9. 白麗宮への訪問
「……白麗宮に公爵家の使用人か」
予定より随分早く仕事を終えたオリフィエルがぽつりと呟く。さっきは皇后のやることなど放っておけばいいと思っていたが、さすがに一度は様子を確認したほうがいいだろう。
「晩餐までまだ時間はあるな」
オリフィエルが署名を終えた書類を侍従に預けて、席を立つ。
「少し出かけてくる」
「どちらへお出かけですか?」
「白麗宮だ」
「もしや使用人の件でしょうか? でしたら私が直接追い出して──」
「いや、追い出す必要はない。少し様子を見て、晩餐までには戻る」
「……かしこまりました」
皇宮を出たオリフィエルは、白麗宮へと続く道をゆっくりと歩いた。コルネリアに会うために毎日のように通って慣れ親しんだ道だ。しかし、今後はもうこれまでのように頻繁に通ることはないだろう。皇后のために時間をかけて会いにいくほど暇ではない。今日は仕方なく行くだけだ。
白麗宮に到着すると、出迎えたのは今までの侍女たちだったが、すぐに公爵家の侍女たちがやって来た。
「お越しいただきありがとうございます。すぐにお部屋をご用意いたします」
「長く留まるつもりはない。すぐに帰るから適当な部屋に案内してくれ」
「かしこまりました。ご案内いたします」
公爵家の侍女たちに案内された部屋は、コルネリアに会いに来ていたときには、ほとんど使ったことのない応接間だった。あまり思い入れのない部屋の中で、ひとり皇后の訪れを待つ。
白麗宮がコルネリアのものだったとき、この離宮は俗世から隔てられた美しい楽園のように感じていた。しかし皇后の居所になってしまった今は、自分が場違いであるような居心地の悪さを感じる。この離宮でのコルネリアとの思い出が皇后に奪われてしまったようで腹立たしい。
(……いや、私がここに移り住むよう命じたのだから仕方ない)
コルネリアに居所の入れ替えを提案され、良い考えだと思って実際に主人を入れ替えることにしたのだった。皇后宮のほうが近くて通いやすく、白麗宮に皇后を追いやってしまえば、見たくもない顔を頻繁に見なくて済むからだ。
この命令によって傷つくだろうとは分かっていたが、それならそれでいいと思った。イレーネは自分ばかりが悲劇の主人公だと思っているのかもしれないが、それは違う。彼女だってまたオリフィエルの人生を狂わせた罪人だ。だからその罰を負うべきなのだ。
苛立ちから拳を握りしめたとき、コンコンとノックの音が響き、オリフィエルの心をざわつかせる声が聞こえてきた。
「イレーネです。お待たせいたしました」
部屋に入ってきたイレーネは、最後に見たときよりもいくらか顔色が良くなっている。そのうえ、ドレスも髪型もいつもとは違う明るく若者めいた雰囲気で、まるで公爵令嬢時代に戻ったかのようだ。
(もっと気落ちして悲嘆に暮れているかと思えば、新しい生活を随分楽しんでいるようではないか)
「お忙しい中、足を運んでくださってありがとうございます」
イレーネが向ける微笑みが厭わしい。
この女のせいで、自分はずっと見えない鎖に繋がれている気分だというのに、なぜこうも無神経に笑いかけてくるのだろう。
イレーネが憎らしい。
彼女が皇室にとって貴重な「先読み」の力さえ持っていなければ、政略結婚などせず、本当に愛する女性──コルネリアを皇后に迎えることができたはずなのに。
「使用人の件は勝手なことをして申し訳ないと思っています。兄が私を心配して気遣ってくれて……。許可できないということでしたら仕方ありませんので、仰ってください」
イレーネが寂しそうに眉を下げる。
そうやってこの女は、本当は許してほしいのに口には出さず、いつも健気に振る舞って見せるのだ。
「……白麗宮から出ないのであればいい。好きにしてくれ」
「ありがとうございます。あの、よろしければ一緒に庭を散歩など──」
「悪いが忙しい。そろそろ失礼する」
「そうですか……。お引き止めしてしまって申し訳ありません」
イレーネが傷ついたように胸に手を当てる仕草が鬱陶しくて、オリフィエルはすぐさま椅子から立ち上がった。
早くこの離宮を出よう。
そしてコルネリアに会って癒されよう。
足早に扉へと向かうと、イレーネに「お待ちください」と呼び止められた。
「クラバットがずれていらっしゃいます。今直しますので……」
「やめてくれ!」
首元に伸びてきたイレーネの手を思わず払いのけると、イレーネが「痛っ……」と小さく声を漏らした。見れば手の甲からわずかに血が出ている。きっと指輪が当たってしまったのだろう。
「……すまない」
「いえ、大したことありませんのでお気になさらず」
「……侍女に手当てしてもらえ。私はもう行く。見送りはいらない」
「分かりました。お気をつけて」
白麗宮を出てしばらく歩いたところで、オリフィエルは深い溜め息をついた。
イレーネにうっかり怪我をさせてしまった。神経が昂っていて過剰に拒絶してしまったせいだ。故意ではなく不慮の出来事だったが、自分のせいで血を流させたのはたしかだ。なんとなく後味が悪い。
それに、意外なものを見てしまったせいで、妙に心が落ち着かない。イレーネが「痛い」と言ったときに片目を閉じた、あの仕草……。
(──エレンと同じだった)
いや、そういう仕草をする人はきっと他にもいるはずだ。
たまたまイレーネも同じ仕草をする女性だったというだけで、特別気にする必要はない。
やはり早く皇宮に戻って晩餐に向かおう。
コルネリアに会えば、乱れたこの心も平穏を取り戻すだろう。
オリフィエルは白麗宮を訪れたことを後悔しながら、皇宮へと続く道を戻っていった。