8. 例外
翌朝、リシャルトはイレーネに約束したとおり、公爵家の使用人たちを連れて白麗宮へとやって来た。
元から白麗宮にいた使用人たちは突然の出来事に戸惑い、明らかに嫌そうな態度を見せていたが、公爵であるリシャルトが睨みをきかせると、瞬く間に従順になった。
「イレーネ様、ご無沙汰しております。お会いできて嬉しいです」
「ちょっとアンナ! イレーネ様じゃなくて皇后陛下でしょ」
「あっ……申し訳ございません、皇后陛下」
よく見知った顔の侍女たちが明るく挨拶してくれて、イレーネは久々に朝から朗らかな気持ちになった。
「気にしないで。むしろあなたたちには名前で呼んでほしいわ。よそよそしくしないでほしいの」
「かしこまりました。それではイレーネ様と呼ばせていただきますね」
「ええ、ありがとう」
懐かしい顔ぶれの侍女たちと話していると、リシャルトが安心したように美しい目を柔らかく細めた。
「今日からイレーネの世話は彼女たちに任せるから。何でも我儘を言って大丈夫だよ」
「我儘なんて言いません。でも、これからは落ち着いて過ごせそうです。皆を連れて来てくださって本当にありがとうございます」
「いいんだよ。僕はもう行かないといけないけど、またすぐ来るし、何かあったらいつでも呼んでくれて構わないからね」
「はい、分かりました」
「じゃあ、名残惜しいけどもう行くよ」
「いってらっしゃいませ」
リシャルトが白麗宮を出ていくと、公爵家の侍女たちが部屋の中をぐるりと見回して溜め息をついた。
「イレーネ様、このお部屋は居心地が悪いでしょう?」
「なんだか変な匂いが染みついていますもの。空気を入れ替えて、精油を焚きましょう」
「色々持って来ていますので、お好きな香りを選んでくださいね」
「ええ、ありがとう。楽しみだわ」
侍女たちのおかげで、この部屋も少しは居心地よくできそうだ。にこにこと精油の瓶を取り出して見せてくれるアンナに笑顔を返して、イレーネはどんな香りにしようかと期待を巡らせた。
◇◇◇
「ねえ、オリフィエル様。白麗宮のこと、知っていまして?」
「なんだ?」
その日の午後。コルネリアが新調したばかりのドレスを披露するためオリフィエルの執務室にやって来た際、ついでとばかりに話し始めた。
「アルテナ公爵が白麗宮に公爵家の使用人たちを送り込んだそうですの。オリフィエル様が許可なさったのではありませんわよね?」
「私は何も知らない」
「やっぱり! きっとイレーネ様が公爵にねだったんですわ。オリフィエル様の許可も得ずになんて身勝手なのかしら。そうやって自分のことしか考えないような方、わたくし許せませんわ」
きゅっと眉を寄せて怒るコルネリアを眺めながら、オリフィエルが最後に見たイレーネの顔を思い出す。
皇后宮を出ていく日、律儀に挨拶しに来たイレーネは、化粧の意味がないほどに青褪めた顔をしていて、今にも空気に溶けて消え入ってしまいそうだった。
あんなに茫然自失としていた彼女が、公爵に使用人の補充などねだるだろうか。それにイレーネはいつも周囲に遠慮ばかりしていて、自分の望みなど滅多に主張しない女だった。
(おおかた、妹に甘い公爵が無理やり送りつけたのだろうな。イレーネへの仕打ちを知って、さぞ怒り狂っているに違いない)
リシャルト・アルテナ公爵は義妹であるイレーネに甘い。ずっと一人息子として育ってきたところに、大人しく従順な妹ができて、兄としての庇護欲をそそられるのだろう。
誰にでも親切で礼儀正しくある一方、誰にも心は許さないような男という印象だったが、イレーネはその例外とばかりに溺愛する姿が不思議で仕方なかった。
(……だが、それは私も同じか)
オリフィエルにも、ひとりだけ例外と言える人がいる。
最愛の女性コルネリアだ。
彼女をそばに置き、彼女に愛してもらえるのなら、自分は何だって捧げるだろう。
コルネリアがいつのまにかオリフィエルに抱きつき、上目遣いで尋ねてくる。
「オリフィエル様、イレーネ様の勝手を見逃してよいのですか?」
「……放っておけ。皇后のことはどうでもいい。そなたがいてくれさえすれば」
「わたくしを愛していますか?」
「ああ、愛している」
オリフィエルの返事を聞いたコルネリアは満足そうに微笑むと、オリフィエルの頬に口づけて身体を離した。
「お忙しいオリフィエル様の邪魔をしたくありませんので、そろそろ失礼いたしますね」
「すまない。晩餐までには終わらせる」
「はい、また夜に」
オリフィエルの執務室を出たコルネリアは、自分を見つめる皇帝の熱い眼差しを思い出しながら、ふっと微かに笑みを漏らした。
「──そうよ、あなたはわたくしから離れられない。わたくしが『エレン』である限り……」
きっとコルネリアが皇后宮だけでなく、皇后の座を手に入れられるのももうすぐ。この国で最も高貴な女性になる日を夢見ながら、コルネリアは皇宮の廊下を歩いていった。