵子息ハルトバートに寄り添う令嬢の姿を見ると、奇妙な納得感を覚えることとなる。

 男爵令嬢セルペンティア・アインテルプ。腰まで届くしっとりとしたダークブラウンの髪。やや垂れ目がちな薄い赤紫の瞳。しっとりとした睫毛は、男心をざわつかせる色香を放っている。

 身に纏うのは深い紫を基調としたドレスだ。令嬢の纏うものとしては装飾が少なく、それが彼女の身体を効果的に見せていた。その柔らかな身体のラインは女性的な魅力にあふれていた。特にきゅっとしまった腰まわりのラインは男子生徒の視線を集めてやまない。その豊かな胸も見逃せない特徴だ。令嬢の纏うドレスだけに肌の露出は少ない。だがそれがかえって、そのうちに秘めた色香を想像させた。

 こんな女性に言い寄られれば、並の男ならば色香に容易く負けてしまうだろう。そう思わせる、妖艶な令嬢だった。

 

 しかし、奇妙な状況だった。

 伯爵子息ハルトバートが浮気相手を連れて婚約破棄を宣言するならば、演劇でよく見かける光景だ。しかし実際に婚約破棄を言い出したのは、子爵令嬢リトランジェの方なのである。

 生徒たちは戸惑い、固唾を呑んで見守った。

 当事者であるハルトバートは目を瞬かせていた。どうやらこの状況は彼にとっても予想外のことのようだった。


「ちょっと待ってくれ、リトランジェ! いきなり婚約破棄だなんて、君はいったい何を言っているんだ?」

「しらじらしい! 婚約者を差し置いてそんな令嬢をエスコートしてきて、自分が潔白だとでも言うつもりですか!?」

「事情はきちんと話しておいただろう? このセルペンティア嬢は病床にあった。快復して学園に通うにあたって、同じ派閥に属する上位貴族である私が世話をしてきた。この夜会でも彼女をエスコートすると、君には事前に知らせていたじゃないか」


 それは生徒たちの間でも噂になっていたことだった。

 男爵令嬢セルペンティアは病気のため、これまで学園に通うことができなかった。それがようやく快復し、入学することとなったらしい。ここ二か月ほど、伯爵子息ハルトバートが面倒を見ていたそうだ。

 それは同じ派閥に属する上位貴族として当然の義務とも言えるものだ。事前に婚約者に話を通していたのなら、ハルトバートに非はないはずだ。

 しかし、婚約者であるリトランジェは納得がいかない様子だった。

 

「だったらその手は何ですか!? いやらしい!」


 リトランジェは二人の組まれた腕を指さした。

 夜会に参席する令嬢が、エスコート役の男性と手を組む。礼儀則った作法だ。それ自体に後ろ暗いところはない。

 しかし、セルペンティアの腕の組み方は実に絶妙だった。彼女は適度な距離を保っている。それなのにその豊かな胸は、ハルトバートのたくましい腕に確かに触れているのである。

 彼女の保つ距離はギリギリ不作法と言えないものだった。もし男性が指摘すれば、指摘した方が下世話な想像をしたと受け取られかねない。女性が指摘すれば、この豊満な胸を妬んでいると取られてしまうことだろう。

 文句を封じ、色香を示す。そんな絶妙な腕の組み方だった。

 

 指摘を受けたハルトバートは今そのことに気づいたかのように手を振りほどいた。セルペンティアは嫌がるそぶりも見せず身を離した。口元に浮かんだ微笑みは、「照れてしまって、可愛い人」とでも言いたげで、それがかえってなまめかしかった。

 そんな二人のやりとりを目にし、婚約者であるリトランジェは激昂した。


「やっぱりわたしのような貧相な身体の婚約者は嫌だったんですね! やはり殿方というものは、胸の大きい女性を好むのですね!」

「いや、誤解だ! 話を聞いてくれ!」

「何も聞くことはありません! あなたから婚約破棄を宣言されるくらいなら、私の方からしてやります! 婚約破棄! 婚約破棄! 婚約破棄です!!」



 それは学業に秀でた才女の姿ではなかった。まるで駄々っ子のようだった。

 最初は困惑していた生徒たちも、次第に態度が変わってきた。リトランジェへ非難の目を向ける者が出てきた。

 確かにハルトバートにも非がある。同じ派閥の下位貴族の世話のためとはいえ、他の女性と仲睦まじくして婚約者を不安にさせたのは、貴族子息として落ち度と言える。

 それでもリトランジェの行動は許容できないものだった。婚約者に近づく女性を敵視するのはわかる。不安に駆られるのも仕方ない。だからといって衆目のある場で婚約破棄を宣言するのは令嬢のふるまいとは言えない。

