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7. 謝罪

「イレーネ!」


 大きな声とともに力強い腕に抱きしめられて、バルコニーの手すりから降ろされる。そうして目的地だった白い鋪道が見えなくなると、背中越しにイレーネを抱く腕にさらに力がこもった。


「イレーネ、今何をしようとしていたんだ! 手すりになんか立って危ないじゃないか!」

「ごめんなさい、お兄様……」


 死との境界からイレーネを連れ戻したのは、義兄のリシャルトだった。いつも穏やかで落ち着いている彼の声が今は上擦り、身体も微かに震えている。珍しく動揺を露わにした彼の腕の中で、イレーネはひたすら謝罪の言葉を繰り返した。


 ごめんなさい、馬鹿な真似をして。

 ごめんなさい、皇帝陛下の隣を奪われて。

 公爵家の役に立てず、こんな風に手を煩わせ、心配をかけてごめんなさい──。


 実際にはただ「ごめんなさい」としか言えなかったが、泣きながら謝り続けるイレーネに、なぜかリシャルトが同じ言葉を呟いた。


「──ごめん、ごめんよイレーネ」


 どうしてリシャルトが謝るのか分からない。彼はイレーネを助けてくれたのに。謝るべきは何もかもが不出来な自分のほうなのに。


 しかしリシャルトはイレーネを抱きしめたまま、後悔をにじませた声で謝罪を繰り返した。


「こんな辛い思いをさせて本当に申し訳ない……。僕が悪かったんだ。イレーネを……君を皇帝になんて嫁がせたから──」


(そんな……お兄様のせいではないのに……)


 イレーネとオリフィエルの婚姻を決定したのは前皇帝であるし、イレーネを養女として引き取ったのは前公爵──リシャルトの父親だ。だからリシャルトには何の責任もない。


 それなのに、なぜこんなにも自分を責めるのだろう。なぜイレーネのために涙を流してくれるのだろう。


「……ついさっき、イレーネが皇后宮から白麗宮に追い出されたと報せを聞いたんだ。居ても立っても居られず駆けつけてみれば、君があんなことをしているから驚いて……」

「お兄様……」

「君が受けた仕打ちを思えば、すべてを投げ出したくなるのも分かる。でも。死ぬのだけはやめてくれ。それだけは……僕が耐えられない」


 リシャルトのアイスブルーの瞳が怯えるように揺れている。その(まなじり)で透き通った涙が月光を反射してきらりと光った。


「……お兄様、驚かせてしまってごめんなさい。もうあんなことはしません。だからもう自分を責めないでください」


 悲痛な面持ちのリシャルトを見上げてお願いすると、彼はイレーネが生きていることを確かめるかのように頬を撫で、それでもまだ辛そうに眉を寄せた。


「こんなにやつれてしまって可哀想に……。生誕祭の日はあんなに幸せそうだったのに」


 リシャルトの呟きにあの日の夜のことを思い出して、イレーネは悲しげに睫毛を伏せた。


「……生誕祭の夜に、皇后宮を出ていくよう陛下に命じられたのです。離婚はしないが、コルネリア様と居所を交換するよう言われて──」

「何だって……?」


 あの時のことを思い出すと、それだけでどうしようもないほど息が苦しくなる。辛い記憶にわずかに顔を歪ませると、リシャルトが小さな声で「あの男……」と吐き捨てるのが聞こえた。そして怒りの感情を映した双眸がイレーネへと向けられる。


「もういい、イレーネ。君は充分我慢した。これ以上、彼らのために君が傷つく必要はない。こんな場所、今すぐ出ていこう。うちに帰ろう」


 リシャルトがイレーネの手を握る。力強いその手から、今にもイレーネをこの白麗宮から連れ出そうとする意思が感じられる。


(そうできたら、どんなにいいだろう。でも……)


 イレーネがもう片方の手でリシャルトの手に触れ、まだ涙の滲む目で彼を見つめた。


「私のために怒ってくれてありがとうございます。ですが、それはできません。他の貴族たちから何と言われるか……。公爵家の名前に泥を塗りたくありませんし、お兄様にご迷惑をお掛けしたくありません」


 公爵家に逃げてしまえば、貴族たちには皇后が実家に帰らされた、あるいは愛人に負けて逃げ帰ったと思われてしまうだろう。きっと公爵家にとっては痛手となってしまう。


「イレーネ、こんな時まで噂の心配なんてしなくていい。それに実家に帰るより、愛人がいた白麗宮に住まわされるほうが屈辱的な冷遇だ。そんな命令に従う必要はない。どう噂されようと僕がイレーネを守る」

「お兄様……」


 リシャルトの言っていることは正論だ。公爵家の体面を保つなら、白麗宮に留まるより公爵家に帰るほうがいいのかもしれない。


(でも……)


 公爵家の当主である義兄の説得に(うなず)けないでいるイレーネに、リシャルトが気遣わしげに問いかけた。


「もしかして、まだあの男に未練があるのか?」

「……はい」


 リシャルトからそっと目を逸らして、イレーネが返事する。


 妻であるイレーネではなく、愛人の伯爵令嬢コルネリアを寵愛する皇帝オリフィエル。彼から皇后宮を追い出され、皇后の権威も自尊心も粉々に打ち砕かれてしまった。本当に酷い人だと思う。


 けれど、ここまでされてなお彼への想いを完全に手放すことはできなかった。


 公爵家に帰れば、オリフィエルと会うことはできなくなってしまうだろう。彼がわざわざイレーネを訪ねてくることはないはずだから。


 でも、白麗宮(ここ)にいれば、もしかしたら彼が来てくれることがあるかもしれない。会話は叶わなくても、顔を見ることはできるかもしれない。


 そんな不毛な願いを捨て去ることができなかった。


「──イレーネがそうしたいなら仕方ない」


 リシャルトがどこか悲しそうに眉を下げ、イレーネの冷えた手を優しく握り直した。


「でも、こんな味方のいない場所にイレーネをひとりでいさせられない。明日すぐに公爵家から使用人を送るよ」

「え……でも勝手にそんなこと、いいのですか……?」

「向こうが先に勝手をしたんだ。このくらい許されて当然だろう。それと、僕もできるだけここに通うよ。イレーネに寂しい思いはさせない」

「お兄様……本当にありがとうございます」


 リシャルトの心遣いがたまらなく嬉しい。

 さっきまで空っぽだった心にまるで暖かな火が灯ったようだ。


「……よかった、少し笑顔が戻ったね」

「お兄様のおかげです」


 いつだって優しいリシャルトの大きな手で頭を撫でられながら、イレーネはもう少しだけ頑張ってみようと決意した。


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