 

 リトランジェに冷ややかな視線が向けられる中、しかしハルトバートは婚約者のことを疎ましく思う様子はなかった。その顔は深い憂いに染まっていた。彼は深く後悔しているのだ。

 

 

 

 ハルトバートが初めての顔合わせでリトランジェの姿を見た時。最初に思ったのは、「彼女を守らなければならない」ということだった。

 ハルトバートは体格に恵まれ、幼いころから剣術に励んできた。そんな彼から見て、小柄なリトランジェは脆くて繊細で、守ってやらなければならない存在に思えた。

 家の都合で決まった婚約だったが、天の配剤だとさえ思った。

 

 しかし、ほどなくしてその考えが間違いであることを知った。

 

 リトランジェは確かに体格に恵まれていなかった。だが努力家だった。勉学に励み、魔法の練習も熱心に繰り返した。彼女は自分の小さな体を疎ましく思っている。だからこそ、体格に左右されない勉学と魔法で力をつけようと頑張っていた。

 リトランジェはいつも髪をきっちりとシニヨンでまとめていた。髪を下ろした姿は見たことがない。子爵家の使用人に聞いたところ、ふわふわとした柔らかな髪質で、髪を下ろした姿は天使のように愛らしいとのことだった。しかしリトランジェは幼く見えてしまうその姿を嫌っており、常に編み上げているとのことだ。

 リトランジェは外見を整えるだけでなく、貴族としての所作も細やかで隙が無い。常に自分を律していることが窺えた。

 

 リトランジェは庇護すべき弱者ではない。尊敬すべき女性なのだ。「守らなければならない」など、烏滸がましい考えだ。むしろ彼女に恥じない婚約者でいなければならない。ハルトバートはより一層、剣の修行に励んだ。

 二人の婚約者としての関係は慎ましく続いた。ハルトバートは、努力し続けるリトランジェに心惹かれ、深く愛するようになっていった。

 

 リトランジェは自分の体の小ささを気にしている。同世代の令嬢に比べて色気に欠けていることを気に病んでいる

 ハルトバートはそんなことを気にしない。かわいらしい顔も、小さな体も、愛しくてたまらない。そのことを伝えたいと思ったこともあるが、それはこらえた。彼は恋愛には疎い方だったが、悪意のない言葉が時に人を傷つけることを知っていた。


「色気がないことなんて私は気にしない」

「美しさよりかわいさのほうがずっと素晴らしい」


 たとえそれが本心であっても、彼女は素直に受け取れないだろう。気遣われたと捉えて、かえって惨めな思いをするかもしれない。

 無理に距離を縮める必要なんてない。二人は固い婚約関係で結ばれているのだ。ゆっくりと仲を育んでいけばいい。ハルトバートはそんなふうに考えていた。




「君との婚約を破棄なんてしたくない。セルペンティアとは本当になんでもないんだ!」

「あなたの話なんて聞きたくありません! わたしを気にかけている振りは、もうやめてください!」


 聞く耳を持たないリトランジェの姿に、ハルトバートは心を痛めた。ゆっくり仲を育めばいい……そんな暢気な考えのせいで、彼女は不安に駆られ、こうして婚約破棄を口にするまでに至ったのだ。想いをきちんと言葉で伝えるべきだった。そうすれば、こんな事態は避けられたかもしれない。

 しかし不思議でもあった。リトランジェはコンプレックスをバネにして努力に励む令嬢だ。逆境に強いはずの彼女が、少しの間、他の令嬢を世話しただけで、ここまで不安に駆られるのはどうにも腑に落ちないものがあった。

 何かこちらの知らない事情があるのかもしれない。しかし、今のリトランジェはこちらの言葉を聞こうともしない。事情を聞き出すのは容易ではない。

 

 だからと言って手をこまねいているわけにもいかない。学園の夜会で婚約破棄を宣言してしまったのだ。この場で事態を収束できなければ、その影響は無視できないものとなる。

 学園の夜会の場で婚約破棄を宣言した以上、多くの貴族が知ることになるだろう。ハルトバートのディレクソート伯爵家は名誉を傷つけられたことになる。そうすればリトランジェのフラーブリスト子爵家との関係は最悪なものとなるだろう。本当に婚約破棄は成立することになる。

 

 恋に慣れた男なら、うまく場をとりなして事なきを得られるかもしれない。しかしハルトバートは剣の修行ばかりして無骨な男だ。こんな事態に対してどう立ち向かえばいいのかわからない。

 

 リトランジェを愛している。このことを伝えて、彼女の不安をなくしてしまいたい。だが聞く耳を持たない今のリトランジェに対してどう言えばいいのか。ただ「愛している」と口にしただけでは、場を取りなすための虚言と受け取られるだけだ。

 

 リトランジェを失うことになるかもしれない。その冷たい未来に鼓動が速まった。

 恐怖に苛まれ思考をめぐらすうち、ハルトバートは閃いた。


「リトランジェ、聞いてくれ!」

「あなたの言うことなんて聞きたくもありません!」

「私の言葉ではない! この音を聞いてくれ!」


 そう言うと、ハルトバートはリトランジェの方に踏み出し、彼女の手をとった。そしてその小さな手のひらを、自らの胸に押し当てた。


「な、なにをっ……!?」

「私の鼓動を聞いて欲しいんだ」

「鼓動……!?」

「君を失うかもしれないという恐怖で速まる、この鼓動を聞いてくれ!」


 言葉は届かない。ならば、リトランジェを失う不安に速まる鼓動を聞けば伝わるのではないかと考えたのだ。

 どうか伝わって欲しい……祈りにも似た想いを抱いてリトランジェの様子を見た。

 しかしリトランジェは困惑に顔を曇らせただけだった。

 

「こ、これが何だと言うんですか? こんなの、浮気がバレて焦っているだけではないのですか……?」


 リトランジェを失う恐怖におびえ、こんなにも鼓動が速まっている。それなのに、彼女はわかってくれない。

 だが、他にいい方法を思いつかなかった。手のひらで足りないのなら、もっとよく聞こえるようにするしかない。

 ハルトバートはリトランジェの腰に手を伸ばし引き寄せると、抱きしめた。彼女の小さな体はハルトバートの腕の中にすっぽりと収まった。身長差から、リトランジェの顔は彼の胸の位置にある。耳が胸に触れるよう、彼女の頭を胸に押し当てた。


「な、な、なななにをしているんですか!?」

「これでさっきよりよく聞こえるはずだ!」


 最初は抵抗するそぶりを見せていたリトランジェだったが、ぎゅっとだきしめると大人しくなった。そうしてようやく、彼女はハルトバートの心音に耳を傾けたようだった。


「……ハルトバート様、すごくドキドキしています……」

「君のことを抱きしめているからだ」

「信じられません……! わたしみたいな貧相な身体では、女性として見てもらえないと思っていました……」

「鼓動で嘘はつけない。君は誰よりも魅力的な女性(ひと)だ」

「でもわたしは、婚約破棄を宣言したんですよ……自分に自信がなくて、すぐに癇癪を起こす、ダメな女なんですよ……」

「君を不安にさせた私にも非はあった。だからどうか、私の言葉を聞いて欲しい」


 ハルトバートはリトランジェの頭を押さえる手を離した。

 自らの腕の中で、顔を上げるリトランジェと目が合った。その瞳は潤んでいる。頬はりんごのように紅く染まっている。何てかわいらしい女性(ひと)なのだろう。愛しくてたまらない。

 胸に湧きあがる想いを、そのまま口に出した。


「リトランジェ。君のことを、愛している」


 リトランジェが震えるのが伝わってきた。大粒の瞳が驚きに見開かれた。ようやく気持ちが届いたという確信があった。

 やがて彼女はぽろぽろと涙をこぼし始めた。

 

「わたしも、あなたのことを愛しています……本当は、婚約破棄なんてしたくないんです……愛しています……愛しているんです……!」


 リトランジェは愛する人の胸に顔をうずめると、力いっぱい抱きしめた。

 ハルトバートはかわいい婚約者をぎゅっと抱きしめ返した。


 そして、夜会での婚約破棄は終わった。

 二人の愛は確かなものだった。リトランジェの婚約破棄の宣言は、不安に駆られた一時の気の迷いとして受け取られた。大事にならず、二人の婚約関係が脅かされることはなかった。

 そんな風に穏やかに終わったから。リトランジェが本当に婚約破棄の危機にあったと気づく者は、その場にはほとんどいなかった。




 夜会の日より三か月ほど前の休日のこと。王都内のタウンハウスで寛ぐリトランジェの下に、男爵令嬢セルペンティアがやってきた。

 事前に連絡のない下位貴族の訪問。本来ならその非礼を指摘し、追い返すこともできた。しかしセルペンティアは婚約者のハルトバートと同じ派閥に属する貴族だ。無下に扱うわけにもいかず、迎え入れた。

 貴族らしからぬ妖しい女だった。すらりとした細身ながらに豊かな胸。垂れ目に長いまつげも妙な色香がある。リトランジェは、自分に無いものをいくつも持つこの令嬢に対して反感を覚えた。用件を早く済ませて追い返そうと思った。

 だが彼女の要求は、すぐに済ませられるようなものではなかった。


「ハルトバート様をお譲りいただきたいのです。どうか彼との婚約を解消してください」


 思わず言葉を失うほどの大それた要求だった。セルペンティアは男爵令嬢だ。伯爵子息と子爵令嬢の婚姻に口出しできる立場ではない。

 あまりの暴言にとっさに返す言葉を思いつかないリトランジェに対し、セルペンティアは実に落ち着いた態度で懐から一つの宝珠を取り出した。

 握りこぶしより一回り程小さな赤い宝珠は、魔力計測をする一般的な魔道具だ。セルペンティアが宝珠を握り魔力を込めると、宝珠の中に紋章が浮かび上がった。

 その紋章は貴族のみならず、平民すらもよく知るものだ。


「あなたは……『勇者の残り香』なのですか!?」


 驚きの声を上げるリトランジェに対して、嫣然とした笑みを浮かべセルペンティアは頷いた。

 『勇者の残り香』とは、かつての勇者の血を引く者のことを指す。魔力計測に浮かんだ紋章は、その証明だった。




 魔王の出現に呼応して、それに対抗する勇者が現れる。

 世界に数多あるおとぎ話では、勇者はどこからともなく現れるとされるものが多い。だがこの王国においては異なる。勇者とは、ブラーブラード侯爵家の血族から現れるものなのだ。


 遠い昔、魔王を打ち倒した勇者は褒賞として貴族の地位を与えられた。それがブラーブラード侯爵家の始まりである、以来、王国の長い歴史において、魔王が現れるたびにブラーブラード侯爵家の血族が勇者としての力に覚醒した。幼い末子が覚醒することもあれば、老いた当主が勇者となることもある。あるいはうら若き令嬢が勇者となったこともあった。勇者となるものの性別や年齢は様々だった。しかしいずれも例外なくブラーブラード侯爵家の血を引いた者だった。

 

 ブラーブラード侯爵家は勇者を生み出す家系ゆえに、魔物たちから狙われることが多かった。また、勇者の力を求める他国から干渉を受けることも少なくなかった。王家は侯爵家を庇護し、侯爵家もまたそれに応え、所領を立派に治めてきた。

 

 その理想的な関係が、100年前に覚醒した勇者によって崩された。

 

 英雄色を好むと言うが、当時の勇者はあまりにも極端だった。魔王軍との戦闘の混乱の最中、とっかえひっかえ女を抱き、国中に子種をばらまいた。「女性と肌を重ねるごとに力を増すスキルを持っていた」という説もあるが、真相はさだかではない。

 魔王との戦いが終わった後、勇者がどれだけの人間に子種を与えてしまったか、王家ですら容易に把握できないほどあった。もはや収拾がつかなかった。

 時間をかけて調べ上げることも可能ではある。しかしそれは勇者の醜聞を国中に広めることになる。それに、まさか勇者の子種を授かった人間すべてに爵位を与えるわけにもいかない。

 そこで当時の王はこんな御触れを出した。

 

「勇者の情けを受けた者が、そのことを理由に専横を振るった場合、厳罰に処す」


 この御触れにより、勇者の子種を受けた者がそれを理由に好き放題することを禁じたのである。

 王家は、これまで通りブラーブラード侯爵家は維持し、市井にある勇者の血を継ぐ者たちは放置するという方針を取ったのだ。

 

 しかし、完全に放置したわけでもない。

 いかに守りを固めようと、ブラーブラード侯爵家が何らかの理由で滅びることはありうる。その万が一に備え、市井の者が勇者になる可能性は維持したい。

 そのために魔力測定の宝珠に機能を追加した。勇者の血を引く者が手にしたとき、勇者の紋章が浮かび上がる機能をつけておいた。勇者の子孫すべてが該当するわけではない。ある程度、その素養がある者だけに紋章は現れた。

 勇者の血を引いた市井の者を『勇者の残り香』と呼んだ。


 そして王家は貴族たちへ、『勇者の残り香』に対して支援することを義務付けた。困窮した『勇者の残り香』の者に金銭的な補助をしたり、仕事を斡旋するなどの支援を行うこととなった。そうすることで、勇者となりうる者たちの存続を図った。

 『勇者の残り香』を盾にあまりに多くを要求する者は、先の御触れの「専横を振るった」ことに該当するとして厳罰に処した。

 そうして『勇者の残り香』は王国に残ったのである。

 

 

 

 魔力測定の宝珠に浮かんだ紋章は間違いない。男爵令嬢セルペンティアは『勇者の残り香』だった。


「伯爵子息ハルトバート様は、恵まれた体格と優れた剣技を持つ素晴らしい方です。彼の血を取り入れることは将来の勇者の誕生に必ずや役立つことでしょう。だからぜひとも彼をお譲りいただきたいのです」


 セルペンティアの要求に、リトランジェは唸った。一応、筋は通っている。所定の手続きを踏めば、王家の認可を取り付けることも可能な理由だ。

 だがその意図が言葉通りでない事は明白だ。リトランジェは聡明な令嬢であり、そのことを察していた。目の前のこの女狐は、伯爵家に嫁ぐことで上を目指すつもりなのである。

 

 これは後日の調査で明らかになったことだが、セルペンティアの母は高級娼婦だった。それが『勇者の残り香』であることを利用して男爵夫人となった。彼女は娘を政略の道具として育て上げ、より上を目指すために伯爵子息に嫁ぐよう画策したのである。

 子爵令嬢を排して伯爵子息を手に入れる。その事実は貴族社会において極めて大きな意味を持つ。リスクを伴うが、成功すればその利益は計り知れない。実に狡猾な策だった。

 

 そうした奸計であるとわかったていても、リトランジェはこの要求を無視できない。『勇者の残り香』の正当な要求を拒絶したとなれば、子爵家の名は小さくない傷を負うことになる。

 

「ハルトバート様とわたしは愛し合っています! この王国は愛の女神を信仰している国家! 愛と勇者、どちらも比べられない大事なものです! だからあなたの要求は受け入れられません!」

 

 リトランジェはとっさにそんなことを口走っていた。

 ハルトバートが自分を大事にしてくれていることはわかっている。だが、愛されているかと言うととわからない。

 それでもこれが『勇者の残り香』の要求を退けることのできる唯一の手段だった。それにリトランジェは追い詰めらた気持ちになっていた。

 自分よりずっと女性らしくて色気のあるこの令嬢に婚約者を奪われてしまったら、その敗北感は一生付きまとうことだろう。立ち直ることなどできないかもしれない。その恐怖から出た窮余の策だった。

 

「……なるほど。お二人は家の都合で婚約しただけではなく、そんなに深く愛し合っているのですか。それが『真実の愛』なら、私は身を引かなければならないでしょう」

「わかっていただけましたか?」

「ええ。それが本当に『真実の愛』なら、ですが」

「……何が言いたいんですか?」

「あなたとハルトバート様の間にあるものが『真実の愛』か確かめるため、私に二か月くださいませんか?」


 そう言ってセルペンティアはある筋書きを提案した。

 彼女は家の都合で学園に通っていなかった。これを病気のために通えなかったということにする。そして入学するにあたり、同じ派閥に属する上位貴族であるハルトバートに世話をしてもらう。ハルトバートには事情を知らせない。彼は何も知らないまま、ただ同じ派閥の貴族と言う理由でセルペンティアの相手をする。

 その過程でセルペンティアは、ハルトバートが心変わりするよう働きかけると言うのだ。


「二か月間、私はハルトバート様を誘惑します。もしお二人の仲が『真実の愛』で結ばれているのなら、私ごときの誘いで揺らぐことなどないでしょう。そうすれば私も諦めがつきます。どうか私に、二か月をくださいませんか?」

 

 今すぐに思いついた筋書きとは思えなかった。セルペンティアは要求を拒絶された場合の対応も予め考えていたのだ。

 この要求をリトランジェは拒絶できない。もし許可しなければ、それは二人の間に『真実の愛』など無いと自白することになる。

 邪魔をすることもできない。もし手を出せば、それもまた『真実の愛』がないことの証明になってしまう。

 二か月の間、婚約者の干渉を封じて男を誘惑する。これは実に狡猾な策だった。

 セルペンティアは嫣然と微笑んだ。勝ち誇った笑みだ。

 

「……わたしはハルトバート様のことを信じています。わかりました。二か月間を与えてあげましょう」


 ハルトバートが誠実な男性だと信じている。しかしこの妖艶な令嬢相手に、年頃の男性が耐えきれるとも思えない。

 敗北する可能性が高い。それがわかっていても、リトランジェは強がりを言うしかなかった。

 

 

 そして苦悩の二か月が始まった。

 学園にいる間、ハルトバートは普段通りにしている。だが放課後になると、セルペンティアの世話をするためにすぐ帰ってしまう。

 リトランジェも何もしなかったわけではない。邪魔をすることはできなくとも、その動向は把握しておかねばならない。尾行に長けた使用人に偵察させ、セルペンティアの行動を報告させた。もし、二か月の期限を待たずにハルトバートが一線を越えてしまったら……その時は、そのことを瑕疵として婚約解消を言い渡さねばならない。

 

 セルペンティアは日々様々な誘いをかけているようだった。病気の令嬢を装う彼女は、最初は外出を控え、王都内のタウンハウスで会話するくらいだった。やがて段階的に外出が増えていった。

 一緒に学園へ事務手続きに行く。王都内の公園で過ごす。美術館に行く。劇場へ観劇に行く、などなど。手を替え品を替え色々とやっているようだが、使用人の報告を聞く限りでは男女の清い交際といった感じだった。

 学園の昼休みにはハルトバートにそれとなく探りを入れていた。彼に後ろめたい様子はなく、話す内容も使用人の報告と一致していた。もともと嘘を吐くのが下手な人だったから、隠れて彼女との仲が進んでいるという様子でもなかった。

 

 どうにも奇妙な話だった。妖艶なセルペンティアのことだから、その色香でハルトバートのことを誘惑し、手っ取り早く既成事実を作ってしまうものと思っていた。

 使用人の報告だけではわからないことがあるのかもしれない。リトランジェは一度だけ、変装して放課後の二人の様子を見に行った。

 

 夕暮れの王都をハルトバートとセルペンティアは歩いていた。穏やかに談笑しながら、手をつなぐ二人を見た。セルペンティアはあの妖艶さは見せず、ごく当たり前の少女のように楽し気に話していた。ハルトバートもまた、実に落ち着いた雰囲気で受け答えしていた。

 

 二人の間にある自然な空気。それが何よりもリトランジェを打ちのめした。

 たくましい身体を持つ精悍なハルトバート。女性らしい魅力にあふれた美しいセルペンティア。似合いのカップルだった。身長差のせいで兄妹に見られがちなリトランジェとはまるで違う。 

 リトランジェと歩く時、ハルトバートは歩みを合わせてくれる。でもその身長差ゆえに、見上げなければ彼の顔が見えない。見つめ合っても頭一つ分の距離がある。

 セルペンティアにはそれがない。すぐ触れられそうな近くに、ごく当たり前のように収まっている。その事実がリトランジェの胸をえぐった。

 

 きっとセルペンティアは身体を使うまでも無いと判断したのだ。ごく当たり前に交際するだけでハルトバートを自分のものにできると確信したのだ。

 

 リトランジェは敗北を悟った。そして約束の二か月が過ぎようとした頃、セルペンティアから手紙が届いた。

 内容は、「次の夜会で決着をつける」というものだった。その意図はわかった。きっとセルペンティアは、夜会で婚約破棄を告げることにより、周囲に自らの勝利を喧伝するつもりなのだ。



 夜会なんて出たくないと思った。だが尻尾を巻いて逃げては、子爵家の名折れだ。リトランジェは打ちひしがれながらも、貴族令嬢としての意地で夜会に出席した。

 そして運命の時はやってきた。会場に姿を現した二人。式服に身を包んだ精悍なハルトバート。フォーマルなドレスに身を包んだ美しいセルペンティア。誰が見ても似合いの二人だった。

 覚悟はしていたはずだった。それでもあの優しいハルトバートから婚約破棄を告げられると思うと、血が凍るほどの恐怖を感じた。

 黙って運命を受け入れることなどできなかった。だから、声を出さずにはいられなかった。

 

「ハルトバート様! あ、あなたとの婚約を! 破棄させていただきます!」


 自暴自棄の諦念が、そんな言葉を言わせた。

 もうすべてはおしまいだ。

 そんなリトランジェに対して、ハルトバートは辛抱強く語りかけてきた。この場を収めるだけの言葉だと思った。もう彼の心の中には、セルペンティアがいるのだと思っていた。

 しかしハルトバートは必死になって伝えてくれた。

 抱きしめてくれた鼓動が、彼の抱いているのが『真実の愛』だと確信させてくれた。

 

「わたしも、あなたのことを愛しています……本当は、婚約破棄なんてしたくないんです……愛しています……愛しているんです……!」


 そうしてリトランジェは、胸の奥に押し込めて蓋をしていた想いを、ようやく口に出すことができたのだった。




 夜会の翌日の放課後。リトランジェはハルトバートをタウンハウスに招いた。

 内密な話になるので、念のために使用人たちは退室させ、二人きりとなった。

 応接室のテーブルを挟んで席に着くと、リトランジェは今回の件について全てを語った。


「……そうか、そういう事情だったのか」

「ハルトバート様に何も告げずに勝手なことをして、そのうえあなたのことを信じ切れなかったなんて……大変申し訳ありませんでした」


 リトランジェは深々と頭を下げた。申し訳ない気持ちでいっぱいだった。


「リトランジェ、どうか頭を上げて欲しい。これまで君にはっきりと気持ちを伝えなかった私にも非があるんだ」

「ですが……」

「いいから、とにかく頭を上げてくれ。もう謝る必要はない」


 リトランジェとしてはまだまだ謝り足りない気持ちだった。でもそこまで言われると頭を下げたままなのも失礼に当たる。

 顔を上げるとハルトバートの優しさに満ちた目に迎えられた。なんだか気恥ずかしくなってしまい、リトランジェは話題を変えることにした。


「それにしても、ハルトバート様はよくセルペンティア嬢の誘惑に耐えられましたね。あの人の色香は、同性のわたしから見ても凄まじいものでした」


 恋愛に疎いリトランジェだったが、年頃の男性が女性の色香に惑わされることくらいは知っている。あれほどの美貌とスタイルの良さを備えた令嬢に誘惑されたら、大抵の男性は屈してしまうだろうと思っていた。

 

「私には君と言う婚約者がいた。心に決めた人がいるのなら、他の女性の誘いなんて煩わしいだけだよ」


 わずかに視線をそらしながらハルトバートはそう言った。言葉通りの簡単な話ではないだろう。あの色香に耐えきるには相当な精神力を要したはずだ。ハルトバートの誠実さは並大抵なものではなかった。

 

 以前、ハルトバートとセルペンティアの様子を見に行った時。普通の恋人のように過ごす二人を見た。あの妖艶な令嬢は、身体を使って落とすまでもないと判断したのだと思った。実際にはその手が通じず、ああやって少しずつ距離を詰めるしかなかったのだろう。

 

 あの夜会の時。抱きしめ合うリトランジェとハルトバートを後目にセルペンティアは会場を去ったらしい。見かけた者によれば、ひどく悔しそうな顔をしていたそうだ。

 ハルトバートの心を奪うことができずに迎えた夜会。あのときセルペンティアはどうするつもりだったのだろうか。もしリトランジェが婚約破棄を言い出さなければ、何かを仕掛けていたのかもしれない。彼女のこれまでの周到さを思うとぞっとするものがあった。


 あれ以来、セルペンティアは学園に来ていない。彼女は男爵家の生まれとはいえ、母親が元高級娼婦だ。そのことで入学を見送られていたらしい。そこで伯爵子息の婚約者として貴族社会に打って出るという計画だったようだ。

 表向きには病気が再発して入学は取りやめになったと広まっている。

 

 これから先。貴族社会に出た時、またあの妖艶な令嬢と対峙することもあるかもしれない。

 今回の件はハルトバートのおかげで辛くもしのぐことができた。次は彼に頼るばかりではなく、自分の力で勝利したい。リトランジェは改めて気を引き締めた。

 

 そんなことに考えを巡らせていると、ハルトバートから声をかけられた。


「リトランジェ」

「はい?」

「愛している」

「!」」

 

 突然愛を告げられ、リトランジェは真っ赤になった。


「不意打ちで愛を告げるのはやめてください!」

「だが、気持ちを言葉にするのを怠っていたために君を不安にさせた。あんな過ちは二度とあってはならない。これからは毎日必ず、君に想いを伝えようと思うんだ」

「ま、毎日っ!?」


 ハルトバートの言っていることは分かる。彼の誠実さも理解している。愛の告白を受けるのは幸せなことだ。それでも毎日となると、こちらの心臓が持たない。こんなにドキドキしていることを、彼にもわかって欲しい。

 そこでリトランジェは閃いた。鼓動の高鳴りを言葉以外で伝える手段は、つい先日ハルトバートに示してもらったばかりだ。

 リトランジェは立ちあがり、ハルトバートの隣に来ると、彼の手を取った。

 

「リトランジェ、いったい何を……?」

「えいっ」


 掛け声と共に彼の大きな手のひらをその胸に抱きしめた。手のひらを通して鼓動を伝える。彼があの夜会でやったことを再現したのだ。


「わたしがどれだけドキドキしているかわかりますか? あんな風に想いを口にされると、こんなに胸が高鳴ってしまうんです。それが毎日となるととても耐えられません。そんなに何度も言わなくていいんです。あなたのお気持ちはわかっていますから……」


 リトランジェの心からの訴えに対し、しかしハルトバートは目を合わせてくれない。それどころか顔を伏せてしまった。なぜか耳まで真っ赤になっている。


「ハルトバート様、どうしたんですか?」

「その、なんだ……リトランジェ!」

「は、はいっ!?」

「こういうことは、まだ早いと思うっ……!」


 リトランジェは、自分には女性的な魅力が欠けているという先入観がある。その胸元も慎ましいものだ。だからこの状況の重要な問題点にすぐには気づけなかった。

 自分の胸元に男性の手を押し当てるということは、令嬢としてとても不作法なことだ。いや、身分に関係なく破廉恥極まりないことだ。

 リトランジェは火が付いたように真っ赤になった。ぱっと彼の手を離すと、頭を下げた。

 

「も、申し訳ありません!」

「いや、謝ることはない……むしろありがとうございます」

「な、なぜお礼を言うんですか!?」


 リトランジェとハルトバートは、お互いに気持ちを確かめ合った、深く愛し合う婚約者だ。

 それでも、恋愛初心者であることに変わりはない。二人の恋はまだ始まったばかりなのだった。



終わり

「婚約破棄を察知した令嬢が先手で婚約破棄を言う」というネタを思いつきました。

そのネタが成立するよう設定やキャラを詰めていったらこういうお話になりました。

ネタを思いついた時は浮気男をとっちめる系のお話になるかと思っていたのですが、全然違う方向にいってしまいました。お話づくりは相変わらずままなりません。


2025/4/15 18:30頃

 誤字指摘ありがとうございました! 読み返して気になった細かなところもあちこち修正しました。

2025/4/17、5/2、6/28

 誤字指摘ありがとうございました! 修正しました!

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